Knifes

紅柚子葉

第1話

 彼女が死んだ。

 医者が命の終わりを告げた時、病室には彼女の母親の声が響いた。その場にいる誰もがうつむき、目元をハンカチや腕で拭っていた。ただその中で一人、僕だけは泣かなかった。いや、泣けなかった。絞り出そうとしても、満ち溢れる安堵感が悲しみを妨げでいた。

 僕は、一体いつからこんな風になってしまったのだろう。

 

 

 

「ねぇ、君は何をしようとしてるのかな?」

 五年前、これが彼女との初めての会話だった。

「……別に、なんでもいいでしょ」

 僕は彼女に目を合わせなかった。せっかく訪れたチャンスを逃すわけにはいかないのだ。僕はしゃがみ込んだまま手に持っているものをそっと首に近づけた。

「君、その手に持ってるのは、ナイフ?」

 僕の気持ちも知らずに、彼女は明るい声で話しかけてくる。

「だから、なんでもいいでしょ」

 僕の心には苛立ちが溜まっていた。ただでさえ暗かった感情が、さらに黒く濁っていくようだった。

「ねぇ──」

「いい加減黙れよ!」

 僕は思わず立ち上がり、彼女の顔に向かって吠えた。醜い叫声が響き終わる頃、僕の体は固まっていた。

「……やっぱり、君も同じなんだよね」

 彼女の瞳は、僕と同じだった。何も見えていないようで、嫌なものばかり見える、生きることに関心を失った瞳だ。そして、彼女もまた、右手に同じ物を握っていた。

「君も、死ぬためにここに来たんだね」

 今にも崩れそうな廃墟の中に、自らに刃を向ける二人が揃っていた。

 

 桐崎宇海きりさきうみ。「また誰かに自分の名前を教える日が来るとは思わなかった」と彼女は力無く笑った。彼女は僕の横に座ると、まっすぐ僕の目を見てきた。

「ねぇ、鈴野くん。君もこの辺りに住んでるの?」

 僕が頷くと、彼女は「やっぱりね」と声を漏らした。

「この廃墟、なかなか人が通らない場所にあるから。ここなら人に迷惑かけずに死ねるって思ったんでしょ」

「なんで分かるの」

「言ったじゃん。私も同じだよ」

 彼女は終始笑顔だった。この顔が作り笑いだと、僕は直感で気づいた。

「私ね、今日死のうと思ったんだけどさ。死のうとしてる君を見てたら、『止めなきゃ』って思ったんだ。自分だってこれから自殺しようとしてたのに、おかしいよね」

 彼女の言葉に、僕は心の中で共感していた。きっと、僕より先に桐崎さんがここに来ていて死のうとしていたら、僕は必死に止めていただろう。

「……ねぇ、鈴野くん。勝負しない?」

「勝負?」

「そ。相手に『死にたくない』って言わせた方が勝ち、ってのはどう?」

 彼女は以前笑顔だった。でも、この時だけはその顔は少しだけ無邪気に思えた。少しだけ見えた気がする彼女の本音に、僕は応えたくなった。

「いいよ、乗った」

 僕が立ち上がったと同時に、彼女も追うように立った。

「じゃあ、連絡先交換しよっか」

 こうして、僕と彼女の関係が始まった。

 

 

 曇り空が広がる昼過ぎ。僕は一人、駅前のベンチに座っていた。

(もうそろそろだと思うんだけどな)

 スマホの画面を開くと、「13時34分」と表示された。

「ごめん、遅れちゃった」

 視界の外から、待ち望んでいた声が聞こえた。

「34分遅刻。まぁ、最初の頃に比べたらまだマシだよ」

「えへへ、ごめんごめん。ねぇ、大空そら。今日は何をするの?」

 そう言って、彼女は無邪気に笑った。数十分待った結果この笑顔を見れるのならば、それは正当な対価と言っても過言じゃないだろう。

 週に一回、僕たちは必ず会って何処かへと出かけていた。理由はただ一つ、相手に死にたくないと思わせるためだ。

「宇海、観たい映画があるって言ってたでしょ? 今日はそれを観に行こう」

「やったぁ! 行こう行こう!」

 宇海は嬉しそうに僕の前を走って行った。置いていかれないように、僕も急いでついていく。二人で過ごすこの時間だけが、僕の癒しだった。

 ポップコーンと飲み物を買い、予約していた席に座る。

「結構空いてるね」

 休日の昼間にもかかわらず、劇場内には僕たちも含めて十人程度しか観客がいなかった。映画館を貸し切っている感覚を体験しながら、僕たちは映像の世界へと意識を委ねていった。

