5-2 天狗
「…あ、そうだ!」
アパートを出てすぐ、守は環から来ていたメールの内容を思い出す。この日は自転車を持ってくるように言われていたのだ。
「忘れるとこだった、セーフ!ちょっと待っててください!」
守は天にそう伝えると、少しだけ進んでしまった道を小走りで戻る。そしてアパートの駐輪場から、目当ての自転車を引っ張り出した。
「……
半月ほど乗っていなかったそれは、全体的に砂埃を被っていた。
そういえば、夏休みに入ってから自転車を使うのは初めてである。そして天と二人だけで出掛けるのも、何気にこれが初なのだ。
守は自転車のカゴにリュックを乗せると、ついでにサドル部分をサッと手で払った。
「お待たせしました。さ、行きましょう!」
「はい」
こうして守と天は、初の二人だけの任務へと出発した。
自転車を押しながら、守は何気なく隣を歩く天に視線を向ける。その肩からは、彼の爽やかさを具現化したような、美しいブルーの羽織がなびいていた。
「……」
それはいつも彼が身に付けているものなのだが、袖を通していないにも関わらず、風を浴びても全く落ちる気配がない。さも当然のように見えるが、よくよく考えると不思議な光景である。
「その羽織、どうなってるんですか?」
「どう…とは?」
「全然落ちないから、中の服とくっついてるのかなーって?」
「…ああ、そういう事ですか」
そんな守の意図を理解した天は、おもむろにフワッと、肩から羽織を持ち上げる。そしておまけとばかりに、そのまま自身のまわりをクルッと一周してみせた。
「ほらこの通り、どこも付いてはいません。普通の羽織ですよ」
「へーそうなんだ。掛けてるだけなのに、よく落ちないですね?何か仕掛けがあるんだと思ってました」
「まぁ、妖怪ですからね」
「……へー?」
羽織のスペックに感心していた守だが、実に摩訶不思議な返事がやってきた。
妖怪だから…とは?
そんな説明で納得するやつがいるのなら、この目で
そんな失礼な想像をしながらも、守はふと、これと似た現象を思い浮かべる。
「…大学でも、女の子たちがカーディガンとか肩に掛けてたりするけど、あれも意外と落ちないんですよね」
「その方も、妖怪なのではないですか?」
「……」
聞かなかったことにしよう。
肩から衣類が落ちないのは、決して『妖怪だから』ではない…と思いたい。守はめげずに、原因の究明という名の、無意味な抵抗を続ける。
「まぁ落ちないのは、講義中とか、室内で座ってる時だけですけど。彼女たちの場合、動けばさすがに落ちたりズレたりしてますからね」
「では、妖怪ではありませんね」
「あーでも、たまに外でも落ちてない女子見かけるな…」
「では妖怪ですね。もしくは、女子力の
「え、女子力高いとカーディガンって風にも耐えられるの…?その理屈が本当なら、俺だったら一瞬で飛んでっちゃいますね!」
「ええ、それは守が人間だからですね」
「いや女子力の話どこいった?!」
最近、守の些細な疑問たちは、やたらと『妖怪だから』で片付けられる節がある。これは由々しき事態だ。だって世の中は、このような小さな不思議で溢れているのだから。
それらが全て『妖怪のせい』だとするならば、妖怪もまた、この世に溢れているという事になる。
「妖怪に少子化問題は無いのか…」
高齢化は進んでいそうだけれど。もはや、当初の問題とはかけ離れた呟きをする守。その声は、さぞかし不満気であった。それがおかしくて、天はクスリと笑いかける。
「そんなに気になりますか?」
そう言うと天は、綺麗な指先で羽織を示してくる。
「!!」
どうやら、ようやく羽織の秘密を教えてくれるようだ。
守は即座にコクリと頷く。すると天は何を思ったのか、珍しく悪戯な笑みを浮かべたかと思うと、自転車の荷台部分に手を置いた。
「これ、乗っていきましょう」
「え?」
そうにこやかに言う彼に、守はキョトンとする。今の流れで、どうして自転車に乗ることになるのだろうか?
