第4話 『コアラ』の人たち

 争いのない世界で、平和の象徴とも呼べるコアラを胸に抱え、ドクターは呟いた。


「可哀想に。彼女たちカグヤの世界――月には、そういう文化がなかったのかもしれないね。誰かと争うことをやめよう、闘争心なんて破棄しようという、平和に至る考えが。だから他惑星を破壊しようなんてことになるんだ」


「奴らの目的は、何なんでしょうか?」


 腕まくりしていた服を直しながら問いかける。

 さすがはドクター、注射も全然痛くない。


「カグヤって確か、百年以上昔から地球に来ているんだよねぇ? 医学や科学ならまだしも、僕も歴史は門外だからなぁ。聞いてみないと、よくわからないや」


「聞くって……誰に?」


 率直な問いかけに、ドクターはきょとんと目を丸くして、コアラの頭に顎を乗せる。乗せられたコアラも、ぽかーんと、つぶらな瞳で見つめてくる。


「カグヤ本人に?」


 戸惑いながら、ドクターはそう答えた。


「え。でも、あいつら煽っても何も言い返してきませんよ」


「煽るって……そりゃあ、なぜかケンカ腰なゴローさんがいけないんじゃない? 敵意を向けてくる人間、もとい生命体と、対話しようなんて気にはならないでしょ、普通」


「そうなんですか? 売られたケンカは買うでしょ、普通」


「だからキミは狂人なんだ――よっ!」


 ぺけん! とデコピンを食らって、思わず丸椅子から落ちそうになる。


「対話が可能かどうかも知らないけれど、技術力で劣っている以上、どの道ボクらは防衛に努めるより他ないよ。人類が皆『コアラ』になったおかげで世界は平和になったけど、その分生産力と知能レベルも絶望的なまでに低下している。今は先人の残したラボと自給自足システムを維持するだけで精一杯だ。でも、そんなに気になるのなら、図書館で調べものをしてみたら?」


「図書館……。……ウス」


 勉強熱心な生徒を見送る微笑みに促され、俺は診察室を後にした。


 図書館は、コアラ・サナトリウム内に用意された勉強施設で、狂人が精神的に発達して成熟するために必要なものとして、組織が主に管理している。

 俺の狂人カードキーで入れば、見る権限のある蔵書であれば読めるはず。


 閲覧可能図書は、個人の年齢や精神の発達具合に伴って適したものとなるので、ユーカリドラッグの定期摂取や戦闘訓練の時間割の合間にいつでも覗くことができる。


 狂人は他の平穏な人々――『コアラ』と違って、ドクターや訓練の上官である先生たちと言語を用いて会話する必要があるから、一定レベル以上の勉強も義務とされていた。当然、数百年前の古の文化――『学校』で行われていたみたいな授業もある。


 今回は、それ以外の自主学習にあたるわけだから、果たしてどれだけの本が閲覧できるかわからないが――まぁ、ドクターが止めないんだ、悪いことじゃあないだろう。

 それに、賢くなればそれだけドクターとの会話の幅が広がる。

 俺は勉強が嫌いじゃなかった。


 図書室に向かう道すがら、庭のユーカリを手入れしている一般人――コアラを見かけた。見たところ、数名で手分けして、与えられた職務である庭木の水やりと掃除を行っているらしい。


 遺伝的な要因か、コアラの容貌は皆、似通うことが多かった。透き通る銀糸に、虚ろな琥珀の瞳――その瞳に『感情』の色はなく、生後間もなくして入れられる保育施設で、同じように感情のない保育士を困らせることなくだ。ちなみに俺は、


 感情が豊かで、粗暴で、泣いて喚いて。他と同じように大人しくすることができなかったんだ。

 毎日大人の真似をして、必要最低限を食って眠るだけの日々。通常、二~三歳にもなれば、『それが普通だ』って気が付いて、必要以上を求めることなんてなくなる。

 生活に不必要な感情は薄れていって――いや、ドクターの話だと、今の時代の真っ当な人間コアラはそれらの感情を育む機会と脳機能が淘汰されていて、そもそも感情が生まれないって話だったかな。


 いずれにせよ、彼らは、感情を持たない正常な人間だ。脳機能が歪に発達してしまった狂人の俺とは――違う。


 戦火に晒されることもなく、個々人に与えられた最低限をこなす、善性の塊。平和そのものだ。恐怖や羞恥、興味や闘争、葛藤にSAN値を乱されることもない。


 ある者は水やりだけ、ある者は肥料の散布だけ。残りは余分な枝葉の伐採を。

 最低限の知能で行える範囲のことを、きちんとこなして全うしている。

 俺たちの暮らすサナトリウムのラボは、そうやって回っているのだ。


 どんなに難しい自給自足のシステムでも、ひとつひとつの業務を細かに分解してひとりひとりをパーツのように当てはめれば、個人に必要な思考プロセスは極少に軽減される。

 この世界には争い――競合がないから。皆で仲良く暮らせているし、ひとりひとりの負担はとても少ない。だってそれ以上は、《必要がない》。


 そんな平和な世界だからこそ、もっと上を目指そうなんて欲深い奴も出てこない。  

 そんな悪い奴がいるとすれば、それはおそらく狂人――俺達の誰かになるんだろう。

 黙々と緑に向き合う姿は穏やかで、どこか充足しているようにも見える。


(いいなぁ。俺も、いつかあんな風に……)


 ――平和の、一部になりたい。

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