ソウル・アンリーシュ

小峰史乃

第一部 ソウル・アンリーシュ

第一章 トール

第一章 トール 1

          * 1 *



 目の前に美少女がいた。

 亜麻色をしたセミロングの髪をふんわりと揺らし、白を基調にしたどこか中性的な雰囲気のあるショートパンツの服を着て、けれど魅惑的なサイズの胸の前で祈るように手を握り合わせていた。

 端正な顔立ちをし、吸い込まれそうな深い青色をしている瞳には、なぜか涙が浮かんでいる。

 悲しそうな顔で俺のことを見つめている、美しいその少女。

 ――あぁ、これ、夢だ。

 ひと目で俺はそれに気がついた。

 まさに俺の頭の中に描いていた理想をそのまま体現したような、美少女という言葉以外見つからないほど美しい彼女は、あまりに神々しく、あまりに幻想的だった。

 光ひとつない真っ暗な空間で、彼女だけが輝いているかのように見えているその様子は幻想的で、理想的過ぎて、違和感があった。

 だからこれは夢だった。

「助けてください」

 か細く、耳から入って脳に染み渡るような美しい声で、彼女は俺に懇願する。

「わたしを、助けてください。お願いします」

「うん、わかった」

 美少女の願いの言葉に、俺はためらいなく頷いた。

 ――どうせ夢だしな。

 いろいろ見てるアニメですら出会ったことがないほど、理想的な少女の願い。

 どうせ目覚めれば消えてしまうものなんだ、せめて夢の中でだけでもいい思いができるならと、俺はためらう必要を感じなかった。

「ありがとうございます」

 驚いたように一瞬だけ目を見開き、それからわずかに首を傾げ、にっこりと笑みを浮かべてくれた彼女。

 ――恋にでも落ちそうだ。

 夢の中にしか存在しない美少女の魅力的過ぎる笑みに、こんな状況なのに鼻の下が伸びるのを感じざるを得ない。

「貴方のその返事、翻すことはできません。必ず、必ず叶えてもらいますからね」

「え?」

 夢の中だというのにずいぶんと不穏なことを言い、それまで可愛らし過ぎるくらいだった笑みに、闇の匂いを混ぜる彼女。

 俺はそれまでとは異なる違和感を覚えて、眉を顰めていた。

 ――違う。

 違和感は、彼女の言葉だけに感じたんじゃない。

 苦しい。

 身体が苦しくて、上手く息ができない感じがある。

 夢だからとかでなく、リアルに身体がおかしいことに気づいて、俺は目を開ける。目覚めた。

 美少女が、目の前にいた。

 夢の中でいま話をしていた美少女が、目を開けても傍にいた。

 ベッドで寝ている俺の上に。

 寝ぼけてるとかじゃない。

 実際に俺の身体の上に、夢の美少女がまたがっていて驚いた表情を浮かべていた。

 スカートだったら角度的にパンツが見えてるくらい広げている脚よりも、俺が気になったのはその手前の物体。

 包丁が、突き立っていた。

 俺の胸のほぼ真ん中から、見覚えのある、家の台所で今日も使っていた包丁の柄が生えている。

 理解できるようになるまで一瞬、時間がかかった。

 ――刺されてる……。

 美少女が手を添え俺の胸に突き刺してるそれは、夢でも冗談でもなく現実。痛いとかよりも先に、身体の中に入り込んでる異物感が凄まじい。

 夢の中に出てきた美少女がなぜか俺にまたがり、胸に包丁を突き立てているというシチュエーション。

 状況は理解できても、わけがわからなかった。

「がっ、ぐっ……、な、なぜ――」

 かろうじて心臓を逸れてるらしい包丁は、確実に俺に致命傷を与えている。

 上手くしゃべることができない俺は、どうにか言葉を絞り出した。

「なぜって……。貴方は私の求めた助けに、わかったと答えてくれたじゃないですか」

 にこにこと笑って答える美少女。

 現実としか思えない苦しさがあるのに、夢としか思えない状況。

 それなのに俺はもうすぐ自分の命が尽きるのを、生々しく感じている。

「一撃で仕留められないなんて、油断しましたね。慣れというのは怖いですね」

「ど……、どういう――」

「んー?」

 不穏なことを言い、俺の絞り出した言葉に彼女は大きく首を傾げて見せる。

「助けてもらうにはこうするしかないのですよ。現場はここではなくて、異なる世界でのことなのです。異世界へは身体を持って行くことはできませんから」

 ――異常だ。

 にこやかな笑みとともに説明してくれる彼女は、明らかに普通じゃない。

 気が触れた人みたいにどこか遠い世界を見つめているのではなく、しっかりと現実の俺のことを見て笑みを浮かべているのに、話してることは異次元だ。

 こんな美少女に寝込みを襲われるなんて、男としてなら本望だ。

 でもさすがに、包丁を突き立てられるような襲われ方はイヤだ。

 十七年生きてきて、この状況が幸せと言えるのか、不幸と言えるのか。……いや、確実に不幸か。

「あぁ、心配しないでくださいね。あちらではあちらにふさわしい身体を用意してありますし、わたしの願いを聞いてくれるのですから、特別な力も与えてあげます。これはサービスとしてですが、こちらの世界での貴方の痕跡は消しておいてあげますよ。隣の部屋の、他の人には見られたくないようなグッズとか、ハードディスクの中身とか、その辺はちゃんと私が処分しておきますねっ」

