授かる部屋③
*
最初に姑の提案を聞いたとき、てっきりその部屋で夫婦の営みを行えという意味かと思ったのですが、違いました。
その部屋に行くのはわたくしだけでいい。
その部屋に用意されたベッドに寝ているだけでいい。
ただし、何があっても、夜明けまで部屋から出ないこと。
そう言われました。
奇妙に思いつつ、わたくしは従いました。
そして予定していた日、夕方に貴彦さんと車で***市に行き、そのマンションを訪れました。
貴彦さんは心配のあまり、駐車場で朝まで待つと言いました。
……優しい? そうですわね。
貴彦さんはわたくしにとって、世界一の旦那さまです。
あら、いけない。惚気てしまいましたね。うふふ。
——彼の手を離したとき、たった一人でその部屋に向かうとき、不安で仕方ありませんでした。
その部屋は、確か、七階の角部屋だったと思います。
陽当たりのよい1LDKで、設備は真新しく、清掃も行き届いたお部屋には最低限の生活用品とベッドがありました。
わたくしは部屋に上がり、夜を待ちました。
星月夜の、美しく、静かな宵でした。
今のように携帯電話もなく、テレビやラジオもない部屋で、ひとりきり。
何もすることがなく、わたくしは灯りを消し、ベッドに寝転びました。
宇宙に投げ出されたような視界で、わたくしはこれまでの過去を振り返りました。
灰色がかった未来が浮かんではどうにか明るくなるよう色をつけ、現在の闇を紛らわせていました。
……零時を、回った頃です。
玄関の方で、ギィ、とドアが開く音がしました。
続いて、コツンと足音が。
誰かが、部屋に入ってきたのです。
貴彦さん?
心配した貴彦さんがわたくしの様子を見にきたのかと思いましたが。
おかしいのです。
ドアには鍵も、チェーンもかけたのに。
それらが外れる音はしなかったのに、ドアが開き、足音だけがしたのです。
わたくしは起き上がり、玄関に続く磨りガラスが入ったドアを見つめました。
窓からさしこむ微かな光を頼りにしていると、磨りガラスの向こうに、ぼやっとした人影が通った気がしました。
けれど驚く間もなくそれは消え、単なる見間違いだろうとわたくしはベッドに横になりました。
そしてふと窓の方を見ると、大柄な男性と思わしき人影が立っていました。
……声も出せないわたくしに、男性は近づいてきました。
ずり、ずり、と何かを引きずる音……
男性がゆ……っくりと腰を折り、わたくしの顔を覗き込みました。
その顔は右目がありませんでした。
代わりに小さな蛇が眼窩からぶら下がっていました鼻は削がれて唇はめくり上がり欠けた前歯が牙のように鋭く尖っていました目から出ていた細い細い蛇が小さな小さな目でわたくしを見据えてチロチロチロチロと赤い舌を出し入れしていてそして男性は片手を上げて、
わたくしの腹部に触れようとしました。
その寸前に、わたくしは悲鳴を上げ、飛び起きて部屋から出て行きました。
……
……失礼しました。一気に話したので、少し喉が渇いてしまって。
お茶のお代わりをお持ちしましょうか……そうですか。では続きを話しましょう。
部屋から出たわたくしは、貴彦さんがいる駐車場に駆け込みました。
パニック状態のわたくしを宥めながら、貴彦さんは車を走らせました。
道すがら、貴彦さんは姑に電話をかけ、強い口調で問い詰めました。
あの部屋は、何なのか。
姑は、わたくしが『失敗』したことを察し、どこか残念そうな声音で答えました――
あの部屋は、『授かる部屋』。
一晩過ごした女は、必ず妊娠する部屋。
……意味が分からない、
という顔をしてらっしゃいますわね。当然です。
わたくしたちもそう思いまして、さらに問いを重ねました。
その原理は、『魂』を拾うことで成立する。
あの部屋は死者の魂が集まる『場』。
そこで一夜を過ごすことで、もっとも近くにいる霊魂が女の胎内に入って、
赤子と化し、いのちを授かる。
姑はそう説明しました。
あまりにも突飛な答えに、ええ、わたくしたちも呆然としましたとも。
けれど、すぐに信じることができたんですのよ。
わたくしは実際に死者の姿を見た。そして貴彦さんは、わたくしの言うことはすべて信じてくださる方ですから。
だから、姑には抗議しましたね。
あの部屋で過ごして赤ちゃんを授かったとしても、それはあのおぞましい姿をした男性の霊魂。
ゾッとしますわ。
わたくしは貴彦さんとの子どもが欲しかったのです。何でも良いわけではありません。
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