第八話 魔王軍中庭の憂鬱
執務室に差し込む日は柔らかく、穏やかな陽気がつい眠気を誘う、そんなうららかな日だった。絵に書いたような良いお日柄、室内に籠もっていてはお天道様に申し訳が立たない。俺は午前の書類仕事を全力で片付けると、辛抱たまらず弁当一つ掴んで執務室を飛び出した。
この好天だ、ぽかぽかのベンチで昼食を取ったら最高だろう、と向かった魔王城の中庭はすでに先達の姿がちらほら。魔族でも考えることは皆同じだな、とつい笑ってしまう。俺はしっかり席を確保していたメラク先生のテーブルにお邪魔することにした。
「先生、また木像を彫ってるんですか?」
「今度は部下が88歳の誕生日らしくてのう、その祝いの品よ」
クラゲのように丸い頭いっぱいに、88個あるのだろう幾つもの目玉が彫り込まれ、かさの下からは人間の手が88本生えている。夢に見ずにはいられない、押しも押されぬ見事な邪神、スーパサクラテニ様の像が先生の手にあった。誕生日に上司からこんなもの貰ったら、恐怖で寿命が縮んでしまいそうだ。いや、そもそもサクラテニ様は死後の世界を司る神様だ。言葉には出さぬ、早く死ね、とのメッセージを裏読みしてはしまわないだろうか……。俺は弁当の包みを広げ、お米を育ててくれた農家の皆さんと哀れな先生の部下に手を合わせた。
「しかし88歳なんて、よく憶えてましたね」
誕生日を祝う習慣が魔王領に広まったのは、近年に入ってからだ。生きるか死ぬかの戦時中では、生まれた日がどうとかなんてナマを言っていられない。そもそも、戦乱によって正確な暦も長らく失われていたのだ。俺だって夏生まれなことくらいしか分からないからなあ。
魔王領が統一され平和な時代が訪れても、染み付いた価値観はなかなか変わらない。魔族にとって生命は軽かった。特に、子供のそれは。多産多消の風潮に対抗すべく試みられた様々な施策、その一つが誕生日だった。
誕生日は、誰にでも毎年訪れる。今年祝えば来年、来年祝えば再来年。命は来年もあって当然なんだ、と次第に思うようになる。そして、人は当然が失われることを恐れる。
折しもベビーブームだった魔王領の流れにも乗って、誕生日という概念は爆発的に広まった。一部では「なんか暑かったり寒かったりすると思ったけど、季節? ってのがあるのか」という声も聞かれた。俺も『魔王様生誕祭』なんて小っ恥ずかしいイベントを開いて、誕生日という存在やその祝い方を頑張って広めた甲斐があったというものだ。魔王様への忠誠心を高めるための祭典としてメグレズ辺りに上手く利用された気もしないではないが、偉い人がやっているとみんな真似をしたがるもんだなあ。
「ホホ、もちろん本人はそんな小さい時のことなど覚えとらん。88年前と言えばあれよ、西部で大規模な噴火があったろう。それを魔王様が作った年表で確認したのよ。驚いたご母堂が予定日より大分早く出産なさったそうでの、生まれたときは小柄で身体も弱く大変だったらしいぞ」
「へえ、そこからしっかり育ったんですね。いい話じゃないですか」
心配した母親にしこたま鍛えられて、今では魔王軍の将官よ、と先生は笑った。
「でも88歳なら、丁度いい贈り物がありますよ」
「ほう?」
「よっ、と」
俺はテーブルの上に文字を一つ、魔力で書いて浮かべた。
「これは『米』という字です」
「ふむ」
先生は手を止めて、目の前の光に目をやった。
「これは……あれかのう、魔王様の?」
「実家の文字です」
いちおう魔術迷彩も掛けてあるし、大丈夫だろう。
「米というと、それか」
「はい、これです。正確には、これは『ご飯』で、調理前のあの硬いやつが『米』ですね」
先生はしげしげと俺の弁当を見つめた。
「で、この『米』という字は『八十八』という数で出来ているんです。こことここが八で、これが十ですね」
「ふむ、東部で似たような文字を使う部族を見た気がするの」
「お米という植物は、植えてから88日の時間と88の手間をかけて、やっと実をつけると言われています。それで、この字なんですね」
まあ俗説らしいですけど、俺は加えた。
「寿命の長い魔族にとってはただの通過点かもしれませんが、人間にとって88歳はとても長生きです。ですから88歳をお米と掛けて米寿と呼び、その誕生日は特別にお祝いをするものだったんです」
「なるほどのう」
先生は興味深そうな顔であごひげを撫でた。
「七天七星がもう一人多かったら、危なかったということじゃの」
はっ、その手があったか!!!!????
