第五章 スイミー 6

          * 6 *



『お主がヘタレのタクトか』

「ヘタレって……」

 権能を発動し、ゴローの魂の片隅に見つけた、ゴローとは違う存在の感触。

 それに呼びかけた途端にかけられた声は、そんなだった。

『お主の言うゴローにとっては、お主の評価はそんなものだな。まぁ、ただのやっかみに過ぎないようだがな』

「やっかみ?」

『うむ。自分の持たぬものを持っているお主に対する、嫉妬がこやつの行動の中身だ』

「ゴローは、俺なんかよりよほどたくさんのものを持ってるだろうに……」

『人とはそういうものだろう? 生まれたときより持っているもの、与えられたもの、自分が手に入れてきた多くのものより、自分では手に入らず、他人が持っているたったひとつのものを欲しがる』

「そうかも知れないけどさ……」

 ラキのときと違い、何かが見えてるわけじゃない。

 野太く、恐ろしげで、嗄れていて、まさに魔族の王と呼ぶべき声音なのに、俺なんかよりもよほど知的な言葉が頭に響いてくる。

『さて、タクト・シンジョウ。ワシに権能を受け入れろとは、如何なる理由か?』

「俺は……、みんなを救いたい」

『みんなを? ウソを吐くな。もしワシがお主の権能を受け入れたならば、ゴローは弱体化する。ゴローは救われんのではないか?』

「……その通りだ。言い直す。俺は、俺の守りたい人たちを助けるために、お前に俺の権能を受け入れてほしい、スイミー」

『良くもまぁ利己的なことを。それにわかっているのか? タクト。誰に向かってモノを言っておるのか』

「うっ……」

 そう言った途端にスイミーの雰囲気が一気に黒くなり、襲いかかるような禍々しさを俺に向けてくる。

『自らは号しておらぬとは言え、お主は魔王の力を持つ魔人に対し、自分に従えと言っておるのだぞ?』

 決して語調を険しくしているわけじゃない、スイミー。

 それなのにその言葉は俺に対し、魂が震え上がるほどの恐ろしさを与えてくる。

 ――でも、俺はここで引き下がるわけにはいかないんだっ。

 トールが、ラキが、アーシャが、そして姫やリディさんが戦っていてくれる。

 彼女たちを死なせるわけには、絶対にいかない。

 だから俺は、説得してでも、できるとは思えないがスイミーをねじ伏せてでも、権能を受け入れさせるしかない。

「信じろ、というのが難しいことはわかってる。でも、すでにオルグだったトール、キラーアーマーだったラキ、死にかけていた最後のライム竜族のアーシャっていう実例がある。スイミー、君が望んでいるなら、俺の権能によってゴローから魂を分離させて、新たな身体を与えることができる」

『ワシに女体になれ、と?』

「うっ……。たぶんそう、なると思うけど……」

 俺の反応に、なぜか声もなくスイミーが笑った気がした。

 ――もしかして、楽しんでる?

 わからなかったけど、何となくそんな雰囲気を感じた。

 ――いやたぶん、俺はいま試されてる。

 スイミーは俺の言葉から心を見透かし、それどころかあちらからこちらの魂に触れ、言葉以上のものを引き出している感じがある。

 スイミーによって俺は、試されていた。

 俺はその試しに、合格しなければならない。

「それに、ゴローを倒さないと、討伐軍と魔王軍の戦いが終わらない。姫の指示で、いまはまだ討伐軍は戦闘を開始してないはずだ。スイミー、貴方にとって魔王軍は……、魔群は、大切な存在なんだろう?」

