テルマエ
レヴィンはガラテアの中に座ったまま、まどろみの中にいた。
彼女の胸甲は、半分が開いた状態になっていて、涼しい夜風が入り込んでくる。
この夜風の正体が何かというと、水道橋からテルマエに流れ込んでくる水の流れ、それと一緒になってここまで運ばれてくる空気だ。水道橋は新鮮な涼しい空気も、テルマエまで運んできているのだ。当時の人間は、さぞ風が心地よかったことだろう。
仕事帰りにテルマエに寄り、温かい風呂に浸かって疲れを取り、そこからあがれば、その身体の火照りを冷ます風に当たりながら、親しい友人と軽食を取る。
そしてそのまま、家に帰って寝たのだろう。
なんとも贅沢な一日だ。
大抵の人間が貧しい今の時代、そこまでの生活ができるのは、よほど身分の高い貴族くらいのものだ。テルマエだけでも、王国がどれだけ豊かだったのかが偲ばれる。
一般人がそんな生活をしていたと言うのは、とても想像がつかない。
――ふとレヴィンが気が付くと、暖かく、湿っぽい空気が頬に当たった。
彼は何が起きたのかと思い、ガラテアから”杖もなし”に大理石の床に降り立った。
みると浴槽には、湯気の上がるお湯が満ちていた。
えっとおもって見回すと、テーブルはきれいに整えられ、塗られたワニスによって赤く輝く椅子が整えられている。そして大理石のテーブルの上には、レヴィンの見たこともないようなご馳走が並んでいる。
みずみずしいブドウ、ワックスで磨かれたようにつややかで新鮮なリンゴ。表面が金色に輝く、香ばしいパイ。砂糖がまぶされたお菓子まである。街のお祭りや、貴族の結婚式でも、こんなご馳走は見たことがない。
そんなバカなと思った。
テルマエの浴槽は泥だらけだったし、椅子は腐っていて、座るどころではなかったはずだ。これは一体何が起きている?
様変わりしてしまったテルマエに動揺しているレヴィン。
そんな彼の背に、声をかける者がいた。それは鈴の音のように澄んでいるが、耳には痛くなかった。優しく、透明感のある声色の持ち主。これには聞き覚えがある。
「――ガラテア?」
振り返ったレヴィンの目の前に、絹の薄衣を身にまとった、銀髪の女性がいた。
その身長は彼と同じか、少し低いくらい。彼女は首を傾げると。腰までの銀髪を揺らし、仕掛けたイタズラが成功したといった風の、笑みを浮かべた。
「はい、せっかくですので奮発してみました!」
ピンと人差し指を立てた彼女は、さらにこう続けた。
「当時を夢の中に再現してみたんですけど、どうでしょう? あ、夢なのでご飯を食べてもお腹は膨れないですけど、お風呂には入れますよ! お背中流しましょうか?」
「えっと……すまんが言葉の洪水についていけない、なんだって?」
「ここは夢の中です!」
彼の顔までピシッと立てた指を持ってきた彼女に、「へぇ、さようですか」と返すレヴィン。そういえばそんなことを聞いた記憶が蘇る。
「もはや何でもありだな?ゴーレムはこんなことまでするのか?」
「ゴーレムというか、その中の私達でしょうか」
「もとの私は、人の夢にだけ存在する、妖精のようなものでした。王国の錬金術師がそんな私達を目に留めて、ゴーレムという現実の身体に移したのです」
なるほど、妖精がゴーレムに乗り移り、その体を人と一緒になって動かしているというわけか。すごいことを考えるもんだ。
「人の夢の中に生きる種族、か。夢みたいな話、いや、夢なのか」
レヴィンは自分で言っていて、なんだかこんがらがってきた。
人の夢の中に生きる種族。それがゴーレムの中に住み着いて動かしていたのか。
とすると、ゴーレムの数だけ、彼女と同じような存在がいたはずだ。
ゴーレムが失われたということは……彼女と同じような存在の彼らは、ゴーレムと一緒に、みんな死んでしまったのだろうか?