俺は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。米だけに。
確かに八と米を結びつけて八色の姓とか八爪魚と生八ツ橋とかにでもしていれば、今頃は武力と平和の象徴として米食が全土の広がっていたはずだ! くそっ、どうして気づかなかったんだ……!!
……いや、落ち着け、まだ間に合うはずだ。七天七星は仕方ないとして、今から88人の新組織をでっち上げるべきか? それとも魔族を殺して88人、人を殺して88人の武功を顕彰し『the 88-88 club』を結成するべきか? 略称は……そうだな、『米-米クラ――
「というわけですから、部下さんには是非お米をご馳走しましょう。先生の手作りがいいでしょうね。なに、難しいことはありません、このおにぎりなら先生でも楽勝ですよ。一ついかがです?」
手渡したおにぎりを先生が一口頬張る。
「……うーむ、なんというか、柔らかくて歯ごたえのない食べ物じゃのう」
そりゃ固さと臭さだけで出来てる魔獣の肉と比べたらパンチは効いてないですが。
「ん、この中に入っているのは魚か?」
「はい、先日北で発見されたダンジョン、いい魚が獲れるらしくてですね。いくつか見本を貰ったので塩焼きにしました」
「なるほど、お米というのは味付けの強いものと一緒に食べるといいのかもしれませんのう」
先生がおにぎりをもぐもぐしながら感想を述べる。さすが先生、一発でそこまで見抜くとは。
「……それだけでは物足りないが、しかしどんな強いものともむすびつき、その色に染めてしまう。なるほど、これが魔王様の愛する食事……」
なんだか誤解を生んでいるようだが、そういう深いお考えとかは無い。
「ですがのう、老いぼれのワシはともかく奴らは働き盛り、刺激の薄い飯はどうですかの。祝いの席でこれが出てきたらがっかりするでしょう、上司が好みを押し付けるわけにはいきませぬぞ」
な、なんだと? 俺のこの銀シャリが、あの邪神像以下だと!?
