第一章 トール 2
* 2 *
走る。
とにかく走る。
人の手が入っていない森は木の生え方がごちゃごちゃしていて、下生えも邪魔で走るのが難しい。
せめて地面が平坦だったらまだマシだけど、たぶん元々溶岩か何かが流れ込んでできた地域だったんだろう、数歩から十数歩で岩があったり窪地になっていたり、さらにそうしたものが木や草で隠されていて、もう何度転んだかわからない。
背後からは、ブヒブヒとかって獣の鳴き声が聞こえる。複数。
森の中でイノシシと出会うのは危険だと話に聞いたことがあるけど、子供の頃にキャンプと学校の林間合宿以外で自然に触れ合う機会がほとんどなかった上に、ここ半年ばかり引きこもってた俺には、自然の中にいるという感覚がない。動物との遭遇なんてまっぴらゴメンだ。
でも奴らは野生動物なんかじゃない。
少なくとも二足歩行で、腰の粗末な布の他に、サイズの合っていなさそうな鎧を着ていたり、手に錆び付いた武器を持ってる野生動物が、俺が知らないだけで生息してるなら別だが。
顔は、ブタかイノシシのそれだったけど。
RPGならオークとかそんな名前がテロップで表示されそうな怪物が、いま俺の後を血走った目をして追いかけてきていた。
見かけたのは五匹くらいだったけど、もしかしたらもっと多いかも知れない。
「どうして、どうしてこんなことになったんだ……」
どっちに向かっているのかわからないまま、鳴き声が聞こえない方向にひたすら走りつつ、俺はつぶやく。
夢に出てきた美少女に、現実で殺された。
と思ったら、なんでか森の中にいた。
強烈な生臭さに目を開けると、オークたちに取り囲まれていた。
目を開けるのが一瞬遅かったら、振り下ろされた錆びたナタを頭に食らって、奴らの昼飯になっていたかも知れない。
わけもわからずその場を逃げ出して、少なくともいまいるのが家でも、家の近くでもないことだけはわかって、それ以上は何もわからない。
でもとにかく、俺は走り続ける。オークたちから逃れるために。
――そう思えばあの美少女、「異世界で」とか言ってたな。
小さな茂みを乗り越え木の陰に隠れつつ様子を窺いながら、俺はそんなことを思い出す。
連続しているなら時間的にはたぶん数分前のことのはずなのに、彼女と話したのはもう何日も何年も前に思える。
――あの美少女は神様かなんかで、あいつに殺された俺は違う世界で生まれ変わった……、いわゆる転生したってことなんだろうか?
少し突き放せたようだけど、まだ少し遠くでブヒブヒという声が聞こえてることに、俺は足音を忍ばせながら奴らから遠ざかれると思う方向に走っていく。
「とにかく、助けてくれる人か、人がいる町とか村まで逃げないと」
いまいるのが異世界で、自然豊富なところから考えてRPGみたいなファンタジー世界なのだとすると、森を抜けて出くわすのは都心の街並みだったり村に続く国道だったりではないだろう。まさに中世ヨーロッパ的な町とか村を想像する。
膝が震えそうになるのを我慢しながら、俺はつぶやきながらも必死に走る。
オークみたいな怪物がいるんだ、森を抜けたからって助かるとは限らない。ファンタジーの世界ですらなく、人間が存在しているという確信だってない。
でも何とかして少しは安全なところまで行って、落ち着きたかった。
それでいまの状況となんとかできるかどうかは、わからなかったけれど。
――どうしてこんなことになったんだ。
美少女神に言われたように、俺はあの世界で生きていても仕方のない人間だった。
あと三ヶ月、長くても半年で飢えて死ぬしかなかった。
諦めて、逃げて、忘れようとして……、そんなことばかりしてる人間だった。
それを改善しようと動かない限り、時間が経てば経つほど未来が失われていくことも、わかっていたのに。
「ガッ!!」
突然木陰から現れたオーク。
襲いかかってきたそいつの攻撃をかろうじて避けたけど、錆びたナタの切っ先が腕をかすめた。
痛くはない。でも、腕に熱いものを押し当てられたみたいな感触があって、血が出てきた。
――ヤバいっ。
錆びた刃物で怪我なんてさせられたら、破傷風とか感染症とかがヤバい、はず。
何かで見ただけの知識だったけど、集まってきて一斉に襲いかかってこようとしてか、尻餅を着いた俺を囲もうと迫ってくるオークたちから逃れても、俺の未来はもうないかも知れない。
――死にたくない!
