第23話 黒狼は正体を明かす

 天鵞絨張りの長椅子にマホガニーのテーブル。床には深い赤の絨毯が敷き詰められている。

 年代ものらしい銀の燭台にクリスタルを加工したランタン。

 おそらくは皇帝の私室だ。

 テーブルの上にはこれでもかと、焼き菓子が並んでいる。


「好きなだけ食べろ」


 リヴシェの腰を抱き寄せてラスムスは言う。


「気に入らねば、すぐに取り換えさせる」


 ふう……と大きく息をついて、リヴシェは意識を集中させる。

 主導権を取り戻さなければ。

 すっかりラスムスのペースでことが進んでいる。


「陛下」


「ラスムスだ」


「ではラスムス陛下、この状況にわたくし混乱しております。

 陛下のご厚情のそのわけを、お教えいただけませんか」


 名前で呼べと甘やかな声で命じられても、怯んではいけない。

 できるだけ淡々と、外交用の微笑を添えて事情の説明を求めた。

 衰えたりとはいえヴィシェフラドの王女、そして聖女でもあるリヴシェに、いきなり触れるなどとあるまじき無作法だ。


「つれないことだ。

 ともに同じ寝台で休んだ仲ではないか」


 艶のある流し目をくれて怨じたように拗ねるが、リヴシェにはまーったくおぼえがない。

 何を言っているのだろう。ラスムスには妄想癖でもあったのか。そんな設定、なかったはずだけど。


「おそれながら陛下、わたくしにはなんのことだか」


 どんなに美しく色香をにじませようと、妄想男はごめんだ。

 なにしろ二コラ・ジェリオを好きになるような男だ。きっと突き抜けた妄想癖があるのに違いない。


「やはりこの姿のままでわかれとは、リーヴには難しいか。

 仕方ない」


 すいと立ち上がったラスムスが、きっちり着込んだ騎士服を脱ぎ始める。

 何をするつもりだ。

 襲いかかるような危険な雰囲気ではないはず。

 いや、ぜひそうあって欲しい。

 再び冷たい汗が噴き出し始めたリヴシェの前で、ラスムスはしゅぅぅぅと変化へんげした。


 黒い毛並みの犬?

 いや、狼だ。


 ノルデンフェルト皇族は、始祖黒狼の血を継ぐ高貴なる一族だ。だから彼らはみな、広義の獣人と分類されている。けれど獣化それも自在に変化できるのは、先祖返りの血を継ぐ者だけのはず。そして彼らこそ、最も高貴なる皇族として敬われる存在なのだとリヴシェも知っていた。

 だけどラスムスが獣人、しかも最も高貴なる皇族だなどと。設定にはなかった。

 これって裏設定、サイドストーリーの設定か。

 

「思い出さぬか。7年前、リーヴはこの姿の俺を助けてくれた」


 薄い青の瞳が、じっとこちらを見つめている。

 この瞳の色に、古い記憶が呼び起こされた。


 あ!

 あの子。


 湖で拾いあげた子犬。黒くて小さくて、薄い青の瞳のきれいな子。

 寵力の発現を促したあの子犬、あれって。


「ま……さか、あの子は」


「俺だ」


 うわぁと声が出そうになった。

 知らないうちに、男主人公ヒーローの命を救ってたなんて。

 そして蘇る子犬との日々。

 子犬だからと安心してあれこれと、そう二コラのこととかめちゃめちゃ本音で喋ったような気がする。

 そして一緒に寝た。

 それも抱きしめて寝た。

 

 あー--!


 ものすっごく恥ずかしい。

 戻れるものならあの瞬間に戻りたい。そして適切な距離をもって、淑女らしく対応しなおしたい。


「思い出してくれたか」


 再び人型に戻ったラスムスが、美しい口元をにやりと上げる。小説の描写どおり、野性味のあふれる色気にどきどきするけど、それよりもっとどうにかしてほしいものがある。

 上半身、素肌のままなんですけど!

 くるりと背を向けて、上ずった声でお願いした。


「へ…陛下、お召し物をどうか」


 不幸中の幸いというかかろうじてというか、下半身はぴたりとした騎士服をまとったままだったから救われる。

 けど半裸だ。

 上半身だけでも刺激が強すぎる。


「なぜだ?

