黒糸・第8話
◇
片膝を着き、肩を上下させる。整えられた銀髪は激しい運動のため、バサバサと絡まり、土、砂、埃と様々なものが付着している。服はところどころ切り裂かれ、赤く染まっていた。時間の経過とともに血は固まり、動くたびに破片はパラパラと落ちる。息も絶え絶えに霧凍は立ち上がった。
『今日はこれまで。』
『………ありがとうございました。』
バシャバシャと勢いに任せ、顔を洗う。水しぶきが床や服に飛ぼうと関係ない。どうせ誰もいないのだ。タオルで顔を拭くと、隣に師匠が立っていた。
『どうぞ。』
水道から直に頭から水を被る。わしゃわしゃとカルキ入りの水で満遍なく髪を洗う。これで傷まないのだがら不思議だ。
『明日は休み!お前もだろ?おめー、休みの日はどうしてんだ?』
『何って仕事ですが。』
あーっと師匠が髪を振り乱す。水飛沫が飛んだ。
『かぁー!聞きたくもねぇ!休みん時も仕事仕事仕事!そんなんじゃわかるもんもわからなくなるぜ。切り替えろ。』
『貴方も似たようなもんじゃないですか。どうせ明日もなにかするんでしょ。』
『俺はいいんだよ。俺はよ。昔も今も遊びまくってるわ!それに俺くらいになると遊びも違うんだよ!仕事も楽しむ遊びの達人だわ!!!あっーはっはっは!』
自分より背の低い師匠は高笑いをし、自分の尻を思いっきりはたいた。先程擦りむいた身体中の傷が痛む。
『遊ぶ意味なんてわからないです。』
『オメーは特にそうだろうな。でもな。わからなきゃ知ればいい!じゃあ、問おう!何故働く。何故会社に入った?』
霧凍がつまらなそうに答えた。
『そんなの稼がないと、生きられないからじゃないですか。師匠たちの売り方が下手。兄も問題を起こす。どうしようもない。師匠も落ちついてください。』
『それはシンプルに謝る。ごめん。』
真顔になると、霧凍に向かって師匠が頭を下げるが、またくどくどと話を続ける。
『稼ぐだけが人生もありだよ。金の大切さなんて身に染みてる。だがな、おめーは経験があまりにも少ない。人よりも少ない。もっと現場に出て、いろんなモン見て、聞いて、人と話すのは………無理しなくていい。もっと自分の感覚を手に入れるんだ。訓練、俺には結構楽しそうに見えたぞ。俺も面白かった。よく工夫したな!』
『何もない私が対抗するにはこうするしかないんです。師匠は思い込みが激しいからそう見えるんじゃないんですか?』
師匠の心からの賛美にどうしていいか、霧凍はわからない。それでも隣には届かないのだ。実戦には行けないだろう。褒められても意味がない。師匠は優しいから、そんなことを言うのだ。霧凍の脛に足先が勢いよく突き刺さった。打撲の衝撃が骨に響く。たまらず霧凍はしゃがみ込んだ。
ギラギラと輝く強気な目が霧凍を見下ろす。
『まったく頑固だなおめーはよ!俺がそう言ってんだから………納得してねーな?じゃあ次に誰かに言われたら、お前には心がある!反論は許さん!』
◇
バスの中で目を開ける。
師匠から指を突きつけられたのは季節が三周する前の話だ。壱樹と湊のやりとりがきっかけで思い出していた。
と言われましてもね、会って一日の暑苦しく鬱陶しく煩い奴が言ってきたら、納得できるわけないじゃないですか。
霧凍が席から体を起こした。
件の会社【ソラアミ株式会社】が太陽を反射している。玄関上部以外窓一つない工場は実は宇宙基地とネット上で囁かれている。近未来の象徴として優秀な建築と表彰された。周囲は環境整備され、海浜公園になっており、休日は磯遊びする家族連れで賑わうだろう。
太陽の光を反射する銀色の未来溢れる工場の周りには真逆のオーラを持つ人間たちが集っていた。20人くらいか。ソラアミのビラを撒き、拾った人間たちを参考にして自分も似た風貌に変装をした。壱樹に割られた眼鏡がここで役に立つとは思わなかった。鼻を怪我した様子はいかにも訳ありの人物である。しかし、働くのに薄汚れた服装に饐えた臭いはなんとかならなかったのかと問い詰めたかった。バスの中では嗅覚に神経を集中しないように努めた。新鮮な空気は脳に必要なものだ。大きく深呼吸する。その内のくたびれたスーツを着た人間が話しかけてきた。以前は上等だろうスーツは、あの中ではマシな方だ。