 

「いやぁ〜、良かったねぇ」

 宇海の両目はまだ赤く腫れていたが、その表情にはいつもの笑顔が戻っていた。

 彼女と出会って二ヶ月。僕の心には、いつも疑念があった。彼女はとても純粋で、他人想いの優しい人だ。だからこそ‥‥‥

「ねぇ、宇海。宇海はさ、なんで死のうと思ったの?」

 僕はいつの間にかその疑念を口に出していた。その言葉を聞いた彼女は少しの間驚いた表情を見せた後、クスリと笑い、ポケットから何かを取り出した。

「ねぇ、実は私も予約してるのがあるんだ。次はこっちに行こうよ」

 彼女の手にあるのは、電車の切符だった。僕に問い詰める間も与えない

ように、彼女は歩きだした。

 

 電車に揺られること約一時間。そこから歩くこと約40分。僕の足は限界に差し掛かっていた。

「着いたよ、大空」

 宇海のその一言が、体力が尽きかけた僕に救いの手が差し伸べられたように感じた。

「私、今日はどうしてもここに来たかったんだ。まぁ、生憎の曇り空だけどね」

 疲労から下がり続けていた目線を上げると、そこには広大な海が広がっていた。潮の香りが僕の鼻をくすぶった。

「ここね、私の両親が初デートで来た場所なんだって。私の名前も、この海から付けたらしいの」

 彼女はまだ笑っていた。笑いながら、その足を海へと運んでいた。

「宇海、まさか──」

「大丈夫、死なないよ。まだあの勝負は終わってないんだし」

 宇海は足首が潮に飲まれる場所まで歩くと、そこで立ち止まり、ゆっくりと僕の方を向いた。

「質問をするなら、まず自分のことを教えないと」

 宇海の瞳が、僕を貫いた。僕は彼女から目を離せなくなっていた。

「大空はさ、なんで死のうと思ったの?」

 宇海は僕の質問をそのまま返した。僕は海に足を踏み入れ、彼女の隣に立った。

「僕が死のうとしてた理由なんて単純だよ。イジメられていたからさ」

「イジメ?」

「そう。僕は運動は苦手だし、勉強も好きじゃない。人と関わるのだって、本当はなるべくしたくないんだ。でも、こんな弱い僕のことを、クラスメイトは楽しそうにくる。反応が面白いんだって」

 自分で言いながら、呆れたような笑いが込み上げてきた。

「僕は弱いからさ。嫌だとか、助けてとか、そんな言葉を言おうとした時、喉が詰まるんだ。どうしても言えないんだよ、たった一言が」

 僕はその場に腰を落とした。無情にも流れてくる海水の冷たさが、僕の心を弱らせた。

「死ねば全て終わる。そんな考えが頭に浮かんだんだ。何回も家のベランダから飛び降りようとしたけど、誰かに見られてる気がして。その人に迷惑かけるんじゃないかとか、考えちゃって」

 僕は膝を抱え、うずくまった。それを見た宇海も腰を下ろした。

「なるほど、だからあの廃墟を選んだんだ。人が来ないあそこなら、誰にも迷惑かけずに済むって」

「君も同じだろ? 宇海。君だって、あそこで命を捨てようとしてたじゃないか」

「そう……だね」

 その時、彼女がどんな顔をしていたのか、俯いた僕には分からない。海水に浸かり、少しずつ冷えていた僕の体を、彼女はそっと優しく抱き寄せた。

「君は、君自身が思っているほど弱くないよ。それは私が一番知ってる」

 彼女の温もりが僕を包んだ。じんわりとした優しさが、僕の心をさらに弱らせた。

「違う……僕は弱いんだよ。弱いから、全てから逃げ出すことしかできない」

「ううん、君は強いよ。人のために強くなれる」

「違うッ! 僕は弱いんだよ! まだ会って二ヶ月の君に何がわかるのさ!」

 僕は彼女の腕を振りほどき、惨めに吠えた。その時、僕は初めて彼女の真剣な眼差しを見た。

「君は弱くなんかない。私が一番知ってる」

 曇り空が終わりを告げ、灰色の影の隙間から降り注ぐ朱い夕陽が、彼女の瞳を照らしていた。

「ねぇ、大空はさ、まだ死にたいと思ってる? 自分の人生を、捨てたいと思ってる?」

 正直、その時の僕には自殺願望なんてとうに消え去っていた。でも、何もかもから逃げ出したい気持ちだけは、まだ持っている。いずれまた、僕は僕の命を捨てる日が来るだろう。そう思って、僕は彼女の問いかけに頷いた。その時、宇海は僕の両手を掴み、思い切り僕の体を引き上げた。

