第一幕 木の鳴る音
1-1
船の甲板に出ると、見える北の大地から涼しい風が吹いていた。
「父さん、見えてきました。あれが蝦夷ですよ。」
後ろをゆっくりと着いてくる父に、龍雄はかの大地を指差してみせる。
父―藤田五郎は霞む目を擦り、瞬きを繰り返す。海に浮かぶ薄膜のような霧の向こうに確かに緑が見えた。
「そうか、あれが…」
蝦夷。最果ての砦である。
「見えましたか?遂に父さんの積年の夢が叶うときが来ましたね。」
「…あぁ、実に感慨深いものだな」
これが四十年前と同じ景色であるかもしれない、そう思えば胸から込み上げてくるものは熱くてどこか苦しい。涙が滲んでくるようだ。
五郎には死ぬまでに一度蝦夷に渡ってみたいという願望があった。それを三男の龍雄にある日何気なく溢したところ、いつそんなことをしたのやら妻の時尾を説得してくれたらしく、今回男二人旅という形で実現したのである。
「そうですね、えっと、母さんを説得するのは中々骨が折れることでした。」
そのことに触れれば龍雄は少し困ったような笑みを浮かべた。
「想像に難くない。老人の詰まらん話で済ませれば良かったろうに。」
「そんな悲しいことを今言わないで下さいよ。僕も行ってみたいと思ってましたし」
それに、と龍雄は続ける。
「母さんが居ては色々と聞きにくい話をゆっくり聞きたいのですよ」
「…調子のいい奴だ」
船はやがて鷲ノ木浜に停まった。二人はそこから汽車に乗り換えた。向かうは箱館である。
ここには当時線路などなかっただろうから、一行は歩いて箱館を目指したわけだ。
車窓からは、かつて戦地だったとは思えぬのどかな風景が覗いていた。
天からも同じように見えているといい、五郎はそんなことを考えていた。
「蝦夷に行きたい理由は、やはり先妻の方と関係があるのですか?」
龍雄は身を乗り出し、興味津々である。そういうところが可愛いところではあって、五郎は突っぱねることが難しい。
「……そうだ。」
「やはり!大層執心であったと聞き及んでいますよ」
「執心…」
「母さんはその方をご存知で?」
「いや、殆ど知らぬ。少しだけ話したことがあるくらいだ。」
「まぁ当然、母さんには話しにくいことですよね。僕には話してくれますか?」
「そうだな。」
自分はもうすっかり歳を取ってそう長くはない。寧ろ許されるなら誰かに言い伝えたいと思っていた。
そうでなければ、彼女の存在を知るものが途絶えてしまう。生前、ただでさえどこか寂しい人であったのだ。
「その方の名前は何と言うのですか?」
「…まこと、だ。真の命と書く。」
「真命さん…男のような名前ですが…」
「男としての人生を歩もうと考えてその名を貰ったそうだ。元の名を美世という。」
両名前に、名付けた者の祈りのようなものを感じる。
「面白いですね。なぜ男として生きようと思ったのでしょう?」
「それは……」
言いかけたところで汽車が停まった。箱館に着いたようだ。
「龍雄、降りるか」
「あ、はい。そうですね。」
龍雄がまとめて荷物を持って降りる人の列に素早く入っていった。五郎は窓枠に掴まってゆっくりと立ち上がる。
彼女がこの地へ来たのと同じ頃、五郎は会津で戦っていた。人々の往来に、絶え間なく鳴り響く銃声を自然と重ねる。
そのひとつは副長の腹を、そのまたひとつは真命の右足を貫いた。
一体、どれ程の痛みを伴ったのだろう。
「父さん、行きましょう!一本木関門というところでしたね。きっと懐かしい人がお待ちですよ。」
無邪気に笑う龍雄。五郎の感傷に浸る気持ちが少しだけ軽くなったような気がした。
並木道を歩いて見上げれば、日を受けた葉が擦れ合う。
「……始まりは、今日のような爽やかな日であった。」
五郎は脳裏に浮かぶ景色を、隣を歩く愛しい息子に分け与えるように語ったのだった。
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