第32話 日本ダービーへの想い

 クラシック第1戦は敗れた。


 次の一戦は、約1か月先の、日本ダービー。


 なお、長坂琴音騎手が担当しているベルヴィは、まだ骨折による影響があり、長期離脱中。マリアンヌが担当のヨルムンガンドは、彼女の発言通り、4月に重賞のニュージーランドトロフィー(GⅡ)を勝ち、つい先頃にはNHKマイルカップ(GⅠ)を圧勝し、力の差を見せつけていた。


 2038年5月30日(日)、東京競馬場、11Rレース、芝2400メートル、東京優駿(日本ダービー)(GⅠ)。


 天候は曇り、馬場状態は「稍重」。


 日本ダービー。それはすべてのホースマンの憧れ。どんなに長くこの業界にいても、決して「勝てる」とは限らないのが、この日本ダービーであり、そしてそれ故に、誰もが「勝ちたい」と願う特別なレースでもある。


 騎手・調教師・厩務員・生産者・馬主。すべてのホースマンの憧れである3歳牡馬の頂点を決めるその一戦がまたやって来た。


 もちろん、皐月賞で惜しくも2着に敗れたとはいえ、力を示したミラクルフライトは出走。同時にライバルの2頭も、皐月賞で優先出走権を得ているから、出走となる。


 またも「三つ巴」の戦いとなった。


 クラシック第2戦は、東京競馬場で行われる。


 同じく2年前には、シンドウが挑んだが、あれだけ強かったシンドウでさえ、4着に終わっている。


 日本ダービーの結果は、まさに「神のみぞ知る」神聖にして、一度きりの挑戦なのだ。


 そして、私は出走前に、熊倉調教師と相談をしていた。

「先生。今日はどうしたらいいでしょうか?」

 この問いが、普段、熊倉調教師には滅多に相談しない、私の「迷い」を体現していた。

 もっとも皐月賞では、「先行」という策を提示していた彼だったが、この時はいつものように、放任主義だった。

「自分で考えろ」

「わかりました」


 私は、何回か走らせてみて、ミラクルフライトは、長距離向きではなく、どちらかというと短距離向きではないか、と思い始めていた。

 何しろ、彼は「集中力があまりない」馬だし、距離適性的には、2400メートルは長い気がしていた。


 当然、「逃げ」なんて選択肢を選ぶつもりはなかった。恐らく「いっぱいに」なってバテてしまうと思ったためだ。


 ミラクルフライトは、単勝4.1倍の2番人気。1枠1番という最内を引き当てた。これが本当に逃げ馬だったら、有利に働く。

 一方、皐月賞を制したイェーガータンクは、単勝5.1倍の3番人気で、6枠12番。

 ハイウェイスターは、単勝1.9倍で1番人気だった。

 馬体重は、ミラクルフライトはマイナス6キロ、イェーガータンクはマイナス2キロ、ハイウェイスターはマイナス8キロ。


 なお、ハイウェイスターは武政修一騎手で変わらなかったが、イェーガータンクは大林凱騎手から、その父でもあるベテランの大林翔吾騎手に代っていた。これはオーナーの意向なのかもしれない。


 そして、ついに世紀の大一番が始まろうとしていた。


 パドックから、返し馬。

 そんな中。


「超良血のミラクルフライト。血統を証明するか」

 と、アナウンサーが言っていたらしいが、私にとって、今は血統がどうかよりも、勝つことの方が大事だった。


 関東のGⅠを示すファンファーレが、自衛隊の音楽隊によって高らかに鳴らされた。


 東京競馬場の芝2400メートル。何度も戦ってきたが、約530メートルの長い直線が特徴で、途中に高低差2メートルの急坂もあり、差し・追い込みが非常に有利とされている。


 最後の直線での末脚勝負でスピード・瞬発力を発揮する為に、脚を温存出来るだけのスタミナも必要。しかも、4コーナー正面手前からのスタートとなり、急坂を2度走るので、要するスタミナも相当なものになる。


 まさに、ここは真の実力が問われるタフなコースなのだ。


 そんな中、選ばれし栄冠を手にすべく、全18頭がゲートに並ぶ。出走前はいつも緊張するが、この日は格別だった。

 これが、「日本ダービーの特別な緊張感」なのかもしれない。


 ゲート入りでは、イェーガータンクが若干嫌がっており、メンコをつけたまま入り、ゲート入り後に外されていた。それ以外は順調に入る。


 ゲートが開いて、出走となる。

 最初こそ5頭が横一線に並ぶような形となったが、すぐにイェーガータンクが上がってきた。


(予想通り)

 この、イェーガータンクという馬自体が、元々逃げ馬だ。

 私は予想が的中したのと同時に、ミラクルフライトを先行させたところ、誰も前に出ようとせず、結果的にはハナを奪う形になっていた。


 一方のハイウェイスターは、馬群の中程に位置していた。


 イェーガータンクは、大林翔吾騎手が明らかに「抑える」レース展開を見せて、私を先に行かせる作戦のようだった。つまり、もう私は望む望まないに関わらず「逃げ」に追い込まれていた。


