第3話 みんなコアラになればいい

 ◇


「みんながみんな、『コアラ』になっちゃえばいいのにねぇ」


 戦闘後の感情鎮静剤、ユーカリドラッグを投与し終えたドクターは、ガラス越しに緑の咲く中庭を眺めた。


「そしたら争いも苦しみもなく、みーんな仲良く暮らせるっていうのに。ふふふっ。ゴローさんも、一緒にもふもふしてみるかい? なんならボクをもふもふしたっていいんだよ?」


「えっ? あ、いや……その、遠慮しておきます……」


「ゴローさん、顔真っ赤。照れ屋さんなんだねぇ? それも、にはない『感情』だ」


 視線の先では、コアラとパンダ、ナマケモノが、互いの邪魔をせず、領分を犯さずに安穏と暮らしている。

 これが、俺たちの属する組織『コアラ・サナトリウム』――および現世界の思い描く、平和の姿そのものだ。


 コアラという生き物は、自らが毒を食べられるようになるという独自の進化を遂げることで、食物をめぐる他種との争いから脱却した稀なる存在である。

 ただし、主食たるユーカリの葉は栄養価が低く、含まれる毒を分解するにはとても時間がかかる。それゆえコアラは常に体力を温存し、日がな一日うとうと眠りこける必要があるというわけだ。

 だが、他にユーカリを食べられる生き物もいない為、コアラを食う敵さえいなければ滅びてしまうことはない。


 パンダは、燃費が悪くて一日中食べることを強いられる、他の生物が好まない笹を食することで生き延び、ナマケモノは一日に八グラムほどの木の葉しか必要としない異常なまでの低燃費。皆一様に、独自の食性を得ることで闘争を避けることに成功した生き物たちである。


 それらを真似て、『完全なる争いと苦しみのない世界』を実現しようと立ち上がったのが、今からおよそ千年前――2023年に生まれた、初代『コアラ・サナトリウム』の総帥、サー=セリーヌだ。


『すべての世界から、争いによる苦しみをなくしたい』。


 その崇高な志を胸に、サー=セリーヌは幼少期より医療、科学、あらゆる分野をおさめて大成し、世界的な天才学者となった。


 中でも、【SAN値――Stress・ Analysis・Notify値】の概念を人々に定着させ、常時ストレス分析通知システムを社会に導入したことは世界を変える偉業とされた。


 それは、耳に装着した小型インカムによって常に脳波を観測、分析し、心拍間隔の変動により自律神経の状態をモニタリング。

 俗にいうストレスの脅威レベル――SAN値を測定するというものだ。


 サー=セリーヌは、SAN値の減少が一定レベルを超えると、人は精神的ゆとりや他者への思いやりを失い、暴力性が増すと提唱した。

 ストレスが増えれば誰しもイライラしてしまう――人類の皆が同意しうるその事象に、科学的根拠と解決策を示したのだ。


 SAN値が危険水域に達した場合はインカムからアラートが発せられ、それを自身と周囲に知らせる。このSAN値インカムの稼働テストを受け入れた世界的に有名なホワイト企業からは、想定以上のセクハラやパワハラが告発されることとなり、自社のホワイトさをアピールする作戦は大失敗。

 しかし、「自分の会社は大丈夫」と思っていたこと、世界的に注目されている実験を自社の運営するSNSで随時報告することで多額の広告収入を得ることを期待していた企業は、その杜撰な結末を全世界に生中継することになってしまったのだ。


 しかし、サー=セリーヌが学術的権威であったために実験結果を揉み消しにされるということもなく。躍起になった企業が莫大な資金を懸けて大規模な社内改革に腰をあげたのが、『すべての始まり』だった。


『SAN値インカムからアラートが発せられた場合、その社員は即時退勤として休息をさせる』


 SAN値回復休息中は、育休等と同じく給与の約半額を保証する。

 一見すると、働く人がいなくなってしまうのでは、という改革ではあった。

 事実、開始当初は社員の約三分の一が稼働できない事態に陥りもしたが、それでも。それどころか、業績が目に見えてアップしたのだ。


 アラートを発した者は心身の休息を得、アラートを誘発することとなった上司などの人物は、「これがいけなかったのか」と自覚し、改めた。

 改められない一部の者は異動や地位を追われて、それによりアラートを発した社員たちは再出社できるようになる――社員全体の幸福度があがり、それが会社への感謝となって繋がった形になった。


 SAN値インカムは、目に見えない『不和』を科学技術で解消する偉大な発明と呼ばれた。


 それから他の多くの企業がこのSAN値インカムを導入することとなり、人々は心穏やかに、平和的な進化を遂げてきた。

 そうしてSAN値という概念が社会に定着して十余年……


 暴動が、起きた。過激派が現れたのだ。


 SAN値が常に危険水準にある者を、強制的に施設に入れて療養させる運動が、世界各地で、同時多発的に起こった。

 他でもない首謀者は、サー=セリーヌだった。


 彼女は、しばしばSAN値が危険域に達してしまう《三分の一の働けない者》を名指しし、こう言った。


『なぜ、そんなにも精神的に穏やかでいられないのですか?』


 それは、自己の価値を自己に持たず、他者と比べ、競ってしまうからだ。

 争ってしまうからだと。

 争いは――『悪』。

 凄惨な歴史を歩んできたからこそ、人々はそれを知っている。


 表立って反論すれば自分は争いを肯定していると捉えられてしまうし、彼女が心から人々を思いやっての発言だとわかっているから、世論も為政者も彼女に逆らえなかった。彼女は、ときの聖女だったのだ。


『すべての世界から、争いによる苦しみをなくしたい』

 ――そうして、コアラ・サナトリウムは生まれた。


 SAN値が危険域に達してしまう人間にも、居場所を――

 感情を抑制し、SAN値を危険域から救いあげる薬、『ユーカリドラッグ』を定期的に投与することで精神の安寧を保つことが目的の施設だ。


 ユーカリドラッグの主成分はアルカロイド。麻薬や麻酔にも似た、毒にも薬にもなる有機化合物だ。それを投与すると、人々の心は端的に言って――『平和になる』。SAN値を安全グリーンに保つことができるようになった。

 それから千年の時が経ち――今。3053年。


 世界から戦争がなくなった。人間は皆、コアラになったのだ。

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