第7話 どきどきしたなぁ


 千年前のサー=セリーヌによる暴動――要療養者の大規模拉致監禁事件、『コアラ・サナトリウム計画』の頃から、婚姻、こと恋愛感情をめぐる精神的磨耗は人間に過分なストレスを与えるものとして徹底的に排除されてきた。

 そこで提唱されたのが、『感情によらず、政府機関が婚姻を定める法案』だ。


 当初は『好きでない者と結婚することがストレス』と考える者が多かったため、計画は軌道に乗らず頓挫すると思われた。

 しかし、『狂人』――当時でいうところの『要療養者』の徹底的な排除と淘汰が繰り返されてきた結果、「結婚や子作りとはそういうものだ」と納得のできる者だけが生き残り、今に至る。


 恋愛など、所詮生殖活動に必要な本能の一部だと、ドクターもよく言っているし。


 きょとんと首を傾げると、朝顔は「コアラ組に期待した私が馬鹿だった」と嘆く。


「今度、私のカリキュラムにある『性的事項理解』と『恋愛感情淘汰論』で指定されている教科書――『古の少女的聖典少女マンガ』を貸すから。読んで」


「でも……狂人間での学習範囲外教科書の貸与は、禁止されていて……」


「いいから。読んで。京太がナナオに二度と変なコトしないようにね!! ああもう、私のSAN値までヤバくなってきたじゃない。ドクターに嗅ぎつけられる前に帰らないと……菫! もう帰ろう!」


 再び中庭に視線を向けると、菫はユーカリの下に体育座りをして木の根を突いていた。そうして、鞄に入っていたと思われるペットボトルを取り出して、おもむろに地面にぶっかける。


「……菫は何をしているんだ?」


 問いかけに、朝顔は短くため息を吐いた。


「見ての通り、蟻の巣に水を流し込んで遊んでいるみたい。歪んだ出来損ないの、口に出すのもおぞましい『感情』を、ああやって発散――もとい、を楽しんでいる真っ最中。だから普段は私が監視してる。でも目を離すとすぐに……」


「え~ひどい! 問題アリアリじゃないですかぁ! 蟻だけに!」


「なぁ朝顔。失礼は承知で尋ねるんだが。菫は、どうしてあの性格で、殺処分されないんだ?」


「菫はパイロットとしての成績が日本支部内で一番良くて、実質国防の要を担っているといっても過言ではないの。だから」


「にしても、やりすぎじゃないのか? ああもう菫、やめろって!」


 腕を掴んで引っ張り上げると、これ以上ないくらいの不機嫌さで睨めつけられた。


「ンだよ京太ぁ。後輩のくせにボクの行動にケチつけるつもりかよぉ? なーに? お前もこの蟻みたく、ぐっちゃぐちゃのどろっどろにされたいっていうのぉ?」


「そうじゃなくて! フツーに! 蟻が可哀想だろう!?」


「……『可哀想』?」


 その言葉に、菫色の瞳が歪に煌めき、ぴくり、と整った眉が動く。


「ははっ。それこそ、ボクには無い感情――されてしまったモノだねぇ!」


「な――」


「ドクターから聞いたよぉ。ボクたち狂人は何かしら、進化の過程で『すべての感情』でなく『一部の感情』が淘汰されてしまったのかもしれないってねぇ。要は、『そいつ』があると生きづらいのさ! だからポイした! そう、ボクには『可哀想』が無い。お前は? 何が無いっていうんだぁ?」


 一部の感情が、ない……残念なことだが。俺はその答えを知っている。

 さっきのナナオとの出来事や、朝顔との会話の齟齬――


「俺には……『羞恥心』がない」


 もしかしたら、『性的感情』も――


「あっはは! 厚顔無恥! 恥知らずってやつかぁ!!」


「菫。多分、そっちの『恥』じゃない。『恥じゅかしい』の方よ」


「んあ~? イインチョーは細かいなぁ。まぁどっちでもいいか。京太がドクターを好きじゃないなら、ライバルじゃあないし。ボクにはカンケーのない話だし。にしても、ナナオたんはどーしてこんな奴がイイんだかねぇ?」


「菫ちゃんっ!?!?」


 なぜか急に声を荒げるナナオのSAN値が、ピピ、と歪な音を刻む。

 「も~!帰ってよぉ!」と背を押され、朝顔と菫は退散していった。とぼとぼと廊下の奥から、ふたりを見送ったナナオが帰ってくる。


 俯くと、ふわりとゆるいツインテールが揺れて、床に柔らかな影を落とす。


「……皆、わかってないなぁ」


(ナナオがピピ、ってしたのは、京太さんが『ナナオのパンツに興味ない』って言ったからなのに……)


「ナナオ?」


「んーん、なんでもないですよぉ! それより、本。京太さん本を借りたんじゃないんですか? ナナオにも見せてくださいよ!」


「ん。ああ……さっきは咄嗟に隠しちゃったけど、これを借りたんだよ。『カグヤ』と『月』にまつわる資料」


「『かぐや姫』……童話ですか?」


「みたいだな。俺の権限じゃあ、これくらいしか閲覧できないみたいで。精神年齢制限はないから、暇ならナナオも一緒に読もうぜ。この時間なら食堂も空いてるだろうし」


「ナナオは別に、京太さんの部屋でもいいですけど……」


「なんで? 俺の部屋なんて狭いし、ベッドくらいしかねーぞ」


「だからいいんじゃないですか……」


 ナナオは再び俯く。


(京太さんが咄嗟に本を隠したのは、『見られたら恥ずかしいから』じゃないの? だったら、京太さんに無い感情は、『羞恥』じゃなくて、『恋』。異性に対する関心なんじゃあ――?)


 京太と話をすればするほど、可能性が色濃くなってくるのを感じる。

 不安になるとSAN値が減って、ドクターにユーカリドラッグを増やされるからダメだ。


(痛いけど、この気持ち……忘れたくないよ……)


「うぅ……。どきどきしたなぁ……」


 揉まれた胸を抑えながら、ナナオは食堂に向かう京太のあとについていったのだった。

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