第十ニ話 勇者様の憂鬱


 森に入るのは、久しぶりでした。


 以前はよく足を運んでいたんです、食べられる野草や木の実を採ったり、薪代わりになる枝を拾ったり。でも、勇者様が訓練される場所に選ばれてから、私達みたいな平民は立入禁止になってしまいました。


 勇者様は、私達の希望です。この世界の人々を救うために、全てを投げうち別の世界から駆けつけて下さった、救世主なのです。決定に不満を漏らす人はいませんでした、むしろ街を上げてのお祝いです。私ももちろん、この幸福を祝いました。不利益を被った市民には補償金を出す、と発表したケチで有名な領主様も、自腹を切ったのにたいへんな笑顔でした。


 森での採取ができなくなった私達は、別の仕事を探さなければなりませんでした。水汲みの数を増やしたり、いつもは嫌がる南の山へ出かけたり。少し早めに奉公に上がる子もいました。私は気づきもしなかった釣りの才能が見いだされ、もっぱら川へと駆り出されました。みんな、新しい生活に必死でした。


 そんな、どこかお祭り気分が続いていたなかで、このところ何かと忙しそうだった姉さまが体調を崩し、クク病という珍しい病気だと診断されたのは昨日の夕方でした。


 神父様は顔をしかめておっしゃいました、普段なら難しい病気ではないが、最近は森の奥に生えているケケ草が高騰していて薬が手に入らないと。姉さまは寝台に横になり、荒い寝息を立てています。迷いはありませんでした。


 明け方前に街を抜け出し、森に入ってすぐの場所で日の出を待ちます。よく言い聞かせられたものでした、森に入るときは、絶対に暗くなる前に帰ってくるように、と。はやる気持ちを抑えつつ固いパンを水でふやかし、口に入れて座り込みました。


 しっかりと食事をとり、日が昇るのを待って森へ入りました。濡れた草木の臭いが胸をいっぱいに満たします。私は奥へと慎重に進みました。神父様の見立てでは二、三日中は大丈夫、そのまま回復したりもするそうです。時間はまだあります、なんなら今日駄目でも明日来ればいいのです。大事なのは怪我をしないこと、そして魔物を刺激しないこと。


 街の噂では、なんでも魔王領が大きな戦争の末に統一され、新しい魔王が誕生したそうです。金物屋のおじいちゃんが言ってました、確かにお嬢ちゃんが生まれる前ころはもっと魔物が多かった、減ったのが戦争のせいならこれからまた増えるかもしれない、と。魔物が多くなるのは困ります。勇者様が訓練を終え魔王討伐に旅立たれたら、ここはまた私達の森に戻るからです。


 でも、今はきっと大丈夫。その勇者様が魔物を討伐して回られているはずです。私はずんずんと足を進めました。決してこれより向こう側に入ってはいけない、と教えられてきた三つ子石を超えたのは初めてでした。


 こんなに奥深くまで来たことはありません。いつもの森が、段々と知らない森へと変わっていきました。私はしっかりと休憩を取りながら進み、お日さまが昇り切る前には目的地へ着く事ができました。

 

 私の背の倍はありそうな、大きなこぶ二の岩。間違いありません、神父様のおっしゃっていた目印です。この巨岩の根本のようなジメジメした場所に、ケケ草は生えるんだそうです。よし、絶対見つけるぞ、と気合を入れ直した私のやる気とは裏腹に、それはあっさりと見つかりました。


 端がぎざぎざした丸い葉っぱが、十字のように4枚ついています。まぎれもなくケケ草です。私は大きな息を一つ吐きました。これで、姉さまは大丈夫だ。油断して出来た心の隙に、邪念が入り込んだのはその時でした――このケケ草、持てるだけ持って帰ろう。

 

 この孤児院はかなりマシなほうだから感謝なさい、といろんな人から聞かされました。それは、きっと正しかったのでしょう。もちろん喧嘩くらいはありましたが、みんなが助け合い支え会える、温かい場所でした。でも、貧しかった。貧困は、小さな困難を大きくします。何度も、何度も何度も悲しい思いをしました。身体を張ればどうにかなる、今回はかなりマシなほうの事件です。ですが、いつも幸運に恵まれるわけではありません。ここの草を摘んで帰るだけでみんなを助けられるなら、そうしない理由はありませんでした。


