第22話 聖女は危険地帯に踏み込んだ
ノルデンフェルト訪問の日程が決まった。
やいのやいのと煩く催促されて、ついにラーシュも腰を上げざるをえなくなったようだ。
「いいかい、リーヴ。
僕の側をけっして離れてはダメだからね。
いいね」
ハータイネンやセムダールの比ではないほど、何度も念を押された。
そうまでされるほどに治安が悪い国だとは聞いていないけど。
「心配ないわ。
ノルデンフェルトの治安は良いんですってよ」
ラーシュの過保護っぷりには慣れているけど、それにしてもたかが聖殿に行ってちょっと寵力を見せるだけなのに心配しすぎだ。
笑いながら返したら、両肩をぐっと掴まれた。
「治安が悪いって方がマシだよ。
それなら僕が片づける。
リーヴに手出しするようなヤツは、死んだ方がマシだくらいの目にあわせてやるからね。
そうじゃないから心配なのに……」
真剣な
治安以外に何が心配なんだろう。
あ、もしかしたら。
「あの子?」
確かに二コラは気になった。何かしかけてくるかもしれない。
「あの子?
ああ、あの金食い虫の。
あれは心配しなくて良いよ。何かしてこようものなら、僕がきっちり対処するから」
公的にヴィシェフラド王の娘と認められたわけでもない娘だ。母が愛妾として国王の側に侍っていた昔ならともかく、今やノルデンフェルトに側室として嫁いだ女の連れ子だ。ノルデンフェルト皇女に認められたなら別だが、そうではない。ヴィシェフラドの王女で、しかも聖女でもあるリヴシェに昔と同じ振る舞いをすれば、今度こそ厳罰に処せられる。
それが常識だ。
けれど相手はあの二コラだ。
「大丈夫だよ。僕を信じてほしいな」
重ねて言うラーシュに、それでは何が心配なのかとますます不思議になった。
「いいね、リーヴ。
約束だからね。
僕から離れないで」
とりあえず「わかったわ」と答えたものの、ラーシュのあまりに真剣な
ノルデンフェルトへの国境を越えて、リヴシェはラーシュの言う心配の原因に直面した。
何、これ。
あきらかに皇帝仕様とわかる、黒塗りの馬車が待っている。
漆だろうか。幾重にも重ね塗りされたらしい、見るからに高価なものだ。流麗な金箔の模様も手が込んでいて、さぞや名のある職人への特注だろうと察せられた。
皇帝が直々のお出迎え?
あり得ない。
ハータイネンやセムダールでも聖殿からの迎えの馬車だけだった。王族は王宮で待っていた。
歓迎の使者に応えるために馬車を下りたリヴシェは、そこであり得ないはずのものを見る。
「よく来たな。待ちかねたぞ」
艶のある黒髪に薄い青の瞳をした青年が、リヴシェの左手をとって唇を落とす。
背の高い均整のとれた体躯を黒づくめの騎士服に包んだ彼は。
ラスムス!
小説設定どおりの外見に、すぐに彼だとわかった。
けれどおかしい。
ラスムスはこんな風に、女だからと甘くあたる男ではなかったはずだ。彼が甘いのはただ一人だけ。二コラ・ジェリオにだけのはずなのに。
だけど困った。
ラスムスとは初対面だ。
いくらリヴシェが彼を皇帝と認識できたとはいえ、どう挨拶したものか。ラスムスは名乗りさえしていないのだから。
「ノルデンフェルト皇帝、ラスムス1世陛下でおいでです」
側近の青年が、空気を読んでくれたらしい。
ほっと内心で息をついて、リヴシェは腰を落とした。
「ヴィシェフラドの王女リヴシェと申します。
ノルデンフェルト皇帝陛下に拝謁いたします」
面をあげよと声がかかるのを待つ。
待つ。
瞬きをする間に、リヴシェの身体は重力のくびきから解き放たれる。
ふわりと身体が浮いて、思わず顔を上げると間近に薄い青の瞳があった。
「へ……陛下?」
何が起こったのだろう。
混乱しまくる頭では、状況がのみこめない。
「陛下!
何をなさいますか!」
ラーシュの低い声には、抑えた怒りが込められている。
が、いささかも怯んだ様子なくラスムスはそのままリヴシェを抱きかかえ、馬車に乗せた。
「我が国の王女であり、また聖女でもある方への、それが貴国の礼儀でしょうか」
怒りを隠すことなくラーシュが言い募るのに、振り返ることなくラスムスは言い捨てた。
「王族でもない身が。
控えよ」
氷点下に下がった気温。
ブリザードが吹き荒れたような気がするが、気のせいだろうか。
馬車の中は暖かいはずなのに、贅沢な二重張りの窓に結露ができた。
気にせいではないらしい。
「待たせたな」
馬車に乗り込むなり満面の蕩けるような笑顔で、ラスムスは言った。
「そこでは寒かろう。
リーヴ、ここへ来い」
ぽんぽんと膝を叩く。
膝の上?
あり得ないから。
「畏れ多いことでございます」
やっとの思いでなんとか言葉にすると、
「俺がそうしたいと言っている」
言葉と同時に、リヴシェは膝の上に抱きかかえられていた。
なぜ。
どうして。
初対面のラスムスが、なぜにこうも甘い。
これではまるで、ラスムスがリヴシェに恋でもしているようだ。
あり得ない考えに首を振りながら、背中に汗が伝わるのを感じた。
冷や汗だ。
今日のドレスは白だから、汗じみが目立ちやすいというのに。
だらだらと流れる汗に、リヴシェが青い顔をしていると。
「どうした。
腹でも空いたか」
「ひ……膝の上から下ろしていただきたく……」
「却下だ」
逃がすつもりはないと、さらに強くホールドされる。
そして甘く蕩けるような声で続けるのだ。
「リーヴ、俺をほめてくれ。
この程度で我慢してやってるのだからな」
そもそもなぜにリーヴ呼びなのか。
愛称呼びを許す関係ではない。それどころか面識すらないはずなのに。
いきなり示された全開の、溺愛と言って良いだろう扱いに、ただただ戸惑うばかり。
ラーシュの言う心配はこのことかと、ようやく気づく。
ラーシュはこれを知っていたのだ。
教えておいてほしかった。
いっこうにひく様子のない冷や汗を流しながら、初めてラーシュの秘密主義を恨めしく思った。
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