第29話 束の間の休息
騎手の生活とは、過酷なものだ。
平日は朝から調教、土日はレース中心。遠征に出れば、多くの場合、ホテルとは別の調教ルームに入れられ、外部との通信手段すら絶たれる。唯一の休みは、月曜日と正月休みくらいのもの。
だが、そんな騎手にも息抜きは必要だ。
1月のはじめに、イェーガータンクの衝撃的なレースを見た、翌週の火曜日。
私はいつものように、美浦トレセンで、朝から担当馬の調教をやっていた。
騎手の生活とは基本的に「朝型」で、早朝の4時や5時から調教をして、早い時には午前9時には終わってしまう。
後は、調教師と打ちあわせをしたり、出走手続きをしたり、営業活動をしたり、という時間になる。
騎手は「自分がこの馬に乗りたい」と言っても、競走馬に対する「決定権」がないため、主にエージェントと交渉をして、そのエージェントが馬主と交渉をすることが多い。
つまり、エージェントに嫌われれば、騎乗依頼が来ない。過去、実際にエージェントと喧嘩別れをして、騎乗依頼が全然来なくなった騎手もいる。
そうなると、収入にも関わるのだ。
そのため、地道な営業活動と、良好な人間関係の構築が重要になってくる。結局のところ「人と人」の繋がりが重要になるという意味では、サラリーマンと変わらない。
そして、合間の時間で、同じトレセンに所属する騎手や調教師とも交流を持つことが多い。
そんな中、とある平日の午前中に私が調教を終えて、午前11時くらいに、食事のために、独身寮に向かった時だった。トレセンで働く若手騎手は、多くの場合、昼休憩に一旦、自分の宿舎に戻って食事を摂ることが多いのだ。
「Yu!」
やたらと、流暢な訛りで「名前」を呼ばれて、私はトレセンの馬場から続く道の途中で、足を止めて振り返った。
身長160センチほど。細身で、そして驚くべきは、綺麗に整えられた長髪のブロンドヘアーだった。おまけに人形のように綺麗な肌と、反則なくらいに可愛らしい笑顔と、二重瞼を持つ、文字通りフランス人形のような人が笑顔で立っていた。
面識はなかったが、一目でわかった。彼女が噂のフランス人騎手、マリアンヌ・ベルナールだろう。
「ベルナール騎手」
「Non.マリアンヌでいいよ」
「マリアンヌ。私に何か用ですか?」
彼女は確か28歳くらいだったはず。私より少し年上だが、綺麗と可愛らしさを両立している、奇跡のような美貌を持っていたから、私は少し緊張していた。
だが、初対面でも、欧米人らしいフレンドリーさで彼女は接してきた。
「一緒にお昼ご飯を食べましょう!」
有無を言わさぬ口調で、半ば強引に、昼食に誘われていた。
その日は、真冬とはいえ、関東地方の冬らしい、よく晴れた「冬晴れ」の一日で、風も穏やかだった。
彼女は、サンドイッチを作ってきたらしく、それをトレセン内にある、大きな木の下で一緒に食べようということらしかった。
緊張をほぐされるような、明るい笑顔につられ、私は了承していた。
彼女は不思議な人だった。
競馬界という、過酷な世界に女性として生きるのは、想像以上に大変にも関わらず、彼女は笑顔を絶やさない。明るくて、楽しそうに人生を満喫しているように見えた。何かと生真面目で、神経質に考えすぎる日本人にはあまりない感性を持っている。
詳しく聞いてみると、彼女は外国人騎手として、きちんと中央競馬の騎手免許試験に合格して、今は厩舎に所属していないフリーの騎手として、日本で活躍しているという。
同じく、昨年からフリーになっていた長坂琴音騎手と同じだった。
そして、トレセン内にある大きな木の下の芝生の上に座り、私に手製の豪華なサンドイッチをごちそうしてくれた彼女。
具材は、日本ではあまり見かけないチーズやハムが入っている物があったり、はたまたスモークサーモンや鶏肉が入っている物もあったりとバラエティー豊かで面白いが、それがフランス流のサンドイッチだという。
彼女は、それらを広げながら、明るい表情のまま、流暢な日本語で尋ねてきた。
「今年は、優のミラクルフライトが楽しみだね」
「そういうあなたのヨルムンガンドは?」
ついさっき知り合ったばかりなのに、もう数年来の友達のように、仲良くなっていた。年が近いのもあるが、彼女は本当に日本のことが好きらしく、色々とよく知っていた。
しかし、この質問の答えだけは「変わっていた」。
「クラシックのこと? 私はね、ヨルムンガンドは、クラシックじゃなくて別の道に行った方がいいと思うんだ」
「別の道って?」
「そうだね。マイルかダート、その後は凱旋門賞ね」
「マジで? 凱旋門賞目指すの?」
年上なのに、いつの間にか敬語を使わなくなっていた。それだけ彼女はもう友達みたいに感じるのと、フランス人であり、フレンドリーでオープンな性格も影響していたが。それよりも、彼女の口から「凱旋門賞を目指す」という言葉が発せられたことに驚かされていた。
今までの長い競馬の歴史の中で、日本で調教された馬が、凱旋門賞を制したことは一度もない。