美少女神に包丁を尽きた立てられたときは考えるヒマもなかったが、いまの俺はそんな想いが湧き上がってくる。
地面に着いた手で土をつかみ、オークたちに投げつける。
上手いこと目くらましになってオークたちが騒いでる間に、俺は振り返って再び走り出した。
森を抜けた。
すぐ側に迫ったオークたちの声に足が竦みそうになりながら、熱さが痛みに変わって血が流れ続ける左腕を押さえる俺は、草原を走る。
膝下まで伸びてる草をかき分けて広い草原を走ってるとき、人影が見えた。
しゃがんで、俺に背を向けてる草原の真ん中に見えるそれは、肩幅が広くて屈強そうな、たぶん人だ。
「助けてくれーーーっ!」
いままで以上に必死に脚を動かし、叫びながら人影に走り寄る。
声に気づいて立ち上がった、その人。
デカい。
どころじゃなかった。
立ち止まることができなくて、タックルするようにぶつかった俺は、振り返ったその人が人間じゃないことに気づいた。
シカかなんかの革で腰を覆ってる他は、裸。
筋肉の塊のようなそいつの身長は、これでも一八〇近くある俺よりも大きく、顔が激突したのは鳩尾の辺り。
二メートルを超え、二メートル五〇はありそうなそいつの顔を、俺は分厚い胸板越しに見る。
驚いたように赤い目を見開いてる気がする、精悍な顔立ち。
髪は少なく、頭頂部に集まっている。
巨人と言える身長だけでなく、広い額から二本の短い角を生やし、大きな唇からは鋭い牙が覗いていた。
大きな右手が軽々と持っているのは、樫か何かの倒木を適当に削ってつくったろう、粗雑な丸太の棍棒。
もし持っているのが金棒だったら、まず間違いなく俺はこいつを鬼と呼んでいたろう。
ゲームでなら食人鬼とかオルグとか名前が表示されそうな巨人に、俺は抱きつくようにくっついっていた。
――なんで、こんなことになったんだ……。
もう絶望的で、身体に力が入らなかった。
神様と思しき美少女に殺され、オークに追いかけられ、助けてもらえると思った相手はオルグ。
詰みだ。
――俺の人生って、こんなんばっかだな。
つい一年と少し前、高校に入った直後に両親が事故で死んだ。
まさか父親も母親も同時に失うことになるなんて想像もしたことなくて、俺はしばらく記憶がないほど呆然としていた。
我に返ったときには、俺はほとんどすべてを失っていた。
親戚が、どういう方法を使ったのか、両親が俺に残してくれるはずだった遺産のほとんどを分捕って行っていた。家の権利も親戚のものになっていて、高校卒業までは住んでて良いと言われたが、卒業と同時に家を出るよう命じられていた。
学費は出してくれることになっていたし、生活費もまとめて渡されていたが、本当に最低限の金額で、どう計算しても予備の制服一式を買うことになったら食費にも困窮するほどだった。
バイトすればどうにかなったろうし、いくら何でもいろいろヤバいことをやってたろうから取り返す手段もあったかも知れないけど、両親を失ったショックでそんな気力も湧かなかった。
その上、どうにか通い始めた高校では、親無しってことでイジメられた。
イジメてきた主犯格が地主の家系ってことで教師も見て見ぬ振りで、どうすることもできなかった。
結局高校にも行けなくなった俺は、引きこもりになった。
たいしたことのない金で気晴らしに趣味のものを買い漁り、はまり込んでさらに買い集め、貯金はもう再来月の食費もギリギリなくらいだった。
イジメの主犯格は半年ほど前にバイク事故で死んだと担任から連絡があったが、男子も女子も関係なくクラス全員にイジメられ、教師にも助けてもらえなかった俺は、家から出られなかった。