 時間は、かけなかったと思います。これまでの道のりを考えれば、誤差の範囲だったでしょう。ですから、罰という言葉は使いたくありません。あの時、茂みを突き破り飛び出して来た赤熊の姿を見て思ったのは、運が悪いな、それだけでした。


 不愉快な金切り声が耳を突き刺したとき、それが自分の悲鳴だとは気づきませんでした。足なんて動きません、ケケ草の入った鞄を抱きしめたまま、ただ震えていました。


 不思議なことに、あれだけ大きな熊が歩いても、足音一つ立ちませんでした。今考えると可笑しいのですが、逃れ得ない恐怖の中でも、これは気付かなくても無理はないな、なんてどこかで考えていたんです。熊はゆっくりと、一足一足近づいてきました。


 次に聞こえたのは金属が立てる音でした。人は追い詰められるとこんな声が出るのか、と思いました。そして、熊の歩みが止まり、少ししてからずん、と大地に崩れ落ちました。


 赤熊の大きな体が地面を揺らしました。緊張の糸が切れた私の足はそれに耐えられず、私はぺたんと座り込んでしまいました。呼吸は荒れ、全身は冷や汗でびっしょりでした。爪が食い込んで血が出るほど、強く手を握り込んでいました。ですから


「君、大丈夫か!?」


 その声を聞いた私の安心感を、どうお伝えすればいいでしょうか?


「怖かったろう、だが僕が来たからにはもう安心だ」


 私は、全身の力が抜けていくのを感じました。あの熊はもう動かないんだ。助かったんだ。もう二度と立ち上がれそうにありませんでした。そして、その声の主の姿を目にして、今度は全身が緊張でがちがちになったのです。


 白銀の鎧に身を包み、手には光り輝く長剣。そして、何よりもその黒い目、黒い髪。遠い、遠い世界の方だと思っていた、勇者様その人でした。


 こんなことがあるのでしょうか? まるで物語の中に入り込んだような、嘘みたいな瞬間。


 剣も、鎧も、その瞳も、勇者様の全てが輝いて見えました。


 私と勇者様は、見つめ合いました。きっと僅かな時間だったでしょう、ですが私には永遠のように思えました。


 私の顔を確かめた勇者様は、何やら考え込んだふうに視線を外し


「ギリギリストライク……いや、流石に幼過ぎるか?」


 とおっしゃいました。これだけ大きな魔獣ですら赤子扱いなんて、勇者様はやっぱりすごいです。私はいっそう感激しました。


 あと五、いや三年たてば……顔……八十点……しかし彼女が怒……三人、いや五人までなら……。勇者様は難しい顔で考えを巡らせていらっしゃいましたが、私は勇者様に任せておけば大丈夫、とただそれだけでした。


 と、勇者様がこちらに向き直り、私にお聞きになりました。


「君、お姉さんはいるか?」と。


「は、はい」


 私はみなし子ですが、真っ先に姉さまのお顔が浮かびました。それから年長のみんなのこと、もう孤児院を出てしまった、たくさんののこと。院のみんなは、全部私の姉弟です。私のみならず家族のことも心配してくださるなんて、勇者様はなんて優しいお方なのだろう。私の胸の中は温かいものでいっぱいになりました。


「そうか……よし、君をこのままにはしてはおけない。家まで送ろう」

「勇者様、勝手な約束をされては困ります」


 勇者様のその言葉は、しかし女性の声に遮られました。


 いつの間にか、私は多くの人に囲まれていました。勇者様だけを見つめていて、他のことは全く目に入らなかったようです。多くの騎士たちと、そしてとびきり綺麗な女性。今の声はこの方のようでした。私は急に怖くなりました。


「貴女、お名前は?」


 その女性は、とても優しい声で私に問いかけました。


 私は一生懸命話しました。私は罪人です。規則を破り、森へ入りました。私の頭の中は赤熊と対峙していたとき以上の恐れでいっぱいでした。魔獣に襲われても、死ぬのは私一人です。ですが、孤児院が睨まれれば、みんなに迷惑がかかります。騎士は、平民に罰を与えるものです。私を取り囲んでいる彼らが、ぞろぞろと孤児院に押し入る姿を想像して、殆ど泣きそうでした。


「そう、大変だったでしょう」


 ですがその女性は、私を抱きしめてそうおっしゃいました。鼻をくすぐる甘い臭いや柔らかい髪の感触で、私の心は破裂しそうでした。


「大丈夫ですよ、貴女の勇気は間違いではありません。聖女の名にかけて誓いましょう」


 まさか、勇者様に加えて、聖女様ともお会いできるなんて!