「というか、魔王様が米を広めたいだけじゃろ?」
俺は先生から目をそらした。
視線の先、魔王城の中庭には次々と人が集まってきていた。食事を取る者、ゆったりお茶を楽しむもの、昼寝を始める者――ああ、せっかくの天気なのに、そんなに早食いしたんじゃ勿体ない。
「……正直ですね、皆がこんなに米を食べないとは思わなかったんですよ」
「魔族は基本肉食じゃからのう」
魔獣は瘴気からいくらでも生まれる。それを倒し、食べ、腹を満たす。これが魔王領の基本的な食生活であり、食物連鎖のサイクルだ。採取もあるが、農業はない。いくら精魂込めて育て上げた畑でも、魔物が一匹侵入すれば荒らされて終わりだ。そして怪物が跋扈するこの世界で、広い農地を守り切るのは難しかった。
「浄化魔法の実験が成功すれば、魔王領の瘴気を抑え込む目処が立ちます。瘴気によって成長する魔獣は数を減らし、体格も小さくなるでしょう。今ほど肉が取れなくなる可能性は大きいです」
加えて統一戦争が終わった今、魔王領は空前のベビーブームだ。食料はいくらあっても足りない。
中庭はついに酒盛りをする者が出ていよいよカオス、突然始まった相撲に上がる歓声やどこからか持ち込まれた楽器に合わせて歌う声、成仏寸前の幽霊や怪しい魔法陣までが好き勝手に飛び交っていた。
「もちろん肉の増産も計画していますが、穀物を食べる人を増やさないといずれ立ち行かなくなるでしょう。麦はもちろん、米、芋、草、木、果物、何でもいいので自分たちで育て収穫できる、安定して食料を確保できる手段が必要となります」
そしてそれは、魔王領の産業形態を大きく変えてしまうだろう。
「もっと米や麦の食事を広める必要があります。まあ、俺は物理的な戦争は嫌いですが、文化的な戦争は仕掛ける気満々ですからね。米を食う人を増やさないと、米食の文化が育たない。文化が育たないと、うまい米が出来ません。俺はうまい米を食うためなら何でもやりますよ」
米食の普及した魔王領は、今と決定的に変わっているだろう。力を尊び弱気を笑う、そんな遥か昔より育まれてきた伝統を塗り替えられた魔王領。そこでは、こんな光景がまだ見られるだろうか――?
俺は反り投げでふっ飛ばされてきた鹿獣人を魔力障壁で跳ね返した。
……変わるかな? 段々自信無くなってきたな?
せっかく無傷で送り返してやったのに、哀れな獣人の男は魔王様への不敬罪で吊るし上げられ、粛清マッチのリングに沈められていた。他所様の迷惑にならないよう簡易土俵には結界魔法が重ねがけされ、結果ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破タッグデスマッチ相撲というよく分からない進化を遂げるに至った。
「最初はのう」
先生は鞄から水筒を取り出すと湯呑に注ぎ、ふっと熱の息を吹きかけ温めた。
「剣の一振りでも贈ろうかと思うたのよ。じゃが、子供たちにサクラテニ様の像を配った手前、大人に別に物をやるのもはばかられてのう」
先生は中庭に目を向けたまま言った。
「それに、もうそんな時代でもないからの」
邪神像より剣のほうが絶対良かったですよ、俺はその言葉を漬物と一緒に飲み込んだ。
「生き残るのに大切なのは一瞬先、次に大事なのは二瞬先よ。組織が生き残るには十年、国ならば百年の視点も必要。そう考えると、88年も生きれば見事なもんじゃ」
先生はお茶を飲んで一息入れると、続けた。
「そして魔王様は、ワシに千年先を語った」
先生の目は土俵上のヤンチャたちを越えて、どこか遠くを見ているようだった。
「ワシも剣鬼と呼ばれてぶいぶい言わせとったからのう、倒して名を上げようという者も、配下に加えて上手く使ってやろうという者も、それは沢山おった。膨大な報酬を約束されたし、理想を熱く語られもした。百年、二百年の壮大な計画よ」
「しかしのう、千年先、二千年先を語ったのは、魔王様だけじゃった」
「全く理解できんかったよ。明日のこと、明後日のことなど考えたこともない。一年後、十年後を語る者は
「何より驚いたのは、魔王様がそれを確信していたことじゃ。その視線の先には、確かに千年先の世界があった。何を食って育てば、こんな考えを抱く? どんな道を生きれば、この視点に至る? 少なくとも、戦場でどれだけ頭を殴られてもああはならん」