 なんとなく、俺は断片的な情報からそう感じていた。

 ガルドが伝えてきた、まだゴローに取り込まれ切れていないスイミーの存在。

 おそらくゴローの指示ではない、メイプル要塞の周辺で畑を耕しているという妖魔たち。

 そしてライム竜族との戦闘により、荒れ果ててしまった北の山岳地帯。

 何より、知的で聡明だろうスイミーが、ゴローみたいな奴に騙されて取り込まれることになった理由。

 すべては魔群に襲いかかった食糧難を回避するため、食料自体の確保と、一番は食料の生産技術を手に入れるためにやったことなんだと、俺は想像した。

「それから、少なくともガルドは、貴方の復活を望んでいる」

 しばらくの間、スイミーは沈黙していた。

 少しして、その沈黙は逡巡しているのでも、答えが出せないのでもなく、笑っていることに気がついた。

『くっくっくっくっくっ……。あーーーーっはっはっはっはっ! 正解だ、タクト殿? おそらくお主が想像している心配と、魔族たるワシの心配とは、大きく異なるものであろうがな。ゴローのときはワシとしたことが少々焦りすぎて、人間の知識をくれるという彼奴の甘言にまんまと騙されたが、お主は良いな。存外に面白い。よかろう、お主の権能、受け入れてやろう』

「ありがとう」

『ふふっ。ワシもそろそろここにいるのには飽きてきていたからな。それに、ワシも少々長く生きすぎた。ここいらで生まれ直してみるのも、悪くないだろう』

 そんなことを言うスイミーは、それまであった迫力が消え、どこか、老い衰えた老人のような、寂しくも悲しい、そして重々しい空気を纏っているように思えた。

『だが、姿についてはワシに任せてもらうぞ』

「それは、まぁ別に……」

『すでに好みのオナゴは手元に揃え終えたか?』

「そっ、そういうわけじゃないけど!」

 俺を弄んで楽しんでるらしいスイミー。

 姫にも散々いじられたけど、スイミーのそれは頭の回転も一段上で、さらに見下ろしてくる視点が姫のよりももう何段か高い、まさに魔王からの視点のようで、抗いづらかった。

 スイミーの魂が俺の魂に寄り添ってくるのを感じる。

 まるで手のひらと手のひらを合わせて向き合うように、俺はスイミーと対峙する。

「俺の想いと貴方の願いを沿わせ、魂を解放する!」

 そう宣言した瞬間、黒いと感じていた周囲の空間が、もぞりと動いた。

 たぶん、それはスイミーの持っていた、魔。

 瘴気によって生まれたスイミーから魔だけが剥がれ落ち、俺の身体へと入ってくる。

『気をつけろよ、タクト殿。ゴローのもそうであったが、お主の権能も、ただ魂を解放するだけのものではないぞ』

「それはどういう――」

 突然の言葉にその意味を尋ねようとしたときには、俺とスイミーの間に生まれた空間が、真っ黒から真っ白になり急速に離れていくのを感じた。



            *



 ゆっくりと目を開けると、目の前にあったはずのゴローの巨体はなくなっていた。

 代わりに、すぐ側にいたのは、大きくなる前のゴロー。

 ぼろぼろになった服はかろうじて着てる彼が、呆然とした顔で見つめているのは俺じゃなく、俺たちの傍に浮いている割と小さな物体。

 けっこう硬そうな赤いセミロングで、左右にクセのついたツーサイドアップに結った髪は、まるで羊の角を模したかのよう。

 ツヤツヤとかスベスベという表現よりも、むっちりというのが似合う感じのある、トールよりもさらに濃いめの肌。

 七、八歳に見えるアーシャも充分幼いと思っていたけど、何に支えられることもなく、ふんわりと浮いているその子の外見年齢は、さらに幼い。

 たぶん四、五歳の稚児。

 顔立ちもぷっくりしてて幼げなのに、彼女の知性といたずら心を含んで見える茶色の瞳を見た瞬間、俺は気づいた。

「スイミー……」

「どうだ? タクト殿。こんな可愛らしい女の子の姿というのは」

「生まれ直すって、そういう意味だったのかよ……」

「くっくっくっくっ」

 魂と魂をつき合わせた時に感じた、魔王らしい雄々しいものではなく、小さな鈴を鳴らしているような、少しけたたましいけど、軽やかな声音。

 それでもあのとき感じた圧力はそのままの、スイミー。

 人間サイズにゴローが着ていた、はったりみたいに豪華な軍服っぽいものの女の子版を身につけてるスイミーは、空中に浮かんでいながら座っているように足を曲げ、ショーツに包まれたヒップラインが俺の位置からだと丸見えだ。