「アンタ、見ねぇ顔だけどホームレスかい。」
「えぇ………」
今の自分の格好は草臥れたTシャツにジーンズなシンプルな格好だ。
「若えぇのに大変だなぁ。俺も技師だったんだが、事業に失敗してさ、自殺に失敗してこのザマよ。ソラアミの奴から助けられてここで一からやり直すんだぁ。」
適当に返しながら、程なくして中へ呼ばれる。
番号札が周りに配られると、番号ごとに振り分けられていった。
1-10は掃除、10-15は工場、15-20は地下へ。ーーー地下。
霧凍の目が細められた。普通の人間でも能力が発言しなくても資質がある。地下に集められた人間は能力の発現の可能性が霧凍の目に映った。霧凍と話した人間もその1人。
霧凍の番号は12番。工場内の機材の組み立てである。しばらく手元の機械を組み立てると、お手洗いに行くと抜け出した。
監視カメラはない。見られたり、残したりするとまずいものがあるのだろう。
無機質な廊下が延々と続く。空港内の廊下等セキリュティ上わざと同じような廊下を作ると聞いていたが、ソラアミも同じだろう。見取り図を懐から取り出す。工場を回って気づいたが、僅かに見取り図と実際の間取りにずれがある。微量なズレでもそれが集まればーーー霧凍は足を進めた。
先に目指すは社長の部屋だ。静かかつ機械の気配を感じられる場所が良いという理由で地下に自室兼社長室があることはすでに掴んでいた。スケジュールも把握済みだ。三十木とソラアミが話し合うことは姉から情報を仕入れていた。
程なくして辿り着く。電子ロックが掛かっていたが、霧凍には簡単に開く類のものだった。
監視カメラは無い。
入る前に首をパキパキ鳴らす。
入って左奥。換気扇の下には作業机がある。設計図が散らばるのを見ると、僅かな時間の隙間を見つけて、改良点を編み出そうとしているのだろう。
熱心なのは結構。しかし、こうロックも破れる人間もいるんですよぉ?
ほくそ笑みながら、パシャパシャと写真を撮っていく。机のすぐ右隣にはベッドがある。霧凍は反対側の本棚に向かった。壁一面の本棚だ。地震が来れば、作業机に座っている人間はただじゃ済まないだろう。良く言えば、わからないことがあればすぐ本で調べられる。電気技師、電脳技師、経営理念、マーケティングの本がぎっちり詰まっている。電脳技師の本をめちゃくちゃに切り裂きたい衝動に駆られるが、そんなことをするのは間抜けだった。めぼしいものはない。
どうしたものか悩んでいると、頭の中で師匠が得意げに鼻を擦る。
ーーー男はな、ベッドの下に宝物を隠しているものだ。本棚も可!霧凍も隠したいものがあればそこに隠すんだぞ!
言われた通り隠せば師匠が探しに来るだろうし、この部屋の主は女性なんですよぉ、と頭の中で笑う師匠を押しのけた。
それでも調べてみる価値はありそうだ。
本編の裏。
掃除は行き届いておらず、埃の塊が転がっている。
ベッドの下。同じく掃除は行き届いていない。黒い髪の毛が無数に散らばっていた。
貼り付けたものなどもない。
ーーー枕の下に入れるのも可!夢に良いのが出てくるぞ!!!!良いのがなぁ!足はいいぞ!!
米神がガンガン痛い。
ここまで師匠に侵食されていたのか。
しかしだ、試さない手はない。
枕に手を伸ばした。羽毛づくりのホテルのやたら高い枕の重さは羽根だけではない。枕カバーのチャックを開けば出てきた。古ぼけたノート。
1ページ開けてみる。
無数に名前が書かれていた。
そのうちの一行目の名前には赤い横線が引かれている。
寮に突っ込んだ男の名前だ。
パラパラと捲る。
三十木古参、一族、民間企業………
A4のノートの最後のページには赤錆びた文字ででかでかと書かれていた。霧凍は体の息を全て吐き出すように溜息をついた。予想通りだ。何度も見た展開に飽きて欠伸が出る。
逆側には並んで笑う2人の少女の写真と数本の髪の束が赤い糸を巻かれ、貼られていた。
1人はソラアミの社長である空網 彩の面影を残していた。では、もう1人は?
