蜻蛉の記憶
浅倉 山義
序章
序章
序章
ようやく雪掻きをせずとも歩けるようになった道。しかし、日影を形作るように残雪は溶けきれずにいる。
山口次郎はその片手に大根を持って小さな我が家へ向かっていた。幾分帰りが早まったから、この大根は夕餉にできるはずだ。
「今帰った」
家の戸を開けると奥から「お帰りなさい」と迎える声がしたが、聞いただけで声の主が心ここに在らずなのがわかる。次郎はやれやれと土間で履物を脱いだ。
「仕事から帰った夫を放って何をしている?」
中は囲炉裏の火でたいぶ暖まっていた。その傍に座していた妻の
「放ってだなんて随分人聞きの悪い言い方。」
「…冗談だ」
「剣は取れても笑いを取ることは出来ぬご様子で。」
言い返す言葉のない次郎は未だ慣れぬ洋式の着衣を脱いだ。床に畳んである馴染んだ着流しを手に取ろうとすると、既に細い手が伸びていた。
「私が」
両手を床に付いて、重心を左足にして立ち上がる真命。
彼女は自分と同じように長い間剣を握っていた身。体幹が安定しているのはわかるが、次郎は咄嗟に脇を支えた。
真命はそれに対して謝るのでも礼を言うのでもなく、ただ眉を下げる。
悲しげに見えるのが気になるところで。
「…冗談を本気にしたのか?」
「剣にかまけるなと顔に書いてありましたよ。」
「そんな風に思ったつもりはないが」
ふふ、と笑う真命が差し出す袖に次郎は腕を通していく。
「…なぜ悲しげな顔をした?」
「え、そんな顔をしていましたか?」
「していた。俺が脇を支えたときだ。」
次郎の詰問に覚えがありません、と尚飄々と答える真命。それと同時に腰の辺りで帯が絞められた。
次郎は振り返り、真命の腕を引く。
「俺がいない間、何かあったのか?」
「いいえ?」
「では右足が痛むのか?」
「いえ?既に痛みを感じる感覚はありません。」
「……俺が気に障るか?」
「そんなことないですって、もう。」
真命はくすくすと笑う。が、次郎の剣幕に降参したのかぽつりとこう漏らした。
自分が情けなく思えただけのこと、と。
「ただでさえ子を産める体ではないのに、家のことも思うようにできぬとは…私には人の嫁など到底務まるものではありませんでした。」
「何を言う。」
思わず次郎の語気が強まった。
「家事ができて子を産める女など探す程でもなかろう。だが、幾多の死線を掻い潜って来た女などそうそういるものではない。」
「…ありがとうございます、励ましてくれて。」
「お前を選んで後悔したことは一度もない。」
「もう、わかりましたって。」
お茶でも淹れましょう、と真命は茶箪笥の戸を開ける。
真命はここ数年、別人のようにしおらしくなった。昔は男を黙らせるほど気が強かったのだが。
それも先の戦のせいであると次郎は思う。右足の自由だけではなく、真命にとっては失うものが余りにも多かったのだ。
真命は三つ湯飲みを出した。うち一つは手入れしたばかりの兼定と仏壇に上げる用であろう。
「…明日は命日だな。」
兼定の持ち主のである。
「ええ。晴れると良いですが。」
真命は穏やかにそう言って、急須を傾ける。
「仏壇まで持とう」
次郎は茶の入った湯飲みと兼定を持ち仏壇に向かう。真命はその後を右足を庇いながら着いてくる。
「歳進院殿誠山義豊大居士」の位牌の前に湯飲みを置き手を合わせた。傍には今朝の沢庵がある。
真命は毎朝必ずこの仏壇の御前で般若心経を上げる。次郎はそれを聞くことを日課としていた。
「次郎さん、明日は寺で経を上げて貰えそうですか?」
「あぁ、もう頼んだ。安心しろ。」
「良かった、ありがとうございます。」
真命は位牌を見詰めた。その目線には慈しみが感じられる。
「……時折、兄上が夢に出てきます。」
「そうか…副長はどのようなお姿をされている?」
「よく見せて下さるのは多摩にいた時分のお姿。幼き頃寝る前に物語を聞かせてくれたあの時の夢です。あとは正直あまり思い出したくはないですが、箱館でのことも…」
「……辛き事は印象に残っている分夢となりやすいだろう」
次郎は真命の背を擦った。
「茶が冷める。早く飲もう。」
「…ええ、そうしましょう」
二人は淹れたての茶を啜った。猫舌の次郎には熱過ぎたのだが、冷めるまで妻の長い睫毛を眺めていた。
次郎と真命は戊辰戦争を新選組として戦った、数少ない生き残り同士である。次郎は会津、真命は箱館でその戦いを全うしたが新政府軍に敗戦を喫した。
真命は箱館の戦で被弾し右足が不自由になった。更に一年前には喀血し労咳が発覚した。
次郎は会津藩士としてここ斗南の地で衰弱してしまった真命を支えながら生活していた。
「やっぱりこれは美味しくないですね」
寝る前に次郎は決まって真命に煎じ薬を飲ませているが、決まって渋い顔をされるのだった。
「大福を食べる方がよっぽど体にいい気がします」
確かに真命にはそれが一番いい薬なのかもしれない、とは思う。
「これは松本先生が直々に送って下さった薬だ。きっと良くなるぞ。」
「総司も飲んでいましたから、わかりますよ。」
真命は残りの薬を一気にあおってやはり渋い顔をする。
頑張ったな、と次郎は真命の肩を軽く叩く。
「次郎さん」
「何だ」
「次郎さんは、私が居なくなった後どうされるのですか?」
またそれか、と次郎は思う。考えたくもないことだと何度も言うのだが、真命はその時はわかったと頷いても忘れた頃に再び同じ質問をしてくる。
「…では逆に尋ねるが、其方はどうして欲しいのだ?」
「…そうですね……」
真命は顎に手を当てて思案を巡らせる。
「すぐ答えられることではなかろう。」
「いえ、お答えできますよ。」
「ほう、それなら早速聞かせてくれ。」
「何時の瞬間も幸せであらせられるようにと」
そうだ。真命はそういう女であった。
だからこそ生涯傍に置きたいと願ったのだ。
「……何だ、抽象的過ぎる。」
だがその言葉の裏を覗こうとすれば、いずれ訪れる悲しみの裾が見えてしまう。
「そうですか?その分考えられる可能性が多いとも言えましょう?」
「別に考えずともよい。今はその時ではない。」
「何ですか、そんなに怒って」
「怒ってなどいない。早く寝るぞ。」
この先、幾度の夜を共に越えられるのだろう。
その答えが知れたのは半年後である。真命の容態が急変したのだ。
今夜が峠だ、医者のその言葉を二度越えた後の夜明けのこと、真命は次郎が見守る中眠るように息を引き取った。
次郎は泣いた。何日か分からなくなるほどに泣いて過ごした。
ようやく涙が枯れる頃、真命の遺骨は次郎によって一部散骨された。北へ向けて、海へ流した。
それからというもの、次郎は斗南から姿を消したという。
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