毎年のように多くの馬が、凱旋門賞を目指してきたが、未だに一度も日本馬は勝っていないのだ。
それが、まだデビューして間もない、ヨルムンガンドが狙うというのだ。それだけの自信があるのだろう。勝てるという直感と言い換えてもいい。
「ヨルムンガンドは、とんでもなく速い馬だよ。この馬なら、本当に凱旋門賞を勝てる気がする」
「そっか。まあ、映像見たけど、確かにめっちゃ速かった」
その時だ。
通りかかった人影が、不意に足を止めた。
見上げると、見知った顔が、こちらを見て、何故か苦笑に似た、微妙な笑みを浮かべていた。
「石屋さんと、マリアンヌ? 何してるの、こんなところで」
長坂琴音騎手だった。彼女もまたフリーの騎手だが、たまたまその日、美浦にいて、調教をしていたらしい。
「琴音! 会いたかったよ!」
しかも、いきなりマリアンヌ騎手が、立ち上がって、長坂琴音騎手に抱き着いていた。
「ちょっ! 何するの、マリアンヌ!」
私もまたその光景に、目を見張っていると、マリアンヌ騎手の口から興味深い一言が漏れていた。
「琴音こそ、ジャポンの真の『ツンデレ』ね! アニメでしか見たことなかったけど、実在するんだね!」
マリアンヌは、子供のように大喜びだった。それどころか、首に手を回し、もうキスでもしそうな勢いで飛びついている。
恐らくマリアンヌ騎手と、長坂騎手はすでに知己を得ていて、互いに見知っているのだろうが、どこかのタイミングで、彼女は長坂騎手の「ツンデレ」っぷりを目にしたのだろう。
以降、執拗に追いかけるようになったのかもしれない。
「誰がツンデレよ!」
「あなた以外、ツンデレはいないわ!」
面白い。彼女には悪いが、いつもは冷静で、メディア以外に接する時はツンの部分が圧倒的で、マスコミには完璧な対応をする長坂騎手が、今は明らかに狼狽して、あたふたしている。滅多に見れない光景だ。
私が、堪えきれずに含み笑いをしていると、
「ちょっと、石屋さん。笑ってないで助けなさい」
長坂騎手から鋭い目つきで、睨まれてしまった。
仕方がないから、不本意だが、私がマリアンヌ騎手をなだめて、離れさせた。
結局、女性3人で、輪のように座って、昼食を摂ることになった。
その中で、私はマリアンヌが、元々、日本のアニメが大好きで、その影響で日本に来たことを知った。
彼女曰く。「フランスは、日本文化を非常に尊重していて、特にアニメ文化の受け入れはヨーロッパ諸国の中で、フランスが最も先進的」らしい。それほどフランスと日本の繋がりは深いらしい。
もっとも考えてみれば、浮世絵をはじめ、古くからフランス人は不思議と日本文化に敬意を持っていたように思えるが。
そのため、彼女は日本語を覚えるために、日本のアニメをわざわざ日本語オンリーで見て、ひたすら勉強をして、中央競馬の日本語の試験に合格したという。
ものすごい執念に似た、夢というか願望だ。それだけで尊敬に値する。
「まったく、マリアンヌったら」
彼女の作ったスモークサーモンのサンドイッチを食べながらも、長坂騎手は不満そうだったが、嫌がっているという感じではなかった。
「ごめんごめん。でも、琴音。あなたの乗る、ベルヴィだっけ。速そうだね」
「当然よ。何しろ、最優秀2歳牡馬に選ばれたんだから」
彼女が言うように、ベルヴィは、新馬戦からオープン戦、さらに京王杯2歳ステークス、朝日杯フューチュリティステークスと、2037年のデビューから全てのレースを1着で駆け抜けて、つい先頃発表された、2037年度の年度表彰で、最優秀2歳牡馬に選出されていた。
しかも、年度代表馬の投票数をも得ていた。ちなみに、2歳馬で年度代表馬の投票に選ばれたというのは、異例中の異例で、ここ数十年間、この名誉を得た馬はいなかったというくらいの偉業でもあった。
「今年のクラシックの主役は、間違いなくベルヴィね」
自信満々に告げる彼女に、マリアンヌ騎手は、自らが乗るヨルムンガンドが凱旋門賞を目指すことを、私に話したのと同様に、彼女にも話した。
「マジで! いくらなんでも凱旋門賞なんて、無茶よ」
「もちろん、今年は目指さないよ」
「それでも、いくらヨルムンガンドが凄くても……」
「いいえ。あの馬なら行けるわ」
絶対の自信を、マリアンヌ騎手の強気な瞳から感じた。
そして、このミラクルフライト、ヨルムンガンド、そしてベルヴィ。
この3頭こそが、今年のクラシック戦線の「主役」に違いない、と勝手に思っていた私と長坂騎手の想いとは裏腹に、事態が急変することになる。
この直後。ベルヴィは、骨折をして、長期休暇を余儀なくされたのだ。
一方のヨルムンガンドは、マリアンヌ騎手が言った通り、本当に最初からクラシックを目指すことなく、NHKマイルカップをターゲットに定める。
そして、いよいよクラシックが始まる。
ライバルたちがミラクルフライトに襲いかかる。
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