 さすがに、第一次性徴すら迎えていない、むちっとしたそのお尻に、何かを感じることはないけど。

「スイミー、だと?」

「あぁ、その通りさ。元、魔王様」

 元、を強調して言い、スイミーはへたり込んでるゴローに嘲りの笑みを投げかける。

「タクト様、成功?」

「うん、上手くいったらしい」

「良かった……。いや、まだわからないですね」

 身体から力が抜けてしまっている俺を立たせてくれ、ラキとトールがスイミーとゴローから離れたところまで引っ張って行ってくれる。

 アーシャと姫、それからリディさんも、俺の元に集まってきて、ゴローとスイミーに厳しい視線を向けていた。

「俺様の中に、いたはずなのに……」

「タクト殿の権能を受け入れ、分離したのだよ。この生まれ直した新たな身体を手に入れて、な。まぁいまは、魔族ですらなく、瘴気から魔を引き剥がした純粋な力だけを持つ、竜王か亜神に近い存在になってしまっているがの」

「ふざけんな! 一度俺様に取り込まれたクセにっ」

「しかし取り込み切れていなかったろう? 取り込まれる一瞬、ワシはお主に対し、強烈な不審を感じたでな。お主に完全に取り込まれぬようにしたのだ」

「だったら今度は、てめぇを完全に取り込んでやるよ!」

 立ち上がったゴローは、浮かんでいるスイミーの額から目の辺りをわしづかみにした。

 そして権能の言葉を唱える。

「キマイラ!」

 だけど、なにも起こらない。

 俺のソウルアンリーシュと同じなのだとしたら、スイミーに拒否されたとしても、身体から薄い光が放たれるはず。

 なのに、なにも起きない。

 キマイラが、発動しない。

「……なんでだ? キマイラ! キマイラ!! キマイラーーーーーッ!!」

 目を見開いたゴローが何度も叫ぶけど、やはりなにも起きなかった。

 そのとき俺は気づいた。

 ゴローの手に隠れていないスイミーの口元が、大きく歪んで笑みの形になっていることに。

「ぐがっ! ああああああぁぁぁぁぁーーーっ!!」

 叫びを上げて床に転がったゴロー。

 ごろごろと左右に転がりながら、両手で押さえている太ももからは薄く煙が上がり、見てみると床には小さな穴が空いている。

 その射線の根元になる場所には、広げられたスイミーの小さな手があった。

 ――破壊の光?

 たぶんスイミーが使ったのは、彼女が光の魔人と呼ばれる理由になった魔法、光をその手から放ったんだ。

 光の煌めきすら見えなかったその攻撃は、ビームとかレーザーとかの、床の石に穴を開けるほどの威力。それによりゴローの太ももに穴が穿たれたんだ。

「そうそう、元魔王様にひとつ謝っておかなければならないことがあってな」

「謝って、おかなければならない、こと?」

「うむ。だから謝っておく。済まぬな」

「いったい、何のことだよ」

 痛みが我慢できるようになってきたのか、まだ床から立ち上がれないものの、額に玉の汗を浮かべたゴローは、スイミーの言葉に顔を歪めながら疑問の言葉を返す。

「キマイラは、ワシがもらった」

「……は?」

「お前のキマイラとかいう権能な、あれはワシがもらっておいた。済まん」

 少しも申し訳なさそうな様子はなく、片眉をつり上げてゴローを見下ろすスイミーは、楽しそうな笑みすら浮かべている。

「も、もらった、だと?」

「うむ。完全に取り込まれていなかったとは言え、魂は癒着していたからな。剥がしてこの身体に移るとき、お主が取り込んだ魔族や妖魔の力をこちらに持ってくるついでに、お主の権能ももらっておいたぞ。これでお主はもう何もできない、無能なガキじゃ」