「ん、そういえば、夢が食事だとか何だとか言っていたような……」
「はいっ! なのでテルマエを愉しんでいってください!」
そう言って薄衣に手をかけるガラテアを、慌ててレヴィンは押し留める。
「待て待て!脱がんでいい! そういうのはいらない! お湯だけでいいから!十分!」
「あら、そうですか?」
「うんその……」
薄衣の向こうで浮かび上がる、彼女の滑らかな肢体を目にしたオレはゴクリと生唾を飲み込む。いやいや、自分の半分以下の年の彼女に、何を考えているのだと、自身を律する。これは夢だ、これは夢だ。
しかし、自分の頭に思い浮かぶのは、身体を激しく揺さぶられ、汗を浮かべ、頬を桃色に染める彼女の姿。えいっと頬を叩き、そういった生臭い欲望を必死になって打ち消した。
それに驚いたのはガラテアだ。いきなり自分の顔を叩いたので、彼女はその目を点のようにしている。
「なるほど……オレが喜べば、その分、お前の腹がふくれるんだな?」
「はい、そうなんですが……あの、なにか粗相をしましたでしょうか?」
「いや、そうじゃないんだ。なんというか、そういう
「あら、そうでしたか」
「オレみたいな年寄には、風呂だけで十分だよ」
「はいっ! では失礼して」
「待て待て脱がさんでいい!自分でやれるっ!」
「えー?」
「えーじゃない!」
脱がしにかかるガラテアを押し留めて、彼は腰巻き一つになって湯に浸かる。
あの姿で身体を触られたら、いつ理性が弾け飛ぶかわからん。いや、ガラテアとしては、それを狙っているのかもしれんが……。
「すごいな、本物みたいだ」
湯に触れたオレは、体の芯まで温かみを感じた。水面に浮かぶ薬草やバラの香りが鼻をくすぐる。これがすべてニセモノ、夢の中だとは信じ難いな。
湯を手ですくい、顔を拭う。この手と顔に感じる温かみも、彼女の身体の中で眠りこけているオレの頭が見ている幻にすぎないのか。
だとしても……今はこれをもっと感じたいと思っていた。
ふと横を見ると、ガラテアが、何だこれは?真鍮製の何か、拷問器具みたいなのを手に持っている。金色の二枚の金属板がゆるくカーブして、爪みたいにも見える。
「なんだ! 何だそれは! すげー痛そう!」
「そんな事ないですよぅ? これはタダの肌かき器ですから」
彼女はオレの背中に、強いバラの香油を刷り込んでから、その拷問器具をオレの肌の上で滑らせた。オレはひっと思ったが、ところがこれが、なんとも気持ち良いのだ。少し刺激を感じるが、痛気持ちいいというのだろうか?
痛すぎない、適度な刺激を背中に感じる。
「どうですか? レヴィンさん?」
「あぁ……もうちょっと右かな」
「もう!」
しばらくガラテアと湯を楽しんだ後、オレは浴槽から上がった。湯から上がると、彼女は乾燥止めの香油をそのしなやかな指で、オレの身体にすり込んでくる。
しまった、二段構えだったか!
油を大人しく塗られていると、彼女の顔が時折オレの顔の近くまで近づいてくる。
それを見たオレは、素直に美しいと思った。レイラと比べるとすこし幼さを感じるが、ガラテアにはすこし病的な、儚げさを感じる色気がある。
彼女の元気さとは裏腹の、握りしめたら砕けてしまいそうな……そんな印象だ。
どうにもゴーレムの姿とは似ても似つかない。
彼女からリネン製の古臭いデザインのチュニカを受け取って、袖を通した。
そして彼女に促されて、火照った体を冷ますため、テーブルについて冷えたブドウの汁をもらう。甘く芳醇な香りのするそれを舌の上で転がして飲み込む。
ヤバいな。夢とは言え……いや、夢だからこそ、こんな生活をしていると、現実に絶望しそうだ。うーむ、どうしたものか。
「どうしました、レヴィン? 難しそうな顔をして」
「いや、こんな生活を夢の中でしていたら、現実が辛くなりそうだなと思って」
「……すみません、すこしやりすぎましたか?」
「いや、良いんだ。ガラテアが腹いっぱいになれるなら、好きにやってくれ。オレも楽しんでいるのは確かなんだから」
「――けれども、夢から覚めたあなたが……あなたを辛くさせてしまうなら、それは私も見ててつらいです。でもどうしたらいいのか、私にはコレしかできないので」
「そうだ、ガラテア、次見る夢のどこかが貧乏くさくなるというのはどうだ? うん面白そうだ、間違い探しとして楽しんでみても良い」
「フフッ、あなたは本当に――」
その時だった、ドンドンと音がして、テルマエの入り口が激しく叩かれている。
何かがここに来ている。
「目を覚ましてください、レヴィン! 何かが来ています!」
「そんな事言われても、どうすればいい?」
「そうですよね、あなたは今眠っているのでした……すみません、少し痛いかもしれませんが、我慢してください!」
「何を――痛ッーグワァッ!!」
足に猛烈な痛みを感じて、レヴィンは覚醒した。目を覚ました彼は、いつもの埃っぽい装備に身を包み、ゴワゴワの赤髪が、痛みでしみだした汗によって額にひっついている。全く夢の中に比べると、悲惨そのものだ。
しかしそんなことは、今、目の前で起きていることに比べたらどうでもいい。
いくつもの松明を持った武装した集団、そいつらがテルマエに乗り込んできていた。そしてその先頭には、後ろ手に縛られたレイラの姿があったのだ。
「レヴィン!」
叫ぶ彼女に対して、下卑た笑いを上げる男たちは、彼にこう迫った。
「おらジジィ!今すぐゴーレムを降りて、そいつをオレらによこせ!」
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