「じゃあさっ、君が捨てる残りの人生を、私にくれないかな?」

「君に、あげる?」

「そう。私を守ってほしいの。私のために生きてほしいの。私が、君の生きる理由になってあげる」

 彼女はまた、無邪気に笑った。

 正直、僕は彼女のことをまだ何も知らない。この二ヶ月で分かったことは、彼女はとても優しく、純粋で、強い女性だということだけだ。でも、それだけでも、彼女のそばにいたいと思う理由には十分だった。

「分かった。君のそばにいるよ」

「ほんと?」

「まだ君に、『死にたくない』って言わせてないしね」

 僕の表情を見て、宇海は嬉しそうに笑った。

「ねぇ、今の大空の顔、とってもいい笑顔だよ?」

 海面に写った僕の顔は、自分でも見たことないほどに頬が緩んでいた。久方ぶりに感じた、幸せだ。

 

 

 

 こうして、僕たちの交際は始まった。付き合ったことで、僕は今まで知らなかった彼女のことを多く知った。彼女は大学二年生で、高一の僕と四歳差だということ。彼女の住むアパートは僕の家から少し離れた場所にあること。彼女の両親は海外に住んでいて、つい最近までは二歳年上の姉と二人暮らしだったこと。卵焼きが好きで、目玉焼きが嫌いなこと。早起きが苦手で、しょっちゅう遅刻すること、は前から知っていたけど。彼女の新たな一面を知るたびに、僕は彼女に惹かれていった。

 

 僕が高校を卒業し、彼女も大学を卒業した後、僕たちは同棲を始めた。僕は宇海が通っていた大学に進学して、宇海は隣町にある食品メーカーに就職した。疲れきった顔で帰ってきた彼女を、僕は一生懸命練習した料理で労った。この何気ない生活が、僕はなによりも大切だった。

 

 

 

 

 ある日、僕はいつも通り講義を終えて家に帰り、二人分の夕食を準備していた。その日の献立は、宇海が前から食べたいと言っていたお好み焼きだ。前回作ったのは関西のお好み焼きだったから、今日は広島にしよう。そうして出来上がったお好み焼きは、我ながら良い感じに仕上がっていた。当然お店で出せるほどではないが、彼女を喜ばせるくらいはできそうだ。美味しそうにお好み焼きを頬張る彼女を想像するだけで、少し口角が上がった。

 

 しかし、深夜になっても彼女は帰らなかった。

(どうしたんだろう。残業かな)

 ラップで覆われた二つのお好み焼きを見つめながら、僕はリビングの椅子に座っていた。時間が経つにつれ、スマホの通知を確認する頻度が増えていった。部屋に充満していたソースの香りが消えてもなお、宇海は帰ってこなかった。

 

 気がつくと、窓から朝日が流れ込んでいた。

(やっば、そのまま寝ちゃった)

 壁に飾られた時計の針は10時25分を差していた。もう既に大学の講義は始まっている。

「あぁー、遅刻かなぁ」

 僕は立ち上がり、背伸びをした。身体中の関節が悲鳴を上げるのを気持ち悪く思いながら、ふと僕はテーブルの上を見た。お好み焼きはまだそこにあった。

(冷蔵庫に入れれば、まだ食べれるかな。いや、お腹壊すかな。どっちなんだろう)

 調べてみようと手元に置いていたスマホを手に取ると、画面には五件の着信が来ていたという通知が表示された。その通知には「宇海」という名前が添えられていた。

「宇海からの電話?」

 寝起きで状況が掴めていなかったが、数秒後、完全に意識が覚醒した。急いで電話をかけ直すと、3コールほどで通話が繋がった。

「宇海⁈ どうかしたの? 大丈夫?」

 僕の問いかけに、電話の向こうから返事が来るのに数瞬の間があった。

「……あのー、もしかして、宇海の彼氏さん?」

 若い女性の声だった。宇海に似てはいるが、違う声だ。僕は彼女が誰なのか、なんとなく察していた。

「はい、そうです。あの、ひょっとして、宇海のお姉さんですか?」

「そう、そうです。宇海の姉です。よかったぁ、ようやく繋がったぁ」

 電話越しに安堵の声を漏らす女性に、僕は少しだけ強めの声で問いかけた。

「あのっ、何の用事でしょうか。なぜ宇海の電話からかけてきたんですか」

「取りあえず、今から言う場所にすぐに来てください。そこで説明しますから」

 そう言って宇海の姉が伝えた場所は、隣町にある大学病院だった。嫌な予感がした僕は、すぐに家を飛び出した。

 