「全部、お前が持っていった? ふざけんな! 俺様の権能だっ。俺様が取り込んだソウルコアだ! 返しやがれ!!」

 右足を引きずりながら、薄笑いを浮かべるスイミーに近づき、手を伸ばしたゴロー。

 笑みを浮かべたまま動かない彼女に、ゴローの手が届くと思った瞬間。

「ぐぼっ!」

 ゴローの身体が吹き飛んだ。

「ぐっ……、は……。ガッ、ガルド、てめぇ! 俺様に何しやがるんだ!!」

「ワタクシはスイミー様に仕える身。すでにお前の魂にスイミー様はなく、ただの小僧でしかないお前に、なぜ従わなければならないのでしょう?」

「ただの、小僧……」

 蹴られて血を吐き、それでも起き上がったゴローは、口調こそ丁寧な方だけど、明らかに蔑みが込められたガルドの言葉に呆然とする。

「さて小僧。よくもワシに知識をやると言って謀り、取り込んでくれたな。それについてはまぁ、ワシの落ち度もあるからな、目をつむってやらんでもない」

「はっ、はは……」

「だが、逆らえぬワシの僕(しもべ)たちをも取り込み、さらに人間の町に攻め入って、いたずらに魔群の者たちを減らしてくれたことについては、看過できぬ」

「やっ、やめろ……。俺様はもう、何の力もないんだっ。何かされたら、死んじまう……」

「あぁ。だから死ねと言っている。いまは力がなくとも、お主のやったことには変わりあるまい? お主の罪はお主が贖う。そのことに何の不思議があろうか?」

「イヤだっ。死にたくねぇ。もう二度と、死にたくねぇ!」

 立ち上がれないゴローは、お尻を床にこすりつけながら逃げようとするけど、上手くいかない。自分が開けた床の窪みにはまり、ばたばたと手足を動かしてるだけだ。

「ガルド、そちらの首尾は?」

「できれば春までは続けたいところでしたが、最低限畑のつくり方を学ばせることはできました。オークやオルグには不安がありますが、ゴブリンについては大半が文字も憶えましたので、必要な書類を一群ごとに行き渡らせてあります。人間の商人とも渡りをつけることができましたので、充分とは言えませんが、どうにかはなるでしょう」

「表の方は?」

「睨み合いのみで済みましたので、すでに撤退はほぼ完了しております。しんがりの部隊に多少の被害が出るかも知れませんが、大規模な戦闘はこれ以上発生することはありません」