「死を恐れたことなどなかったワシが、初めて死にたくないと思った」
「心底生きたい、生きて千年先を見たいと思ってしまった」
「そういう意味ではワシはあの瞬間まで、死んではいなくとも生きてもいなかったかもしれませんのう」
「ワシは、ワシを倒せる者になら従ってもよいと思うとった。力あるものが力なきものを従えるのは当然じゃと」
「あの時、世に謳われた剣鬼は死に、臆病なだけの老いぼれメラクが残された。魔王様に倒されたのじゃ」
先生はそう言って湯をすすった。中庭の喧騒が、少し遠ざかった。
「今、魔王領全土で同じことが起きておる。誰もが今日を生きるのに必死だったこの国は、すっかり変わってしまった。誰もが未来を疑わず生きるようになった」
先生は飛んできた椅子の足を掴んで投げ返した。魔王領においてはもう少しだけ今日の心配を続けたほうがいいかもしれない、俺は思った。
「魔王領が統一され、魔族同士の争いも絶えた。城壁や街道は整備され、魔獣の被害もどんどん減っておる。うちに配属される上級兵にすら、戦争を知らぬものも増えてきた。死の恐怖から逃れるための酒すら、今は純粋に楽しまれるようになった」
中庭では酔っ払い達が仲良く肩を組み、歌い、踊り回っていた。いや、流石に飲み過ぎだ、まだ午後から仕事あるだろ。
「これは、全部魔王様の手柄よ」
先生は湯呑を老いて、こちらに顔を向けた。
格好いいセリフだが、あの裸踊り集団の責任を取らされても困る。
「……俺には、分かりません。本当に、あれが正しかったのか」
俺は手元の弁当箱に視線を落とした。
「魔王領を統一するのが正しかったのか。そのために武力を用いるのが正しかったのか。もっと上手いやり方がなかったのか、そもそも争う必要なんてあったのか」
自分から攻撃を仕掛けないという一線を守ってはいたが、相手の侵攻を誘ってはいたのだから偉そうな顔なんてできるはずがない。そして、今度は文化侵略だ。
「多分、そこなんじゃろうな」
先生は言った。
「ワシは根っからの魔族じゃし、頭もようない。魔王様の考えはよう分からんよ。よう分からんが、その悩みこそまさに千年の悩みなんじゃろうとは想像がつく」
先生は自分の頭を小突いて笑った。
「じゃがの、魔王領の力ももうすこし信じてほしいわい」
魔王領の力、か。
「魔王領の統一は魔王様のお力、しかしそれを願う民の後押しなくしてありえんかった。魔王様自身がよくおっしゃることよ。そして、それは文化も同じじゃ。魔王様がいくら努力なさっても、魔族は肉と酒しか食わぬアホばかり。心配しなくても穀物食が急激に広まることはないでしょう。そして根付く時がきたなら、それは魔王領に住まう者たちの選択。ワシはそう思うのです」
……確かに、少しうぬぼれていたのかもしれない。魔王様なんておだてられてすっかり勘違いしてたけど、俺なんて米の美味さすら広められない、ちっぽけでつまらない存在なんだ。誰もおにぎりを食べてくれないし、会議に出てくれないし、書類も提出してくれない、矮小で価値のない存在なんだ。あれ、このおにぎり、やけにしょっぱいな……。
俺の心は、どこかつかえが取れたように清々しかった。酔っ払いが脱ぎ捨てたすえた臭いの靴下が飛んできても、穏やかな心で消し飛ばすことが出来た。
この道を行けばどうなるか、心配したって分かるはずはないのだ。そう、行けば分かる、それだけのことだ。
もはや迷いは晴れた。あの酔っぱらい共に紛れ、高らかに祝杯を上げたい気分だった。
「そうそう。酔っぱらいと言えば、米からはお酒もつくれるんですよ」
「何、酒ですと? 酒があるなら話が早い! 美味い酒なら贈り物にはこれ以上ありません、こんなべちゃべちゃした味も歯ごたえもないものなんかよりよほど喜ばれましょう。これはぜひ味見してみなくてはなりませんな、ここも騒がしくなりましたしさっさと魔王様のお宅に向かいましょう。そうですな、いっそ手持ちの米も半分、いや八分は酒にしてしまいましょうぞ!」
俺は魔王領の文化根絶を誓った。
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