黒糸・第4話

黒糸・4話


 時刻は23時を超えた中、工場の休憩室だったのだろう2階の4畳半ほどの部屋に3人は顔を突き合わせていた。この部屋しか掃除してある部屋がないと霧凍が案内した先だ。そんなに綺麗でなくてもいいと壱樹は言ったが、この部屋しか予備電源がないと断固として譲らなかった。今日の夜に冷房が問題なく使えるのは助かる。

「話す前に腹ごしらえといかねぇか?」

 霧凍が壱樹と湊に何か投げつける。壱樹掌にすっぽり入るくらいの細長い長方形。

 銀のパッケージは携帯食料だ。

「借金に加算しますねぇ!」

「三十木の作戦の時配られる舌にまとわりつく粘土のような食感の味のない飯じゃねーか!土でさえ味があるってのになんで味がないんだよ!」

 三十木製の携帯食料は舌にもう見たくもない。湊も携帯食料を悲しそうに見ている。我慢できずに立ち上がり、壱樹は腕まくりをした。

「ここは三つ星シェフ壱樹様の出番の様だな。冷蔵庫はどこだ!」

「料理の時間など無駄です。」

「俺の手際の良さを舐めてもらっちゃ困る。ちょちょいのちょいだぜ!」

「借金に」

「このまま冷蔵庫の中、悪くするのと料理して腹ん中に納めるのどっちがいいよ。」

「………好きに使いなさい。台所の場所は教えませんよ。」

 よしっ!と壱樹はガッツポーズをする。続けてびしりと虚空を指差した。

「それでは湊担員!台所の捜索を命じる!」

 力強く言われ、慌てて湊は敬礼をし、命令に従った。部屋に残るは壱樹と霧凍だ。 

 部屋を冷やす空調の風の吐く音とキーボードを打つ音だけがBGMで霧凍はパソコンの画面から顔を上げない。

「用事があるならばとっとと済ましたらどうですぅ?私、これでも忙しいんですよねぇ。」

「俺のことは許さんでも、あいつのことは許してやってくれ。」

 壱樹が深々と頭を下げた。後ろに縛った髪が跳ねる。顔すら上げずに霧凍が疑問を投げかけた。

「何故ですか。何故そんなことをする必要が?」

「歳上が苦手なんだ。」

 明るく暑苦しい男の声は深く沈み、低く霧凍の鼓膜を震わせる。霧凍がパソコンから顔を上げた。

「三十木はあいつより歳下がいねぇ。いつも怖がって、誰とも話そうとはしねぇ。浮いてるんだよ。」

「苦手って。貴方とは普通に話せますよねぇ。」

 壱樹が来た時に見せた安堵の笑顔に歳上2人が繰り広げる戦いに投擲するという度胸は間違いなく壱樹のために行われた行動だ。擦れた鼻がヒリヒリと痛む。

「俺にもわからねぇんだよなぁ。俺が頼りやすい男だから?いやぁ、人気者は辛いぜぇ。」

 わからないと言いながら、勝手に自分で結論を出し、にやけた笑いを浮かべる壱樹に霧凍は冷たい視線を向けた。

「精神年齢が同じだと思われているんじゃありませんか。」

「親しみやすいのか!そういうのも大事だよなー!」

 ポンと壱樹が手を打つ。何を言っても、今の彼には良い風に捉えてしまうだろう。

「わかりました。許しましょう。今後、協力するわけです。」

 おぉ!と壱樹は歓声を上げた。

「私が傷つけたことは何も言わないんですか?」

「俺としちゃオメーが湊にやったことはやりすぎで許し難いが、そこは当人同士の話。湊が悪りいってんなら何も言えねぇ。ただ誤解して縛ったのは謝る。すまん!」

 霧凍の前でぱしりと両手を合わせ、深々と壱樹は頭を下げた。

「修理代返してくれるんですよねぇ。それならば貴方には文句言いません。それでおしまいです。それだけの話です。」

「おぉお!ありがとう!ありがとうな!!!お前、本当はいい奴なんだな!湊の様子見てくるわ!」

 この業界にいた限り、いい奴ということはないでしょう。去り際の男の熱を持つ言葉は霧凍の心を滑る。どこまでもおめでたい人だ。


 冷蔵庫の中と睨めっこをするが、どんなに見ても中身は変わりようがない。

 新鮮な卵がワンパック。

 皮を剥いた真っ白な里芋。

 瑞々しく青々と艶があるレタス1玉

 艶とハリがある真っ赤なトマト10個入1パック。

 お茶碗に山盛りの冷やご飯。

 壱樹さんが来るまでに、サラダくらいはできるだろうと、レタスとトマトを手に取った。洗ったレタスの水気をキッチンペーパーで取り、思考を巡らせながら、ぼんやりとレタスの葉を千切る。

 ここで目が覚めてからずっと体が硬直し、何もできない上に失言。壱樹さんが来てくれなかったらどうなっていたことか。いや、足を引っ張って誤解を招くならむしろあのままいなくなっていたほうが良かったのかもしれない。

 皿を取ろうと周りを見渡すと、キッチンに掛けられた鏡が目に入る。

 しょぼくれた情けない顔。

 我ながら酷い顔だ。割りたい衝動に駆られる。いや、割りたいんじゃなくもうずっとずっと何年も前から自分を殴りたい。

「よっ!」

「壱樹さん!」

「サラダの用意、あんがとな!」

 半分だけ体を振り向かせると、壱樹が片手を上げていた。冷蔵庫、下の棚を遠慮なく物色し、近くの机にどんどん醤油やら酒やら集まっていく。

「ほー、新鮮な卵に野菜じゃないか!和食、洋食なんでもござれな壱樹さんにうってつけな材料だぜ!炊飯器に飯はなしだが、冷やご飯がある。里芋も下茹でしてある。するめもある。調味料も揃ってんな。料理酒じゃなくて日本酒なのはこだわりを感じるぜ………どんな料理を作るんだろうな。」

「案外家庭的な人?」

 髪の毛を縛り直した後手を洗いながら献立を次々に口にしていく壱樹に顔が綻んだ。

「なんかリクエストあるか?」

「あ、じゃあ、僕!煮付け!里芋と烏賊の煮付けが、食べたいです!」

 まさか小学生の口からそんなメニューが出るとは。目を丸くする。

「渋い!!!歳の割に渋いな!じゃあ楽しみにしておけ!壱樹さんの煮物は絶品だからな!」

 鍋に水を汲んでいく。

 材料を刻むリズムに合わせる壱樹の調子っぱずれの鼻歌は決して上手くないが、心地が良い。

「安心しろ。霧凍はオメーのこと許すってさ。」

 隣に来た時に告げられ、壱樹を見上げた。ニッカリと人の良い笑みは湊を気遣う笑みへ。

「まだダメか。」

 湊は静かに首を縦に振った。

 守れない約束がたくさん。そう口にしてしまえば、楽になるだろうか。

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