 私はもう何も考えられず、ボロボロと涙を流すばかりでした。


「し、失礼しました……」


 やっと落ち着いた私を聖女様はもう一度優しく抱きしめると、お付きの騎士様におっしゃいました。


「これより私は彼女と共に街へ戻ります。二人、いえ、三人お願いします」

「はっ。しかし聖女様、送り届けるならば我々だけで十分です」

「彼女の姉に何かあれば、薬が間に合う合わないにかかわらず勇者様の汚点になります。逆に私が行けば、勇者様の慈愛を表す恰好の材料になるでしょう」


 自分も一緒に戻る、君と離れるのはよくないと主張する勇者様を「訓練の邪魔をするわけにはいかない」と説き伏せた聖女様と一緒に、街へ戻ることになりました。お付きの騎士さんに守られ、気分はお姫様、と言いたいところでしたが、勇者様や聖女様にご迷惑をおかけしてしまい、浮いた気持ちは微塵も湧いてきません。


 そんな私を気遣っていただいたのでしょう、聖女様はたくさんお話になりました。貴女には感謝している、あそこに長居はしたくなかった、「貴女も分かるでしょう」と。まるで、奉仕をサボる口実を見つけた姉さまのようでした。もちろん、確かに森の中は暗くてじめじめしていますし、あんな魔物も闊歩していますが、聖女様ならなんの問題もないはずです。それなのに、私の気を軽くするために。聖女とは地位や称号ではないのだと、心から感じられました。


 街へ戻り、用意されていた馬車で孤児院へ帰ると、それはもう大騒ぎでした。神父様は恐縮しきり、直々に治癒魔法を頂いたお姉さまはかえって具合が悪くなったのではと思うほどに小さくなっていました。


 神父様のお部屋で、改めて聖女様や騎士様に話を聞かれました。何人も詰めかけて来た、教会の偉い人も一緒でした。そして私は帰され、大人の方だけで話し合いが行われました。


 その後、聖女様はそまま近くの教会へ出向かれ、癒やしの奇跡を多くの方に与えられたそうです。


 というのを、私は反省室で姉さまから聞かされました。理由のいかんはともかく、規則を破ったのは間違いありません。私には三日の反省室入りと、一ヶ月の清掃が言いつけられました。私としても懲罰を受けるのは本望でした。罰は救いである、という聖典の言葉を、初めて理解した気がしました。


 その夜、スープだけの夕食をもってきてくれたお姉さまと、沢山お話をしました。森の事、赤熊のこと、聖女様のこと、そして、勇者様のこと。


 勇者様は、多くの人々の英雄です。でも、確かのあの瞬間は、私だけのヒーローだったのです。


 そう言うと、姉さまは笑って「じゃあ、あんたが私だけのヒーローだよ」と抱きしめてくれました。聖女様には申し訳ありませんが、骨ばった身体で白い髪もごわごわの姉さまに抱きしめられたときのほうが、ずっとずっと嬉しいと思いました。



 後日、勇者様は約束通り姉さまのお見舞いに来てくださいました。私は清掃の奉仕中だったので残念ながらお会いすることは叶いませんでしたが、孤児院のみんなはお言葉を頂いて大変感激し、一週間はその話で持ちきりでした。姉さまも老い先短いババアにあの世への手土産が出来たわい、としわだらけの顔をいっそうしわくちゃにして喜んでいました。せっかく病気が治ったんだから、もっともっと長生きしてほしいです。



 ところで、勇者様は姉さまの顔を見て何とも言えない表情をしてらっしゃたそうですが、一体どうなさったのでしょう?





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