第136話
朝、目が覚めた瞬間にやってしまったと自覚しながら飛び起きる。朝寝坊したあの瞬間の絶望感は独特なものだ。
特に何か予定があったとかそういう事は無いのだが、寝坊するというのは自己管理が出来ていないという事で、自己管理が出来ていないという事はだらしがない女という事になる訳で。私にとっては寝坊することは小屋妹とイコールで繋がれるという事でもある。
部屋を出る直前に立ち止まり、一先ず洗面所でパッと身だしなみを整え居間へ向かう。
居間には誰もおらず、普段はそこにいると言われている石田すらいなかった。
というか家の中や周囲には誰かがいるような気配が感じられなかった。確かにいつもより遅いとはいっても流石に石田すらいないというのはおかしい。
恐らくは外の畑と、なんとなく東の方にいるような気がする。
直感に任せるまま身支度を終えた私は外へ出てすっかり大きくなったヒナイヂドリに挨拶してからコンクリートの道へ踏み出す。北側を遮る山林と切り拓かれた南側。日差しは強いが風は冷たい。寒いとまではいかなくとも暑さが厳しい時期はとうに過ぎている。
人の住んでいない家は傷むのが早いらしいが、この辺りはここに来た時から然程痛んでいるようには感じなかった。まあそういう建物を選んで住むのに困らないように整えたという事もあるだろう。とは言ってもアジトにいることの多い私達よりマックスだったり八木だったりの努力もあるのだろうが。
拠点にしている家の前の通りは片側1車線のコンクリートの道路が伸びているが歩道が整備されているわけではないので文字通りの自然がすぐそばにある。
北側へ抜ける路地を通過し学校跡まで来た。建物の中で動く人の気配を感じて中に入れば錦を発見した。
「錦」
「んん!? おお、千聖か。音もなく入ってくんなよ……」
「油断しすぎじゃない?」
「何で拠点でそんなことする必要があるんですかね」
「大天使とか八木に見られたらまずいじゃん」
「普通は音を消すのって相当難しいと思うんですが」
「ぶい」
「そのドヤ顔やめろ。で、何の用だ?」
「他の人は?」
「他の? いや、俺昨日からここにいるから解らん。家には?」
「誰もいなかった」
「じゃあ蒸留所じゃねえの?」
ここから更に東に蒸留所がある。研究所に入った先生がやたら興奮した様子だったのが思い出される。
「行ってくる」
「あ、ちょい待て。えーっと、これリーダーに渡しといてくれ」
数枚のコピー用紙。いくつかの文字列が印刷されているかと思えば手書きのようだ。
「わかった」
「頼むわ」
学校を出て集落を東へ。緩やかなカーブとアップダウンを経てニッカワの集落出口にほど近いところ、蒸留所の裏口から敷地内に入り込む。
保管庫が並ぶ一角を抜けて研究所代わりになっている蒸留棟まで来た時、電気が通っていた棟中は静まり返っていた。
中はいくつかの釜のようなものが置かれそれが足場を組まれた2階にも並んでいる。そう言えばここはニッカワに来た時に入ったくらいでそれ以降は寄ることもなかったんだっけ。
声をかけながら見て回るが、家を出た時に感じた気配のようなものが無くなっている。間違えたかなと思ったのも束の間、建物脇に備え付けられたガラス窓の奥からこちらに手を振る人影を確認した。
煉瓦の壁にリノリウムの床材の通路を回り込んで別室へたどり着くと、そう言えばと思い出した。
「久間先生」
「おはよう、千聖ちゃん」
そういえばこの人を確保したんだった。
「研究施設じゃないから大雑把な設定しかできないけど水温、空調調節も出来るだけでとても便利ね。典正君の発想は相変わらずすごいわ」
どうやら設備の操作方法を習いつつ、この部屋で全体的な管理観察をしていたらしい。昨晩から。
「寝ました?」
「あはは……」
研究所の研究員は大体の人間が目の周りにクマを染み込ませ、目元や眉間にしわを刻み血色の悪そうな白さを携えていたことを思い出す。多分こういうことを繰り返していたんだろうなあ。
「マ……リーダー見ませんでした?」
「彼なら少し前に強化薬を天間さんに投与するって言って戻ったわよ?」
拠点には戻らなかったという事だろう。
昨晩のことを思い出す。ここに寄った後、学校に錦を下ろし家で私を下ろしたことまでは覚えている。先生も下したと思っていたんだけど、私たちを下ろした後ここに戻って今までここにいたってこと?