「なるほど。まぁ要塞攻略の手際が悪すぎて消耗したが、結果としては上々と言ったところだな」

「はい。もうまもなく、人間共もこちらの撤退に感づいて、要塞都市に入ってくることでしょう。ここもしばらくすれば、人間の兵士で溢れます」

 やっぱり、スイミーは元々魔群の食糧難対策をする方法を考えていて、そこをゴローにつけ込まれたようだった。

 要塞攻略で歪魔はずいぶん減ったが、充分な成果を得ていつの間にか知らないが、撤退もだいたい終わってるらしい。

 それをやったのは、スイミーの意志を継いだガルドや、魔群をまとめる魔族たちだったようだ。

「そしてタクト殿。お主には礼を言う。もう一度ワシを産まれなおさせてくれてありがとう」

「いや、えぇっと……、そんな姿でよかったの?」

「うむ。なかなか調子が良いぞ。幼き身体ゆえ、できないこともあろうが、成長する身体というのはおもしろいものだ」

 茶色の瞳が俺のことを見つめ、にやりと笑んだ。

 突然こちらに振られてそんなことを言われた俺は、うろたえてしまう。

 警戒して俺の左右で武器を構えるトールとラキの間で、俺は情けない表情をスイミーに見せていた。

「しかし、ワシはお主の眷属となったが、いまのお主に従う気はない」

「スイミー! なぜ眷属の身でありながら、タクトに逆らうっ」

「逆らうつもりなどないさ、トール。お主もわかるであろう? タクトの心は弱い。その魂は脆弱だ。眷属とは言え、主に絶対服従というわけではない。ワシを従えたくば、もっと心を鍛えよ。お主が充分に心を鍛えたならば、その暁にはお主の言葉に耳を貸そう」

「……わかった」

 幼い子供が見せるにはあまりに邪悪で、でも楽しそうな笑みを浮かべているスイミー。

 その言葉に頷いた俺を見て、彼女は嬉しそうに頷きを返してきた。

「それと、そこの小僧の処遇についてはお主らに任せる。ワシはもう魔族ではない。魔群に対する義務も責任もない。ワシはもう光の魔人ではないのだ。そうさな……、光の幼女、かの? ふふっ」

「いや、それはちょっと、センスなさ過ぎだろ……」

「ネーミングセンスの無さは主譲りだよ、タクト殿。ではさらばだ。またいつかどこかで会えたときは、一緒に酒でも酌み交わそうぞ」

「幼女が酒飲んで良いのかよ」

「くくくくくっ」

 本当に楽しそうに笑うスイミーは、俺たちに深々と礼をしてきたガルドに抱えられ、姿を消した。

 そしてこの場には、俺とトールとラキとアーシャ、それから姫とリディさん、さらに、ゴローだけが残された。



            *



「お前も、俺を殺したいのか?」

 そう言いながら、片足を引きずりつつ立ち上がり、口元に残った血を拭うゴロー。

 その顔はスイミーを取り込んでいたさっきとは違い、恐怖に歪み、身体は震えている。

 ――殺す?

 近づいてきて懇願の瞳を向けてきているゴローは、目尻に涙を溜めていた。

 服も身体も顔もぼろぼろになった、いま目の前にいる男は、俺に自殺を考えさせるほどまでに精神的に追い詰めてくれた奴だ。

 金銭的な要求はすべて拒否したけど、肉体的なイジメは相当のものだった。もしこいつが地主の息子じゃなければ、テレビのニュースになってもおかしくないレベルの。

 そしてこいつのイジメは――イジメという名の犯罪行為は、俺だけが対象じゃなかったから、もしかしたら自殺に追い込まれた人がいたかも知れないくらい、陰湿だった。

 殺したい。

 それをあのとき、何度思っただろうか。

 けれど、俺は前の世界で生きているとき、ゴローの前に立つと身体が震えて、吐き気がして、抵抗する気力もなくなっていた。

 それがいまは、哀れにすら思える。

 もしかしたらいまのこいつは、演技をしてるだけかも知れない。

 でもこいつは、本気でも演技でも、俺に命乞いをしなければならない立場にまで落ちたんだ。

 ――勝った……。勝てた?

 ゴローよりも上の立場になれたという達成感。イジメてきた相手にこんな顔をさせたという、勝利の気持ち。

 それはある。

 しかしなんだろうか。あまり嬉しくない。楽しくもない。

 逆の立場だったら、ゴローは俺のことを足蹴にして笑い転げていそうな気がしたけれど、涙を溜めてこちらを見てくるこいつの顔に、興味が湧かない。

 すっきりとはしてない。

 だとしても俺はもう、ゴローを殺したいとまでの強い気持ちがなくなっていた。

 だから俺は、俺の手をつなぎ、もう震えることなくゴローのことを睨みつけている幼き竜王に訊いてみる。

「アーシャは、どうしたい?」

「ボクは……」

 俺の方を一瞬見てから、逡巡するようにうつむいたアーシャ。

 すぐに顔を上げた彼女は、視線は鋭いけれど先ほどまでの強さはなくなっていた。

「ボクはもう、こんな奴どうでもいいっ。いまでも殺したいよ? いまでも怖いよ? でもね? タクトさん。もうこいつは魔王じゃない。人間でもない。痛いって言って、死にたくないって言って、ただそれはボクやタクトさんにお願いするだけの、動物」