そしてまた、俺はこれから死ぬ。
――俺の人生、何の意味もなかったな。
すぐ側で、オークたちが興奮してるらしいやかましい鳴き声が聞こえていた。
まだ驚いた表情を浮かべてるオルグは襲いかかってくる様子はなかったが、我に返れば俺を殺して食べるんだろう。
両親が死んで以来、いやたぶん生まれてからずっと、俺の生きてる意味はなかった。
そもそも、生まれたら死ぬだけの人生って奴に、意味を求めること自体が間違っているのかも知れない。
――でも何か、これをやったって充実感とか、あれを残せたって充足感くらい、ほしかったよなぁ。
次の瞬間死ぬかもしれないのに、俺は半分呆然とそんなことを考えている。
俺はただ少し、まっとうに何かを感じられる人生を過ごしたかっただけだった。
普通に、ゆったりと、好きな人と出会って、好きなことをして、子供でもつくって、笑顔で死ねればそれでよかった。
少なくとも、オークやオルグに食われて死にたくはなかった。
「ってかさ、せっかく異世界に来たんだから、これはないよな」
分厚いオルグの胸板に額をつける。
異世界転移とか、異世界転生ものの定番と言えば、やっぱり美少女!
可愛い女の子とか、可憐な女性とかに異世界に来た直後くらいに出会って、助けたり助けられたりして、惚れたり惚れられたりってのがやっぱり定番だ。
それなのに、俺が出会ったのは豚顔のオークと、角の生えたオルグだけ。
この世界に転生するときに美少女には出会ってるわけだが、包丁で刺し殺してくるような奴と甘い関係になることなんてあり得ない。
いまここで偶然旅の美少女戦士でも通りがかってくれれば良いが、街道筋でも町が近いわけでもなさそうな草原のど真ん中じゃ、それも望めない。
せっかく無意味な人生から異世界での人生を出発したところだってのに、まともな美少女ひとり出会えずに死ぬとは、本当に俺の人生は、最初のも二番目のも無意味だった。
「美少女……、いや、美女でもいい。せめて出会ってから死にたいっ」
無理だとわかっていながら、俺はそんなことを口にしつつ、オルグに抱きつく。
「もしこいつが美女だったりしたら良かったのにっ!」
二メートル超えはちょっとデカすぎるが、死に前に美しい人と出会いたかった。
「美女だったら……」
警戒するように、オルグが喉を鳴らし始めた。もう人生の終わりの時間だ。
「できるなら、この出会いが美女との出会いになれっ!!」
強く目をつむり、強くオルグに抱きつき、俺は叫ぶ。
次の瞬間聞こえたオルグとオークの叫び声に、緊張の糸が張り詰めすぎた俺は意識を失った。
*
そんなに強くない、刺激臭。
それから強い湿気と黴臭さ。
暗い奥底に沈んでいた意識が浮き上がっていくのを感じ始めたとき、まず始めに感じたのはそのふたつ。
それからもうふたつ。
ちょっと刺激的な、甘酸っぱい匂い。
あとは柔らかさ。
――俺は、これに似たものを知ってる。
顔を包むように感じられる柔らかさを、俺は知っていた。
最後にこれを感じたのはいつだったろう。たぶん小学校の低学年くらいだったと思う。
母親に抱き締められ、胸に包まれたときの柔らかさ。
中学に入る前には抱き締めてもらうなんて恥ずかしくてできなかったし、十七歳になったいまでもそんな柔らかさを感じさせてくれる相手には恵まれなかった。
――あれ? 俺、死んだんじゃなかったっけ。
徐々にはっきりしてくる思考に、俺は疑問を覚えた。