「私も観察したかったんだけどデータを測定してそれを提出するっていうから待ってるの。確かに投与後に暴れられたら私じゃどうにもならないのだから、帯同は不可だというのは分かるのだけど……。千聖ちゃんは、もう?」
「いえ、私はまだ」
「まだ? ……投与の予定はあるの?」
「いえ、決めていません。現状困ってないので」
「他に誰か投与した人はいる?」
「つる、剣が。覚えていませんか?」
「えーっと、うん、あの子よね? 私たちと会った時にいた」
「はい。中谷里剣です」
「あー! うん、そう、そうだったわね。中谷里さん」
そっちで覚えていたからピンと来なかったのか。こっちじゃつるは中里で通してるから結びつかなかったのかもしれない。いや、この人あんまり人の名前覚えなかったんじゃなかったっけ? わかんないけど。
「でもそんな印象は無かったわね。副作用もないのかしら?」
「少なくとも私には分かりませんでした」
「効果の方はどうかしら?」
「んー……どこまでやれるようになったのかはわかりませんが、スペック自体は上がってると思います」
「なるほどね」
タブレットを操作しながら頬を抑えるようにして考え込む。
そういえば研究所でも何かを考える時にはこうやって考え込んでいたっけ。右に首を傾げる独特のポーズ。あの時はバランス悪そうとか適当なこと考えてたっけ。
「それにしても……、半年程度しかたっていないのに随分久しぶりな感覚がするわ」
「そうですか?」
「ええ。アナタたちが出向してからこっちもいろいろあったし、もちろんあなたたちも」
先生は既にこちら側に入れたし、言ってもいいのかな? いや、聞かれるまではいいか、別に。
「ええ、まあ。とはいえ、既に通った道ですから」
「そう。……本当に、良かったわ」
こちらを見て柔らかく微笑む先生。これは何の微笑みだろう。多分安堵したという事なんだろうけど、私たちは研究所でも散々成果を上げていたはずなのだが。
とりあえず、先生に食事を摂るように忠告しつつ、外に出てからマックスに連絡を取る。
「マックス今どこ?」
『温泉に向かってるが』
「え、何で?」
『女記者に強化薬投与するから。万一の後始末も含めてな』
「錦から中間報告預かってるけど」
『読み上げてくれ』
「えっと」
――軍から研究所への通達。周辺治安が著しく悪化。しばらくは警備担当を増員。また別動隊で周辺警備にあたる。
――所属不明から研究員への私信。久間楠ツツジらしき人物がトミヤインターで消息不明。引き続き捜索中。
――研究所からの報告。ゾンビ忌避薬の成分調整は難航。元々の研究データにあった持続時間が担保できない件について、有識者の意見を求む。
――所属不明から研究員への私信。指示を完遂。次の指示を求む。
『研究所の報告はどこに向けてのものだ?』
「書いてない」
『ってことは研究所の内部向けか? まあいい、わかった』
「私はどうすればいい?」
『ん? 好きにしてもらっていいが』
「わかった」
通信を切って紙切れを見る。
最初のは私とマックスが動いた結果。軍の対応力を圧迫している。
次のは研究所の子飼いの捜索部隊かな。少なくとも噂の真偽から分かっていないみたい。
その次はちょっとひどい。元々研究施設としてはトウキョウとは比べるべくもないというのは聞いていたが、どうも忌避薬の製造から引っ掛かっているっぽい。それとも環境が違うせいで難航してる? 少なくとも上手くはいってないみたい。
気になるのは最後のやつ。普通に考えれば
一先ず私はこれで手隙になってしまった。何をしようかと考えて敷地内を家に向かって歩いていたらお腹が鳴った。
そう言えば昨日は久々に大きく動いたんだ。することもないみたいだし、一先ずご飯食べてから考えよう。
そう言えばここはアジトにはない食材が増えてるんだっけ。卵あるかな? あ、でもマックスがいる時以外は生で食べるのはダメって言ってたっけ。
錦は食べたのかな? 先生は多分食べてないから、それもお世話しないとダメかな? あ、車はマックスが使ってるのか。先生歩かせるの? 大丈夫かな? 大丈夫か。 あれ、意外とやることあるぞ?