 おまえは俺をその胸に抱きしめて、寝かしつけてくれたではないか」


 ひやりとした指が首筋にかかる。

 触れられたそこに、かぁっと熱が集まるようだ。


「ふ……触れるのは、どうかお許しください」


「それはきけぬな。

 リーヴ、おまえは俺のつがいだ」


 しっとり湿った夜気のような声に、ぞくりと首筋が震える。

 ラーシュのとは違う色香と破壊力だ。

 けれど煮えたぎって沸騰しそうな頭の隅で、警鐘が鳴る。

 つがいと言ったか。

 ファンタジー小説のお約束、己の半身、魂の片割れのあの番?

 それなら二コラでしょう。

 ラスムスの相手は二コラなのだから。


「陛下、それは勘違いでは?

 はっきり申し上げますわ。

 陛下のお相手は、わたくしではありません」


 もう一度、今度は背筋を伸ばして振り返った。頭を上げて、ラスムスの薄い青の瞳から目をそらさない。


「お相手は他においででしょう」


 そうだ。二コラはここノルデンフェルトにいるはずだ。

 リヴシェにこんな戯言を言っていることがバレたら、二コラを怒らせるぞ。

 忠告する思いが、口調をやや強くさせる。


「己のつがいを間違える阿呆はいない。

 心配するな、リーヴ。

 俺にはおまえだけだ」


 砂糖に蜂蜜を入れてコンデンスミルクで煮詰めたって、こんなに甘くはならないだろう。

 そんなでろでろに甘い表情かおと声だったけど、わけのわからないことを言ってるには違いない。

 リヴシェはいわゆる悪役令嬢役だ。

 男主人公ヒーローラスムスの番でなんかあるはずない。

 ちがうと言い返そうとしたら、首筋に鼻を押しつけられた。昔、あの黒い子犬がよくしていたみたいに。


「りんごの甘い香りがする。おまえが番である証だ。

 観念するんだな、リーヴ。

 おまえは俺のものだ」


 前世のリヴシェは恋人に裏切られたせいか、番設定にとても弱かったものだ。生涯ただ一人の伴侶、魂の片割れ。もし失うことがあれば、正気を保つことさえできないなんて。

 なんてロマンティック、なんて運命的、理想的な恋。

 けれどいざ自分を前にして「おまえは番だ」などと言われると、すんなり受け入れることは難しいものだと知った。

 だってリヴシェはラスムスを知らない。

 いや小説設定は知っているが、現実のこの世でのラスムスには、ほぼ初対面なのだ。

 それで運命の番などと言われて、はいそうですかとなるはずがない。

 もしそれができたら、かなりのお花畑脳だ。


「わたくしには婚約者がおります。

 お戯れもほどほどにお願いいたします」


 ラーシュとのハピエンは目の前なのだ。

 ここでラスムスに余計なことをされて、二コラに恨まれでもしたら面倒くさい。

 そっとしておいて。

 そしてあなたは二コラと結ばれて頂戴。

 心からの願いをこめてラスムスの薄い青の瞳を見上げると、赤黒い炎がラスムスの背から立ち上る。


「ほう……。俺の前で他の男を気にして見せるのか」


 ごぉぉと音のしそうな暗色の炎のオーラにたじたじと後ずさりながら、リヴシェは心の中で訴える。

 二コラは?

 ラスムス、あなたの番は二コラでしょう。

 二コラ、あんたもしっかりしなさい。

 ふてぶてしいいほど図々しいあんたが、男主人公ヒーローの暴走を今止めないでどうするの。

 

 逃げたい……。


 心からの願いが通じたか。

 扉を控えめに叩く音がした。


「取り込み中だ。後にせよ」


 不機嫌を隠そうともしないラスムスの声に、怯えたような近侍の声が応える。


「前皇帝陛下が至急お目にかかりたいと」


 ラスムスが拒むより早く、扉は開かれた。


「久しいの、ラスムス」


 告げられたとおり、ラスムスの父前皇帝だった。

 その腕にしなだれかかるように寄り添った、二コラ・ジェリオを連れていた。

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