しばらく考えるが、ノートを閉じた。
部屋を出て、廊下を歩く。
廊下を歩く。廊下を歩く、廊下を歩く。
歩く歩く歩く歩く。
何度も何度も何度も何度も同じ風景を繰り返す。
足を止めた。
おかしい。
変わり映えのないリノリウムの床はコンクリートで固められたコンクリート張りの床になっている。霧凍は床をなぞった。新築という訳ではなく、傷のつき方、擦り減り方などで年季が入っていることがわかる。壁も一面コンクリートで固められていた。
なぜ気づかなかった!
さっき居た工場の床じゃない。さっき居た工場は新築であり、この床は薬品か何かの腐食が大きい。
更に足を進める。横に扉が現れた。鍵が掛かっているが扉の向こうには談笑する声や鉄を叩くような音が聞こえ、複数人の気配がする。
「誰か!どなたかいませんか!迷ったんです!」
霧凍が声を張り上げようとも、無反応だ。蹴り開けようとしたが、揺らすもののびくともしない。一定の会話と笑い声の繰り返しは録音しているものを流しているようだ。先に進むたびに扉のある間隔が短くなっていく。そのうちに一面が扉だらけになった。声はもう聞こえない。びしゃりと不快な音がする。足元に黒い水溜りができていて、霧凍は思いっきり踏んだ。気が付かなかった。扉の隙間から黒い液体が溢れているのだ。ズボンの裾に黒い飛沫が掛かる。
無言で先を急いだ。
扉からの人の声や気配はだんだんと少なくなり、靴が液体を叩く音のみが響く。最初は避けて歩いていたが、もう避けようがないほど液体が廊下を占めていた。
突き当たりの両開きの扉を開く。
黒い液体が床に壁に天井にぶち撒けられていた。足の踏み場もない。
背を向けて立っていたのは、ざんばらに切られた黒髪の女であった。白いワンピースを着ており、足は素足である。黒い液体の中心で足の白さ故浮いてーーー
後ろから肩をぐいと引かれ、勢いよく倒れた。腕を捻られる。
黒い液体は貼られていない。
「貴様ここで何をしている!」
「申し訳ございません。お手洗いに行こうとしたら、道に迷いましてぇ、迷いますねぇここは。」
「今日来た12番だな!こっちに来い!」
重い金属音がする。冷たい感覚からすると、手錠を掛けられたようだ。
魔法を使うに使えない。
怪奇現象が起こる中で、能力や魔法等を使うと碌なことにならないことが多く、更に神秘性を削がれると、世の能力や魔法の威力が落ち、怪奇の力が増す。
これは一族や三十木でも、民間でも古から伝えられてきたもので、共通の意識だった。取り押さえた粗野な男はほぼ何も感じない。
目の前が暗くなる。目隠しをされた。
止まろうとすれば乱暴に床に叩きつけられた。
「抵抗するな!」
何度か繰り返す。少し目隠しがずれたが、先程変わり映えのない廊下だった。
突き当たりの部屋に叩き入れられた。
鉄臭く生温い液体に飛び込む。生理的不快感に襲われたが、どうしようもない。
隣を見れば、誰かがこちらを見ていた。
半開きの口に濁った目はこれからの生活に希望を抱く目とは大きく変わっていた。
技師だった。
よく見れば天井からいくつのもの等身大のものが吊るされている。生気のない目がこちらを見下ろしていた。どうやら血はそこからも垂れているようだった。降ろしてやりたいが、いかんせん刃物がない。鍵もない。手錠を解きたい。
壁を背に立ち上がると、霧凍は周囲を見渡した。材料は予測通り。では、製造方法は?
全体が血に塗れた部屋の奥に焦げついたように真っ黒な扉が見えた。扉の先は何も聞こえない。後ろ手でドアを開くと、不気味なほどに静かな部屋に蝶番が軋む。部屋の半分が黒い液体に満たされていた。
調べるか引き返すか迷い、判断を誤ったと認識したのは、背中を押された時だった。滑りゆく体に沼から伸びる黒い糸が獲物を逃さないというように絡みつく。
床に爪を立てるが抵抗虚しく、液体に沈み、身を囚われた。
無が無に還るだけだ。霧凍の中の空虚に黒い液体が満たされていった。
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