 目を鋭く細め、アーシャは言い放った。

「こんなくだらない奴、殺す価値もない!!」

 一瞬、ゴローの顔が屈辱に染まるが、すぐにアーシャから視線を外してうつむいた。

 反論の言葉は、ゴローからはもう出てこなかった。

 ――あぁ、そうだな。アーシャの言う通りだ。

 俺の腹に顔を埋めるようにして抱きつき、アーシャは肩を震わせ始めた。

 たぶん、つらくて、悲しくて、寂しいんだろう。

 魔王にだったら向けることができていた強い感情が、いまの無力になったゴローには向けきれない。

 それはとても虚しく、寂しい気持ちなんだ。

 俺はアーシャの涙を理解して、ゴローに目を向ける。

「俺もアーシャと同じだ。さっきまでのお前だったら殺しても飽き足らなかったが、いまのお前はくだらない存在だ。殺す価値もない。消えてくれ。それだけだ」

 アーシャの言葉を繰り返し、ため息を吐く。

 一瞬大きく口を開いたゴローは、やはり言葉を返してくることはなかった。

「ラキはどうだ?」

「ワタシはとくに。キラーアーマーになりきれていなかったワタシを動けるようにしたのはゴローですが、それは彼が勝手にやったことで、とくに恩も怨みもありません」

「トールは?」

「タクトを傷つけたことは許すことなどできません。ですが、タクトがもう良いと言うなら、わたしはそれ以上言うことはありません」

「うん……」

 俺たちの中で、ゴローへの決着はついた。

 こいつにつけられた心の傷が完全に癒えるには、時間がかかるだろう。それほどに深いものだったから。

 けれどその傷は、ゴローを殺したところで癒えるわけでも、癒えるのが速くなるわけでもない。

 そして取り込んだ歪魔の力も、キマイラの権能も失ったこいつは、もう俺たちの脅威になり得ない。

 だったら、殺すこと自体が無意味だ。

「ありがとう……。ありがとう……。ここを離れたら、どこかで怪我を治して、別の国にでも行くことにする。幸い言葉はどこの国でもジョーカーの使徒とかって奴は苦労しないみてぇだからな。どこかお前たちに出会うことのない、遠くの場所で静かに暮らすことにするさ」