守には、彼の意図が理解できなかった。荷台を示して「乗っていく」という事は、おそらく二人乗りをしようという提案なのだろう。さては、自転車に乗っても羽織が落ちない事を証明するつもりらしい。
「あー、なるほど…」
そう解釈した守は、一旦歩みを止めると天に向き直る。
天からのせっかくの申し出ではあるが、現代の日本での交通ルール的に、二人乗りはNGだ。
「今って、二人乗りしちゃダメなんですよ」
その事実を率直に伝えると、天からは変わらぬ笑みで「知ってますよ」と返ってきた。だがその言葉に反して、天は停止した自転車の荷台へと、華麗に腰を下ろしてくる。
「…天さん?」
「でもそれは、人間の規則ですよね?」
「えー」
そして、前にも聞いたようなセリフを爽やかな笑顔で押し付けてきた。
かと思うと…
「それに…」
天はおもむろに、自身の羽織に手を掛ける。
「これなら絶対にバレません」
するとその瞬間、天はパッと姿を消したのだった。
「……え!?」
守は咄嗟に辺りを見回すも、どこにも彼の姿は見当たらない。
「どうして急に……あ!」
だがこの時、守は思い出した。
妖怪は百鬼絵巻に入ると、姿を消す事ができるのだ。それならばと、守はリュックから絵巻を取り出し、パラパラと天狗のページを確認する。
「もーびっくりさせないで下さいよ〜!ほらこっちに……いないじゃん!え?何で?どこ?天さん!天様?天師匠!?」
だがどういう事だろうか。
守の思惑は外れ、百鬼絵巻にも彼の姿は無かった。守は慌てて、消えてしまった相棒の名前を呼びまくる。だが焦りすぎて、彼の呼称が定まっていない。
すると近くから、クスクスと笑う当人の声が聞こえてきた。
「ずっといますよ、ここに」
「!!」
守はその声の方向に目を向けると、彼は変わらず、荷台に腰を下ろしていた。
「ええ!?絶対いなかったじゃん!?」
「いました」
「いなかった!」
「いましたよ、これを被って」
そう言うと彼は、例の羽織を掲げてみせる。
「その羽織が関係してるの…?」
「ええ。これは見た目には、ごく普通の羽織です。しかし同時に、これは我々天狗が持つ『
それともう一つ。
これには『
「天狗の
そんな伝説のアイテムが今、守の目の前に存在している。これまでの守ならば、飛び上がるほどに驚いたことだろう。
だが、今はもう違う。
守は
守の価値観が、少々心配になってくる。
「へーすごいですね!燃やしていいですか?」
「何故?!」
そして驚く代わりに、守は興味津々にそう言った。昔話では、蓑は燃やして灰となっても、その力は継続されるのだと描かれていた。
守はそれを踏まえての発言だったのだが、この流れでなぜ燃やそうとするのかと、行間を読んでいない天の方が驚いている。
こんなに動揺する彼は初めてだ。
「ちょっとだけ!ちょっとだけだから!」
「やめて下さい…こら、やめなさい!」
彼の意外な一面を見て調子に乗った守は、彼の羽織を奪おうと飛び掛かる。だがその前に、再びパッと姿を消されてしまった。
「守、早く出発しなさい!」
そしてどこからともなく腕を引かれたかと思うと、そのまま流れるように自転車に跨される。
そして守が座ったのと同時に、逃がさないとでも言うように、天は守の腰元をギュッと掴んだ。
「ゴー!」
「は、はい!」
そんな姿の見えぬ相棒に急かされて、守はペダルを漕ぎ始めた。
住宅街の平坦な道を、緩やかに進んでゆく。
「そういえば、初めて会った時、天さんたちが目の前から消えたのって、その羽織で消えてたんですか?」
その道中で、不意に交わされる会話。
「ええ、そうですよ」
「へー、そうだったですね。あの時はすごいびっくりしましたよ」
「貴方に、我々が妖怪だと分かって欲しかったですからね。実際に妖力を使って消えてみました」
「なるほど」
「…その結果、貴方があの場から消えましたけどね?」
「それは本当にめんぼくなかったです…」
あの日。
初めて彼らと出会った日が、なんだか既に懐かしく感じてくる。
「…それはそうと…天さん」
「なんでしょう?」
「乗ってますよね?」
「はい、乗っていますよ」
「……」
「天さんいますか?」
「はい、います」
「……」
「天さーん?」
「いますよ」
やがて、自転車を漕ぎ始めてから数分が経った頃。二人は何度も、同じ問答を繰り返していた。
それは何故かと言うと…
「本当にいますよね?誰も乗せてないくらい、めっちゃ軽いんですけど?」
この日、二人乗り初体験の守だが、そんな彼でも違和感を覚えるほど、明らかにペダルが軽いのだ。背後に長身の男を乗せている感覚がまるで無い。なんなら一人の時よりも、軽くスムーズに漕げている気さえする。
そんな守の戸惑いを知ってか知らずか、背後からは天の柔らかな声が聞こえてくる。
「そうですか?では試しに、少し重くしてみましょうか」
すると途端に、荷台部分にどっしりとした、確かな重力を感じた。
「ぐえっ重っ!無理無理すみません!軽い方がっ、いいです!」
「ふふ、了解です」
そしてそう言うや否や、彼は自転車に預けていた体重を再び軽くしてくれた。
「ふぅーめっちゃ楽!」
それに安堵していたのも束の間。
背後からは、またもや聞き捨てならない言葉がやって来た。
「ちなみに先ほどの重さは、守と同世代である二十歳女性の、平均体重を想定していました」
「…ほう?」
何ということでしょう。
今しがた「重い!」と言い捨てたあの重量は、可憐な乙女の重さだったとは。
これでは守が、体力不足で彼女(未定)を荷台に乗せられないみたいではないか…!
