第31話 初めて感じる恐怖

 そして、私にとって「初めて」のクラシック戦線への挑戦が始まった。


 2038年4月18日(日)、中山競馬場、11Rレース、芝2000メートル、皐月賞(GⅠ)。


 天候は、晴れ。馬場状態は「良」。


 コースも天候も、馬場状態も弥生賞とまったく同じ。

 ここで「真の決着」をつけて、私のミラクルフライトが勝って、私の騎手人生を豊かなものにするきっかけを掴みたい。


 その思いで、もちろん調教を含め、万全の体制で臨んだ。


 だが、弥生賞で期待を裏切る結果を残した為、ミラクルフライトは単勝7.0倍の3番人気に転落。一方で、単勝1.8倍の1番人気はその弥生賞で見事な差し切り勝ちを収めたハイウェイスター。イェーガータンクは単勝5.2倍の2番人気となった。


「先生」

 一応、所属する騎手にとって、調教師は「先生」になる。

 もっとも、私はこの熊倉先生のことを、未だによくわからない人と思っていたが。


「先行で押し切れ」

 これが熊倉調教師のアドバイスだった。相変わらず言葉数が少ないが、詳しく聞いてみると。


 「逃げ」はイェーガータンク、「差し」はハイウェイスターだろうと予想されたので、ミラクルフライトは早い段階で「先行」から押し切れ、ということらしかった。


 ミラクルフライトは6枠12番、ハイウェイスターは8枠17番、イェーガータンクは2枠4番。騎手はもちろん、ミラクルフライトは私、ハイウェイスターは武政修一騎手、イェーガータンクは大林凱騎手。


 俗に「最も速い馬が勝つ」と言われる皐月賞。

 私にとって、初めて経験するクラシックの雰囲気は凄まじかった。


 どこから「湧いて出た」のかというくらい、スタンドは人、人、人で埋まっている。15年ほど前にコロナ禍で人数制限されていたのが嘘のように、往時の隆盛が戻ってきていたような気がした。


 そして、2年前のこの皐月賞では、今は亡きシンドウが、後方からの強烈な追い込みで勝っていたことを思い出していた。その頃、病院のテレビから見ていた私。


 今は、この大舞台に立てるのという喜びに打ち震えていた。


 実際、ミラクルフライトは落ち着いていた。水色のチークピーシズは前回と同じく装着していたが、特に異常は感じられない。


 だが、実は私はようやく気づいてきていた。

 このミラクルフライトは、良くも悪くも「お坊ちゃん」なんだと。気持ちよく走らせると確かに強いかもしれないし、その末脚は強烈だろう。

 しかし、「わがまま」というか、扱いにくい部分があった。

 何しろ、集中力が無い馬で、雨も砂被りも嫌い、もまれる競馬も嫌い。気分が乗らないと調教でも集中力を欠いてしまう。

 彼には、そういう「お坊ちゃん気質」があったのだ。


 馬体重は、ミラクルフライトはマイナス6キロ、ハイウェイスターはプラス10キロ、イェーガータンクはプラマイゼロ。


 ここまで来ると、もうお互いに「腹の探り合い」になる。出走前は、どこかよそよそしく、お互いを意識している。

 どこで、誰が仕掛けて、どんなレースになるのか。予想をしているのかもしれないし、精神を集中しているのかもしれなかったが。


 そんな中、派手なGⅠファンファーレが鳴り、大歓声に迎えられ、各馬がスターティングゲートに入る。ゲート入りはスムーズに終わり、いよいよ出走となる。


 最初にハナを切ったのは、全18頭のうちの13番人気の馬で、ミラクルフライトはその後ろにぴったりと着くことに成功。


 そして、イェーガータンクは4番手くらいを併走。ミラクルフライトの位置としては悪くなかったし、当初の予定通りだった。


 だが、私は気づいていた。

(ハイウェイスターがいない!)


 そう。その時、1番人気のハイウェイスターは、かなりの後方、それこそ最後方に近いくらいの後方から3番手の位置にいた。


 一瞬、勝負を捨てたかと思うほどの、かなり後方からのレース。これは、一昨年の皐月賞でシンドウが見せた展開とほぼ同じだった。


 全体のペースとしてはスローペース。

 そのまま、13番人気の馬が引き離していく。


 1コーナーから2コーナーに向かう途中で、イェーガータンクがすっと伸びてきて、2番手に進出。ミラクルフライトは4番手に下がる。


 そのまま向こう正面から3コーナーに入る頃。ミラクルフライトは3番手に上がる。ハイウェイスターは徐々に上がってきていた。


 残り400メートルを切った、4コーナーを回った辺りで、イェーガータンクが先頭に立つ。


 そこから私は、感じたのだ。

 かつて、大林凱騎手が父の翔吾騎手から教わったという「強烈なプレッシャー」を。


 その正体は、ハイウェイスターだった。

 大外を回って、物凄いスピードで駆けあがってきた。というより、もう雰囲気だけで「威圧感」みたいな物を全身に感じていた私は、一種の「恐怖」に似た「戦慄」を覚えた。


 他の馬とはまるで次元が違うくらいの強烈なプレッシャー。それは馬はもちろん、騎手である武政修一騎手から発せられる物もあった。

 だが、この時、私が感じたのは、「ほんの一端」だったことを、この次のレースで思い知ることになる。


 ともかく、私としては、先頭に立つイェーガータンクに追いつけると思っていたし、2馬身も先に進んでいたイェーガータンクに必死に追いすがった。


 その間に、ハイウェイスターがぐんぐん追い込んでくる。


(負けるか!)

 もうこうなったら、根比べに近いのだ。


 必死に鞭を使って追い込み、3頭の壮絶な叩き合いになって、最終的にはイェーガータンクに半馬身まで迫り、ハイウェイスターを1馬身引き離していた。


 1着はイェーガータンク、2着はミラクルフライト、3着はハイウェイスター。

 2番人気、3番人気、1番人気の順でゴール板を駆け抜けていた。


 私は、「負けた」のだ。

 これがクラシック第1戦。昨年のホープフルステークスに続いて、ミラクルフライトにとっても、私にとっても2戦連続でのGⅠ未勝利に終わる。


 上がり3ハロンのタイムは、3着のハイウェイスターが36秒1と一番速かった。


 結果的には、負けたが、それでもこの馬の実力や血統から考えたら、2着でも十分素晴らしいものだろう。


 だが、ミラクルフライトの勝利を期していた熊倉調教師はもちろん、いい顔はしなかった。


「先生。すみません」

「まあ、次だ」

 と言ってはいたが、表情は硬かったからだ。


 実際、もう三冠達成はもちろん、残りのクラシック勝利ですら、暗雲が漂ってきている気がしてきていた。


 一方、ウィナーズサークルで歓声を浴び、勝利者インタビューを受けていた大林凱騎手は、


「同期で最初にクラシックに勝てて最高の気分です!」

 と満面の笑みで語っていた。


 そう。私の世代の同期で、最速でGⅠも、そしてクラシックも勝ってしまったのが、二世騎手の彼だった。


 レースは、次のクラシックへと続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る