 うつむいたままそう言ったゴローは、足を引きずりながら俺たちの横をすり抜け、入り口の大扉に向かっていった。

 アーシャのことを抱きしめる俺は、近づいてきてくれたトールとラキに、力ない笑みを投げかけていた。

 戦いは終わった。

 討伐軍と戦うことなく魔王軍は撤退し、魔王は力を失い遁走する。

 俺の眷属にしてしまった、もう魔族ですらないスイミーのこと、撤退した魔王軍のことは気がかりだけど、いまの俺にはどうすることもできない。

 姫と出会ったことで始まった魔王軍との、ゴローとの対決は、いま決着がついた。

 虚しい気持ちだけを、残して。

 そう、俺は思っていたんだ。

「やめろ! な、なにしやがるっ」

 そんなゴローの声に振り向くと、仰向けに倒れたあいつと、その胸に足を乗せ、睨みつけている姫がいた。

「姫、何を――」

「近づかれないよう」

 姫の元に駆けつけようとした俺たちを止めたのは、両手を広げたリディさん。

 物静かで、知的で、理性的な彼女は、いまは感情を剥き出しにした怒りを瞳に湛え、俺たちに立ち塞がっていた。

「リディ」

「はい」

 ガルドにかなり強く蹴られたからだろう、姫の体重なら押しのけられるだろうに、いまはバタバタと暴れるだけで逃げられないゴロー。

 姫の声に応えてスカートに触れたリディさんは、どことも知れないところから鞘に収まった細身の長剣を取り出し、姫に投げ渡した。

「やっ、やめろ! 俺様にはもう何の力もないっ。無力な人間だ。それを――」

「それがどうした? タクトたちはそれで納得したかも知れぬが、王女である私は、ほんの一端とは言えこの国の政を担う私にとっては、お前が無力であるかどうかなど、関係がない」

「ひっ」

 鞘を捨て、長剣をゴローの眼前に突きつける姫。

「姫!」

「黙っていろ、タクト。これは私の――、いや、我がエディサム王国の問題だ。いまお前が口を挟むことは、たとえ魔王討伐の英雄であっても、許しはしない」

 言って視線だけで睨みつけてくる姫に、それ以上俺はなにも言えなくなった。

 緑がかった彼女の瞳はいま、燃え上がるように強い色を持ち、揺らいでいたから。

「ゆっ、許してくれ! あのとき、スイミーを取り込んでいたから、魔群を率いるしかなくて……」

「はっ、何を言う? 魔人スイミーは確かに食糧難を解決すべく知識を求めていたかも知れない。しかしながらスイミーは、何年も人間を攻めようとはしなかった。メイプル要塞を攻めるという判断を下したのはお前だ。違うか?」

「いや、それは……、仕方なくというか……」

「それにお前は私に向かって言ったではないか。兵士長を痛めつけたが、つまらないから殺した、と」

 徐々に、姫の声が低く、重く、響き始める。

 怒り。

 純粋で、強い怒りが、ゴローを踏みつける姫から放射されていた。

「それは、その……」

「お前は自らの快楽のために、兵士長を痛めつけて殺した! お前の安易な決断によって、スイミーの魔群はもちろん、我が国の兵が死に、我が国の民は虐げられることになった!! 違うか?! ゴロー!!」

 火を吐いているような姫の言葉に、俺だけじゃなく、トールやアーシャも息を飲む。

 姫がゴローに向けているだろう燃え上がるような瞳を、俺たちを前に進ませないよう立ち塞がってるリディさんも、顔を振り向かせてあいつに向けていた。

「だから、その……」

「まだ言うか! お前は元ではあっても、魔王だったのだろう? ならば自分のやったことに胸を張れ! 人を殺し、蹂躙したことを誇って見せろ!! 負け犬の言い訳など聞きたくないわ!!」

 それ以上、ゴローの口から見苦しい言い訳は出てこなかった。

 姫の迫力にか、それとも生への執着でか、ゴローは涙を流し、懇願する。

「ゆっ、許してくれ! もうこれ以上迷惑はかけないっ。どこか遠いところで静かに暮らすから!」

「ならば訊こう。お前は我が国の兵士に、ひとりでも情けをかけてやったか? 私は聞いているぞ。片っ端から捕らえ、民の前で処刑したと! 情けがほしいか? よかろう。私もお前に情けをくれてやろう。我が国の兵たちにかけてくれた分だけな!!」

「やっ、やめ! 死にたくな――」

「うるさいわ!!」

 言って姫は、剣を横に振るった。

 ゴローの首から血が噴き出し、声が出なくなる。のど笛を切り裂かれていた。

「お前は……、お前は私の大切な者を奪った……。かけがえのない、私の宝を殺したのだ! 命乞いで許されると思うたか!! 私の宝を苦しめ、自らの快楽に供したお前のことは、殺しても殺し足りないわ!!」