御国守、来月二十歳。
男たるもの!
そんな事、断じて認めてはならない!
「…ちょっと天さん。時を戻してもらっても良いでしょうか?」
「そう言うと思っていました」
すると天は、クスッと笑いながら再び体重をかけてくる。
「ぐっ……よ、余裕ですた」
「ふっ、それは、良かったです」
守は全力で自転車を漕ぐ事に集中する。そのため、語尾が少々おかしくなった。どうか、ご愛嬌という事で流してほしい。
だが、天にはそれがツボに入ってしまったようで、彼は笑うのを堪えようと、守の腰元を掴む力をぎゅっと強める。
しかしそれも無駄な抵抗だったようで、その手はフルフルと震えていた。
「めっ、ちゃ!わら…う、じゃん…っく!」
「ふふ、どうしました?」
そんな天に、守は
だが守は重心を保つことに必死すぎて、その余力は残されていない。そして図らずもその試みが、更に天の手を震わせる結果となるのだった。
だが、それも最初のみ。
守はやればできる男なのだ。
しばらくすると、守はこの重さにも幾分か慣れてくる。
そもそも、これが大好きな彼女(未定)の重さだと思えば、ちっとも重くなんかない。だってこれは、幸せの重さなのだから!
『重さ=愛する彼女(未定)』ならば、むしろ軽いくらいだ!いや軽すぎる!なんならもっと増えてもいい!
「増やします?」
「いいえこのままでお願いします!それと!俺の心を読まないでください!」
「読んでませんよ。全部言葉に出てましたから」
「それは嘘だと思いたい!」
もはや笑いを堪えることをやめたのか、天は守の彼女(未定)のポジションで、声を上げて笑っている。
「ちょっ、さっきから笑いすぎですよ!」
その後も、しばらく笑い続けた天。
一方で守は、今ではすっかり二人乗りも上級者となりつつある。
「ちょっと坂になってるし、漕がなくても進む!最高!」
やがて道は、緩やかな坂道に差し掛かかった。すると今までニコニコしていた天だったが、その声に少しだけ緊張感が帯びる。
「こら、ちゃんと前を見て!またブレーキが効かなくなってもしりませんよ?」
「え?今なんて?」
だがその声は、坂で風を切る音にまぎれて上手く聞き取れなかった。声の感じからするに、何か大事なことを言われたような気がする。
そう思い守はすぐに聞き返したが、天は「何でもない」と言い、教えてはくれなかった。
「…ほんとに?」
だが気になった守は、少しだけ振り返ると横目に彼の顔を覗き見る。
するといつもの爽やかな笑顔と目が合い、これまたいつもの穏やかな声音でこう言われた。
「いいから前を向いて、自転車に集中です!」
こういうところ、彼は本当に真面目というか、面倒見が良いというか。先生のような、兄弟のような、はたまた優等生の親友のような。
天はその持ち前の笑顔で、人を納得させるのが上手いのだ。
「はーい!」
だから素直に、守は彼の言葉を受け入れる。それはおそらく、彼の絶対的な安心感と信頼によるものだと思う。
だがこの感覚は、度々、環からも感じる事がある。
「天さんと環さんて、なんか似てますよね」
笑顔で有無を言わさない辺りなど、二人はよく似ていると思う。
「……そうですか?」
「はい。…あれ、何か不満そうですね?あ!決して変人なところが!とかじゃないですよ?もちろん良い意味でですからね?!イケメンだし、大人だし、気遣いができるし、優しいし、根は真面目だし!それに神秘的っていうか不思議な感じもあって…」
こうして考えてみると、守は改めて実感した事がある。それを守は、何の気なしに彼に伝える。
「とにかく!天さんはほんと、良くできた人だなってことです!たまたま今回、百鬼のことを伝える担当だったにせよ、俺の担当が天さんたちで良かったです。鼻が高いですよ!天狗だけにね?」
「……」
渾身のギャグを添えて、守が冗談めかしくそう言うと、天は急に無言になってしまった。
そんなに寒かったのだろうか…
守はもう一度振り返り、こっそり彼の顔を盗み見る。
するとそこには、感情の読めない表情でこちらを見つめる彼の姿があった。そして目が合うと、彼はハッとしてこう言うのだった。
「だから、ちゃんと前を向きなさい!」
「はーい!」
天に言われた通り、守は姿勢を戻す。その後はしっかりと前を向き、安全運転を心がけた。
「…まったく、似ているのは貴方の方ですよ」
だからそんな呟きは、すっかり風の中に溶けてしまうのだった。
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