 病院内は走るな。そんな当たり前のことが、僕には出来なかった。入り口の自動ドアが開くその数秒が、あまりにも長く感じた。病院内を駆け抜け、宇海のお姉さんに聞いた部屋の前に着いた瞬間、僕は動けなくなった。目の前に立つ白いドアの向こうには、多分彼女がいる。でも、今の彼女を受け入れる覚悟が、僕には足りなかった。やけに激しい息切れだけが、僕の耳に響いた。その音を掻き消すように、僕は大きく息を吐いた。少し鼓動が落ち着いた時、僕はドアの手すりに手をかけた。

 

「あ、大空。おはよー」

 ドアを開けると、そこにはいつも通りの笑顔を向ける宇海の姿があった。でも、彼女の頭には包帯が巻かれ、彼女の右腕には点滴の管が通っていた。

「宇海……」

「どうしたの? 元気なさそうだね」

 優しく微笑む宇海を見て、身体中から力が抜け、僕はその場に座り込んだ。

「良かった……無事で」

 力無く笑う僕に、宇海は少し照れくさそうに笑った。

「ごめんね? 心配かけちゃって。どうやら、事故に遭ったみたいでさ」

「そ、そうなんだ。平気なの?」

「うん、平気。まぁ、まだちょっと頭は痛いけどね」

「ごめんね」と両手を合わせる宇海に、僕は精一杯の優しい笑顔を向けた。

「そういえば、さっきまでお姉ちゃんがいたんだけど……あっ、お姉ちゃん!」

 宇海は僕の背後を見て、嬉しそうに笑った。

 後ろを振り返ると、そこにはレジ袋を持った一人の女性がいた。

「あぁ、この人が?」 

「そう、私の彼氏」

 僕は急いで立ち上がって、女性に深々と頭を下げた。

「あ、あのっ、妹さんとお付き合いさせていただいています、鈴野大空と申します」

「あぁ、いいんですよ、そんなにかしこまらなくても。話は妹から聞いていますから」

 頭を上げた僕に、お姉さんは軽くお辞儀をした。

「宇海の姉の渚です。妹がいつもお世話になっております」

「お姉さんこそ、そんなにかしこまらなくても……」

 互いに挨拶を終えた後、渚さんは宇海のベッドの机にレジ袋を置いた。

「ほら、買ってきたよ。お茶とプリン」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 嬉しそうに袋を漁る宇海を置いて、渚さんは僕に近づいてきた。

「鈴野さん、少し、お話があるんですけど……」

「……はい」

 きっとその言葉が来るだろうと、僕は予想できていた。

「宇海、ちょっと彼氏さん借りるわね」

「お姉ちゃん、口説かないでよ?」 

「なーに言ってんのよ。私は既婚者。それに、はタイプじゃないの。さ、行きましょうか」

 そう言って、僕と渚さんは病室を後にした。

 