(嫌な予感がする)

 早くも、私自身は、このレースが波乱を呼びそうだと感じていた。


 全体的にゆったりとしたスローペースで、いずれの馬も「機会」を伺っているように見えた。


 恐らく、解説や実況からは、ミラクルフライト自体は非常に「折り合って」いるように見えただろう。つまり、人馬が一体となって、「かかる」こともないと。


 しかし運が悪いというか、実はミラクルフライトはこの時、いつも以上に「気持ちよく」走っており、一見、折り合っているように見えても、実際には制御が効いていない状態に近かった。そのため、気がつけば自然と「逃げ」に近い状態になっていたのだ。


 3コーナーから4コーナーへ。府中の大欅を越えた辺りから、私は「ぞわぞわ」っと、鳥肌が立つような気配を後ろから感じていた。


 そう。やはり予想通り「来た」のだった。実際、もうこの辺りから、ミラクルフライトのリードはほとんどなくなってきており、イェーガータンクがすぐ真後ろに迫ってきていた。


 だが、怖いほどの「鳥肌」の原因は、すぐ後ろのイェーガータンクではなかった。


 4コーナーを越えて、最後の長い直線に入った頃には、ミラクルフライトは、イェーガータンクに抜かれていた。


 そして、その「恐怖」に似た感情の持ち主が馬群の中から「飛んできた」。


(食われる!)

 と思うほどの、強烈なプレッシャーと、他馬を呑み込むような威圧的な雰囲気を漂わせ、その黒い影があっという間にイェーガータンクを追い抜いて、先頭に立っていた。もちろんハイウェイスターだ。


 私はもう頭が真っ白になって、パニックに近い状態になっており、折り合いがつくどころか、ミラクルフライトを制御できずに逃げて、彼はいっぱいになって、バテていた。


 後は、もうそのままハイウェイスターの「独り舞台」となっていた。


 イェーガータンクまでもが馬群に沈む中、完全に抜け出したハイウェイスターは、最終的に2着に5馬身も差をつけて、圧勝。


 イェーガータンクは4着、そしてミラクルフライトは8着という、掲示板にすら絡まない成績に惨敗した。


 初めての日本ダービー挑戦は、完全な失敗に終わり、同時に私とミラクルフライトのGⅠ挑戦は3連敗で、0勝3敗となる。


 しかもゴール板を駆け抜けてから、スタンドから響いてきた「声」が私を苦しめることになる。


「この下手くそ!」

「新人の、しかも女の騎手にミラクルフライトを任せるな!」

「ベテランに代われ!」


 コンプライアンス意識が根付き、昔ほど、野次というのは響かなくなっている風潮だったが、それでも熱心な競馬ファンほど、期待値をミラクルフライトに賭けているため、その期待を裏切られたと感じたファンから、一斉に野次が飛んでいた。


 私は、いたたまれなくなり、後検量を終えて、熊倉調教師の元に向かった。


 だが、やはりというべきか。私は改めて確信するのだった。

「負けたか。あの野次が今のお前を象徴している」

 報告に言った先で、熊倉調教師には難しい顔でキツい一言を言われたが、私は内心、思っていたことを口に出していた。


「すみません。ただ、ミラクルフライトは、スプリントもしくはマイルに行くべきだと思います」

 と。


 だが、熊倉調教師は、一応馬主には伝えると言っただけで、そのこと自体を特別、取り計らってくれる様子はなかった。


 ウィナーズサークルに上る、武政騎手は、すでに数多くのGⅠを勝っていたが、そんなベテランの彼でさえ、日本ダービーだけは勝っていなかった。

 つまり、ようやく初めて手にした「日本ダービーの勝利馬」がハイウェイスターになっていた。


 そんな彼にとっても、このレースでの勝利は特別なものらしく、

「ハイウェイスターでダービーを勝てて最高の気分です」

 と、インタビューで語っていたのが印象に残った。


 事実、私自身も「格の違い」を感じていた。

 この日本ダービーにおいては、ハイウェイスターだけが「物が違う」レベルで恐ろしいほどの実力を発揮していたからだ。


(これは、ヤバいな)

 と感じるのだが、それはあくまでも「一騎手」としての感想に過ぎない上に、騎手には元々、決定権はない。


 馬主や生産者にとっては、超良血のミラクルフライトは、クラシックを勝つべきだという信念に近い物があったらしい。


 結局、私の意見とは裏腹に、彼は残りのクラシック第3戦、秋の菊花賞を目指して、調整に入ることになった。


 そして、この時、初めて「日本ダービー」に挑んでから、私にとっての「長い挑戦」が始まったのだった。

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