美少女神に殺され、オークかオルグに殺されたはずなのに、考えることができる。身体の感覚がある。
――苦しっ。
暖かな柔らかさは心地よかったが、強めに押しつけられてるそれに息が苦しくなってきて、俺は目を開け顔を上向かせて逃れた。
美女がいた。
目を細め、赤い瞳を俺に向けてくる、精悍な顔立ちの美女。
艶やかで触ってみたくなる長い黒髪を揺らし、彼女は口元に柔らかい笑みを浮かべる。
視線をゆっくり提げてみると、顎から首筋、鎖骨までの美しいラインの下、柔らかく、かといって柔らかすぎず、良い感じの弾力がある大きな双丘に、俺の顔は半ば埋まっている状態だった。
「え?」
「目が醒めましたか?」
声を出した瞬間にそう問われた。
ただ声を出しただけなのに、まるで歌っているかのように美しい音色。
「うっ、うわっ! ごめんなさい!!」
美女に抱き締められていることをやっと把握した俺は、慌てて身体を越して後退る。
「ん?」
地面にお尻を着けたまま後退った俺の手に、何かが当たった。
ここはたぶん洞窟。
入り口は革を敷き詰めた寝床に横たわる美女の向こうにあって、割と狭そうだけど、中は天井までジャンプしても届かないほどに高い。
けっこう広い内部には端の方に水場があるらしく湿気が強く、俺が後退った奥の方、行き止まりの辺りに何かがたくさん散乱していた。
骨。
「ひっ」
悲鳴を上げそうになって、俺はどうにかそれを飲み込む。
入り口から差し込む光で見える範囲では、詳しくはわからないが、どれも牙があったり、鼻面が長かったりして、頭骨は動物のものだとわかる。
人間の骨は、たぶんひとつもない。
改めて美女の方を見てみる。
腰と、胸に動物の革をまとっている彼女は、脚の間に両手を着いて座り、俺に笑みを投げかけてきている。
敵意や害意はないようだった。
「……君は?」
「わたしは――」
俺の声にか、嬉しそうに笑みを深くした彼女は、すっくと立ち上がる。
――デカい。
美女の身長は、さすがにさっき出会ったオルグほどじゃなかったが、大きかった。
たぶん一九〇センチ以上、二メートル近くある。
そして美しかった。
引き締まっているが、力強そうな筋肉の存在を感じる腕や脚。
アニメに出てくる美女キャラのように細くはない腰から、ヘタな男より幅のありそうな肩は、けれど大きな胸とのバランスが絶妙で、女性らしい美しさが身体の内からあふれ出していた。
長く黒い髪を掻き上げ、嬉しさがあふれ出して来ているような赤い瞳をした美女。
ギリシア神話の女神を模して造られた彫像のような、ある種完璧な美しさが、裸に近い彼女からは感じられていた。
それと同時に、いますぐ抱きついて身も心もゆだねてしまいたいような頼り甲斐を、言葉すら交わしてないのに感じている。
「わたしは、貴方の眷属となった者です」
「眷属?」
「はい」
ニッコリと笑い、美女はわけのわからないことを言う。
「瘴気に囚われ、妖魔となってしまっていた私は、この眷属としての身体を貴方に与えてもらったのです」
「えっと、どういうこと?」
差し出された手に自分の手を伸ばし、立ち上がる。
やっぱり身長差のある彼女の顔を見上げながら、俺は理解できずに首を傾げることしかできなかった。
「わたしは貴方の権能(チート)によって魂を解放された、先ほどのオルグです」
右手をその大きな胸に当て、左手で俺の手をつかむ元オルグの美女は、ニッコリと笑みをかけてきてくれた。
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