 首を大きく振って落ちてきていた髪をなぎ払い、姫はもう言葉を発することもできず、吹き出しそうになる血を必死で抑えているゴローに言葉を叩きつける。

「できるならば、じわじわと苦しめ、私の宝が受けた苦しみの百倍を与えて殺してやりたいところだっ。だが、お前の醜い顔をこれ以上見ていたいとは思わん。せめてもの情けだ。苦しまずに死ね」

 言って姫は、長剣をゴローの胸にあてがった。

 両手を柄頭に乗せ、身体ごと覆い被さるようにして、押し込む。

 ゴローは両手で剣を挟んで止めようとするが、血に濡れた手で止められるはずもない。

 ずぶずぶと、ずぶずぶと、剣が胸に沈み込んでいく。

「ふっ」

 小さく声をかけて最後のひと息を押し込んだ。

 ビクリッ、と大きく痙攣し、それ以降動かなくなったゴロー。

 姫が剣を引き抜くと、勢いよく血が噴き出した。

 ほんの一瞬、破裂した水道管のように。

 赤い飛沫が彼女の黒い服を濡らし、彼女の顔を赤く染める。

 姫は天井を仰ぎ、血がかかるのも気にせず、しばらくそのまま立ち尽くしていた。

「済まぬ……。済まぬ、タクト」

 完全に動かなくなったゴローの身体から足をどけ、力なくぶら下げていた剣を手放した姫は、俺の方を振り向いた。

 涙の雨。

 ゴローの血で染まる顔を洗い流すように、姫は滂沱の涙を流していた。

 ゆらゆらと、おぼつかない足取り。

 俺の元まで身体を無理矢理動かすようにしてやってきた姫は、服をつかんで見上げてくる。

「我が国の問題? 国民を虐げ、殺したから? ウソだ。全部ウソだ! これは、私闘だ、私怨だ。自らの手で魔王を殺すために、私は拒絶もできた先遣隊の話を受け、ここに来たのだ。私の宝……。王宮の中で、たったふたり、リディと彼だけが、私のすべてを話し、任せられる存在だったのだ。――それを魔王が、ゴローが殺した。私は、それが許せなかった……」

 あまりに多くのものを背負い過ぎている姫。

 生まれた瞬間から、聖女と呼ばれるようになってから、そして母親が他界してから、背負っているものはどんどんと重くなっていったはずだ。

 そんな姫が、いまは年相応の少女のように身体を震わせ、涙を流し、俺の胸にすがりついてきている。

「済まぬ、タクト。私はお前を、お前たちを、私怨の戦いに巻き込んだのだ……。許せとは言わない。わかれとも言わない。だが、ありがとう。タクト、お前のおかげで、私は、私の宝の仇を討つことができた……」

 俺の胸に顔を埋めて、あとはもう泣き続ける姫。

 俺はそのとき、やっと理解した。

 姫と、リディさんが常に来ていた服が黒い理由を。

 喪服だったんだ。

 たぶんこの要塞の、若く有能だったという兵士長。彼の仇を討つために、姫は女王になるという野望も、自分の命を捨ててでも、ゴローと直接戦い、自らの手で決着をつけることを望んだんだ。

「――」

 声をかけてこようとしたトールを、首を横に振って止める。

 リディさんも、両手で顔を覆って肩を震わせていた。

 ラキは天井を仰ぎ、ここからでは見えない空を見つめていた。

 アーシャもまた涙を流し、唇を引き結んで堪えているトールを見つめる俺は、姫を両腕で抱き、泣いていた。

 そしていま、本当にいま、魔王軍との戦いが終わった。

 魔王との対立に、決着がついた。

「済まぬ、タクト、いまは、いまだけは、お前の胸を貸していてくれ……」

「あぁ」

 素直で、裏も表もない、いまはただの一四歳の女の子、カエデ・エディリア。

 俺は彼女のか細い身体を抱き寄せ、黒く艶やかな髪をなで続けた。

 姫はその後、兵士たちがここになだれ込んでくる直前まで、静かに肩を震わせていた。

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