 どうやら俺はこれから異世界に生まれ変わるらしい。

 ということは美少女の言葉から理解できた。

 寝室であるこの部屋の隣、趣味用にしてる部屋には、ちょっと人には見せにくいようなフィギュアとかグッズがたくさんある。パソコンにはゲームとか動画とか、死んだ後でも見られたくないものが入っていた。

 サービス満点で嬉しい限りだが、そもそも俺は死にたいとは思ってない。

「や……、め……」

「あははははははっ。いまさらやめられませんって。もう貴方は死にます。それに――」

 見下すように顎を反らし、唇の両端をつり上げて笑う美少女は、言う。

「どうせ貴方は、このままこの世界で生きていても、仕方がなかったでしょう?」

 ――それはっ!

 反論しようと思ったけど、できなかった。

 実際、俺はもうこの世界で生きていても仕方がない。生き続けることもそろそろできない。

 そういう生き方をしてきたんだから。

 ――だからって、死にたいわけじゃないっ。生きていたいっ! 俺は静かに、穏やかに生きていけさえすれば!!

 言おうとするのに、もう言葉を発することができない。

 喉にこみ上げてくるものに咳き込み、美少女の白い服と可愛らしい顔に赤いシミができる。

 それでも俺のことを見下ろしてくる美少女をできる限りの視線で睨む俺は、血が流れすぎたからか、意識が遠のいてきて、息もできなくなりつつあった。

「せいぜい引っかき回してください。……あまり、期待はしていませんが」

 どういうことなのかわからない言葉を美少女が口にしている間に、俺の視界は急速に黒く狭まっていく。

 美しく、しかし闇に染め上げられたような美少女の笑顔を最期に見、俺の意識は途切れた。



            *



 高見から見下ろす住宅街。

 並び立つ住宅の一軒から、濛々と煙が上がっていた。

「サービスとは言え、それっぽく家に火を点けるというのも意外に手間ですね」

 上着の裾を風に揺らし、顎に手を当てて立ち上る煙の勢いが徐々に増しつつある家を、美少女が見下ろしていた。

 何もない空中であぐらをかく彼女は、片眉をつり上げてつぶやく。

「そう思えば、あっちの世界での彼の身体は、どこに配置したのだったかしら?」

 先ほど包丁を突き刺して殺した少年、新庄拓斗(しんじょうたくと)の異世界での新しい身体は、すでに創造済みだった。

 しかしながら造るだけ造って、ソウルコアが入ったらすぐに動き出せるよう、とりあえずの場所に仮置きしたところまでは憶えている。

 動き出すまでは神ですら手は出せないようになっていて安全だったが、ソウルコアを入れる前にどこか適切な場所に配置し直そうと思っていて、すっかり忘れていたのをいまさらながらに思い出した。

「適切なところに配置しておかなければチュートリアルもできないけれど……」

 基本的な部分はほとんど同じであるが、こちらの世界とは大きく異なる点が多数ある、あちらの世界。

 その状況を理解させるためには、それが理解できるように手順を踏める場所に置いて動き出すようにしなければならないことは、よく理解していた。

 何より、配置した場所を思い出さなければ、タクトがこれから成すことを追跡していくことができない。

 せっかくひとりの人間を殺し、新しい身体を準備して、ソウルコアを移したというのに、すべて無駄になってしまうかも知れない。

「まぁ……、いいか。いまさらだし」

 わかっていたが、美少女は悩むのをやめた。

 ひとつため息を吐き出し、記憶を探って思い出すのを諦める。

「どんな権能(チート)を発現するのかもわからないし、上手いこといかなくてあちらですぐ死んだとしても、彼はそれまでだったということで。そういう運命だったってことにしましょう。――それにしても良い感じの身体ね。彼の想像力だけは素晴らしい。しばらくこの姿でいようかしら」

 もう忘れることにしたタクトへの思いは思考から排除して、美少女は自分の可愛らしい身体を眺め、にっこりと笑う。

「あら?」

 そういうしている間に、眼下では回転灯をうるさく光らせた消防車が集まってきつつあった。

 どうやら早々に近所の人間が通報したらしく、すでに消火活動が始まっている。

「あの分だと、コレクションルームの方は燃え残っちゃうかも知れないわね。まっ、いいでしょう。サービスはあくまでサービスで、義務ではないのだし。どうせこちらの世界に彼が戻ってくることもまずないのだしね」

 火勢が増すよう手を加えることもできなくはなかったが、その気も起きなかった。そこまでやる必要も、やる意味もない。

 端的、面倒臭かった。

「せいぜい生き残って、あちらを引っかき回してくれれば良いのだけれど」

 目を細めて下界を見下ろす美少女は、そう言って唇の端をつり上げた。

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