 宇海の病室から少し離れた飲食スペースにあるソファに、僕と渚さんは腰を下ろした。渚さんの話す準備ができるまで数秒の間があった。

「あの、鈴野さん、実は──」

「記憶をなくしたんですよね、宇海」

 思わぬ返答に渚さんは少し驚いた表情を見せたが、その後すぐに暗い顔へと変わった。

「はい、高次脳機能障害による記憶障害だろう、とお医者さんが」

「……そうですか」

 渚さんから聞いた話だと、昨日、宇海は夜遅くまで残業した後、トラックと事故に遭ったらしい。そのトラックの運転手が救急車を呼び、この病院へと搬送された。

「どうやら、妹はフラフラの状態で、誤って道路に出てしまったようで」

 確かに、最近彼女の帰る時刻は段々と遅くなっていた。「無理はしないで」と何度も言ったが、彼女はいつも「大丈夫」と笑っていた。

「……無理矢理にでも、休ませるべきだった」

 僕は両手を握り締め、唇を噛んだ。心に溜まっていく後悔を抑えることが精一杯だった。

「……でも、記憶障害といっても、多分ここ数年の記憶ですよね。僕と彼女が付き合った後の」

「いえ、それが……」

 僕が渚さんの顔を見ると、彼女は僕以上に後悔に苛まれていた。その瞳から溢れる涙を、僕は止めることはできなかった。

「昨日までは、妹は自分が社会人だということを覚えていました。でも、今朝には、その頃を忘れて『自分は大学生だ』と」

 その言葉を聞いて、僕の思考は少しの間止まった。

「……記憶が、段々無くなっていっている、ということですか?」

 僕の問いかけに、渚さんは泣きながら頷いた。脳の奥底にあった最悪の予想が、現実として現れた瞬間だった。

「……少しずつ記憶をなくして、最終的には、命も」

 渚さんは絞り出すようにそう言った。目の前の視界が黒く染まっていくのを感じた。僕が瞳を閉じた頃には、渚さんと、僕の泣く声だけが聞こえていた。

 

 それから僕は、宇海の病室に毎日通い続けた。記憶がなくなっていくのと呼応するように、彼女の体は段々と細くなっていった。

 事故から二週間が経ったある日、病室に入った僕を見て、彼女はこう言った。

「あのー、どちら様ですか?」

 ついにこの時が来たか、と、僕は唇を噛み締めた。

「……僕は、渚さんの同僚です。彼女が忙しい時は、こうやって、貴女の様子を見てほしいと頼まれたんです」

 僕は、事前に渚さんと打ち合わせをしたセリフを彼女に吐いた。「あぁ、なるほど」と納得した表情を浮かべる宇海を見て、僕は自分が彼女にとって他人になったことを自覚した。

 それから毎日、僕は彼女の病室に訪れるたびに、あのセリフを吐き続けた。やり場のない悲しみが、僕の心を蝕み続けた。

 

「ねぇ、鈴野さん。一つ、お願いしてもいいですか?」

 ある日の昼、いつものように「初めまして」の挨拶を終え、軽く雑談をしていると、突然宇海はそう言った。

「はい、何ですか?」

「ここに、座ってください」

 そう言って、彼女は点滴が通った右腕でベッドを軽く叩いた。僕がそこに腰を下ろすと、彼女は両手を僕に向けて広げた。

「今だけです。ぎゅってしてください」

 彼女の瞳はとても幼く、弱々しかった。僕は彼女の体に腕を通し、優しく抱き寄せた。

「……私、今朝、姉から聞いたんです。私の記憶が、どんどんなくなってるって」

宇海の声は震えていた。

「そう、ですか」

 何となく予想はしていた。きっと渚さんは、宇海に嘘をつき続けるのに耐えられなくなるだろう、と。

「それで、思ったんです。きっと鈴野さんは、私にとって大事な人だったんじゃないかなって」

 その言葉を聞いて、僕は目を見開いた。

「どうして、そう思ったんですか?」

「だって、私と話している時の鈴野さん、凄く寂しそうな目をしてたから。それに、こうやって抱きしめられると、凄く安心するんです」

 たとえ記憶を失っても、彼女は桐崎宇海だ。優しくて、頑張り屋で、でも、少し甘えん坊で。僕の気持ちを、すぐに見抜いてしまう。

「ねぇ、鈴野さん」

 彼女の声は優しかった。それでも、今にも泣きそうな僕よりも、彼女の体が震えているのを感じた。

 

「私、死にたくないなぁ……」

 

 そう言って、彼女は静かに涙を流した。そんな彼女を、僕は優しく抱きしめることしかできなかった。二人しかいない病室で、僕らは静かに泣き続けた。

 

 

 

 数日後、宇海は息を引き取った。彼女の病室には、日本に帰ってきた彼女の両親と、渚さん、医者と看護師、そして、僕がいた。彼女が眠るベッドに顔を埋め、大きな声で泣いている母親の後ろで、僕はその光景をただ眺めていた。

(どうしてだろう。なんで、涙が出ないんだろう)

 僕の心には、悲しさや寂しさより、安堵感が勝っていた。もうこれ以上、彼女の辛そうな姿を見るのは耐えきれなかった。

 少しずつ細くなっていく体と声。現実と夢との境がなくなり、訳の分からないことを言い出す日もあった。そんな彼女を見続ける日々で、僕の心は少しずつ磨耗していった。

 