少しだけ考えていた体育館のピアノを思い返しながら、ぐうぐうとご機嫌斜めのお腹を抱えてとりとめのない事を思い浮かべる。ドクターのことなんか考えるだけ無駄だからいの一番に除外。
ふと思ったのは 強化薬のこと。つるが打ったみたいだけど、もう少し詳しく聞いてみようかな。
つるはあんまり詳しいことは教えてくれなかったけど、それでもこの世界で生きる力を手に入れたことに違いない。それはいい。より強い力というのはこの世界においては何より必要なものだ。
ただ少しだけ気になることがある。つるがちょっと変だ。なんて言えばいいのか、少しだけ若返った? 前にそう言ったら怒られた。正確には我儘になった、らしいけどそれこそちょっと違和感を覚える言い回しだと思う。
愛美あたりはつるが綺麗になったと言っていたけど、私には外見的な変化はあまり分からなかった。ただ依然とほんの少しだけ気配が違うな、とは思った。
つる自身は謙遜してるのか隠してるのかわからないけど、以前より大分思い切りが良くなったと思う。元から射撃関連の腕は良かったのに思い切りの良さも相まって大分攻撃的な動きもするようになった。
最近じゃあまり得意じゃなかった近接戦も然程嫌がっていないように見える。心境の変化があったのは確実だ。
強化薬を打つことに異論はない。マックスが打つというなら受け入れるつもりだ。ただ、これに関しては昔から言われているように志願制。
トウキョウで研究していた時から助手として研究室に入り浸っていた私からすると、強化薬自体の意義が見いだせていなかった。
ただ最近はゾンビが進化し強くなっているということから火力の底上げが必要であるというのは理解した。
理解はしたが私自身の火力が必要だとは未だに思ってない。つるの火力が上がったというか手数が増えたというか、それ自体は作戦に幅が出せることだと思ったのでそれはいい。
錦は自分の体を使ってゾンビを倒すっていうタイプじゃない。もちろんドクターも。それでもやれているのはマックスが強すぎるのが悪い。
その本人は特に強化薬必要としている感じじゃないし。つるが強化薬を投与した後に気配の変化があったような違いがマックスには無い。だから多分使ってはいないと思うんだけど。
先生が来て、あの気に食わないドクターも来ればきっと今よりも便利にはなるんだろう。きっとここは安全になるしこれまでと同じように過ごせるのだろう。
ふと、その先が気になった。
物資集めて、食料を生産して、ゾンビを倒して。ゾンビは人の数しか存在しないはずだし、そもそもこの10年で人もゾンビも減ってきている。いつか終わりが来るんじゃないかと漠然と考えていたが、いつ終わるんだろう。
私たちはどれくらいのゾンビと人間を斃して来たんだっけ。覚えていられないくらいにはナイフを振るってきたし、奪ってきた。きっとこれからも同じことをするだろう。
マックスはいろんなこと研究してる。錦は情報系の統括、愛美は機械全般勉強してるし、瞳さんは料理が好きだ。つるはどうするんだろ。少し話してみようか。
トコトコと歩く道すがら慣れないことをしていたせいか再びお腹が鳴った。
家まではもう少しだ。とりあえず、ご飯食べよう。
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