 通夜を終えた僕は、一度家に帰ってきていた。いつもと何も変わらない部屋が、そこにはあった。喪服を脱ぎ、リビングの机に置いた。

(そういえば、アイロンってどこにあったっけ)

 普段、服のシワをあまり気にしていないから、どこにアイロンがあるのか忘れてしまっていた。

(……そっか。宇海はいつもスーツで通勤してたから、宇海なら知ってるかな)

「ねぇ、宇海。アイロンって──」

 そう言いかけた瞬間、僕は自分が言おうとしていた言葉に気がついた。声が軽く反響した後、部屋には静寂が訪れた。

「……そっか」

 その瞬間、僕はようやく理解した。床に腰を落として、体を丸めた。成人を過ぎた男のだらしない泣き声だけが、やけに広く感じる部屋に響き渡った。

 

 

 

 数週間後、僕は渚さんに呼び出され、隣町の喫茶店にいた。

「ごめんなさい。急に呼び出して」

 向かいの席に座る渚さんの表情は、とても暗かった。

「いえいえ、学生は割と暇してるので」

 そう言って場を和ませようとしたが、彼女の表情は変わらなかった。

「鈴野さん。実は、お見せしたいものがあるんです」

 渚さんはそう言うと、カバンの中から一つの封筒を取り出した。

「あの……これは?」

「本当は、もう少し早くお渡ししなければならなかったんですが。是非、帰ってお読みください」

 渚さんはそう言って頭を下げると、封筒をテーブルに置き、そのまま喫茶店を出ていってしまった。

 

 

「なんだろう、これ」

 帰ってきた僕は、封筒を開けずにそれを眺めていた。何故か、これを開ける勇気が持てなかった。

「お読みくださいって言ったってことは、お金じゃないよなぁ。何かの書類かな」

 五分ほど眺めた後、僕は意を決してその封筒を開け、中身に目を通した。

 

 それは、彼女からの、桐崎宇海からの手紙だった。

 

 

 

「大空へ

 

 元気ですか? この手紙を読んでいるってことは、もう私は死んじゃったのかな。

 ……なんてね。このセリフ、言ってみたかったんだ。

 もしかしたら、お姉ちゃんから聞いたかもしれないけど、私、記憶がどんどんなくなってるらしいの。まぁ、それは薄々気づいてたんだけどね。お見舞いに来てくれた大空が、明らかに高校生じゃないんだもん。かっこよくなったね。

 

 さて、ここからが本題。

 私ね、君に伝えてないことがあるんだ。忘れちゃう前に、この手紙に書いておくね。

 

 実はね、大空と出逢ったあの日、私は自殺をしにあの廃墟に行ったんじゃないんだ。大空の自殺を止めたくて行ったの。

 君が住んでたアパートの向かい、そこは私の友達が住んでたマンションだったの。私はその友達の家によく遊びに行ってたんだ。

 ある日、ベランダから外を眺めてたら、柵を越えようとしてる君を見つけたの。止めようとしたけど、その前に君は部屋に戻っていっちゃった。それが、君と出逢う二日前の話。

 

 そしてあの日、君があの廃墟に入っていくのを見たの。私はその時、君があそこで自殺するんだって、根拠も無いのに思ったんだ。

 それから、すぐそばにあるホームセンターに行って、レジから一番近くにあったナイフを買って、あの廃墟に行ったんだ。首吊り自殺かなって思ってたから、縄を切ろうと思ってね。

 でも、君はナイフを持っていた。だから、私は君と同じ、自殺志願者を装うことにしたの。そうするのが、一番良いかなって思ったから。

 

 今まで騙しててごめんね。先に死んじゃうけどごめんね。それでも、君と過ごした時間は、とっても幸せでした。

 ありがとう、大空。私と出会ってくれて。


 

 桐崎宇海より」

 

 

 

 読み終えた時、その手紙には大粒の涙が染み込んでいた。僕は手紙を握り締め、胸に手を当てた。

「……こちらこそ、ありがとう、宇海。僕を救ってくれて」

 

 

 

 それから、新しい毎日が始まった。きっと僕は、彼女を失った悲しみを忘れることはできないだろう。

 でも、それでも、宇海がくれた幸せな日々を忘れずにいられるのなら、それも良いと思った。

 

 太陽が隠れ始めたモノクロな世界で、君だけがいないこの部屋で、僕はナイフを手に取った。


「今日は、何を作ろうかな」

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Knifes 紅柚子葉 @yuzuhakurenai_77

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