第7章 伝説の始まり

第25話 奇跡の馬

 8月末。


 ずっと交信がなかった、オロマップ・ホースクラブ代表取締役の鹿嶋田美鈴さんから連絡があった。


「忙しくて、すっかり伝え忘れてました。Jadgement Janeの35の名前が決まり、デビューも決まりました」

「本当ですか?」


「ええ。名前はミラクルフライト。来週には、美浦に送ります」

「ミラクルフライト。いい名前ですね、楽しみです」

 彼女の言葉を借りると、「仕上がりは順調で、予定通り10月にはデビュー戦に出走させる」とのことだった。

 もちろん、彼女はほとんど専任騎手としてミラクルフライトの騎乗を私に指名してくれたのだった。


 否が応でも期待は高まるし、指名されたからには、恥ずかしい競馬は出来ないとも思い、自然と気持ちは昂るのだった。


 そして、この「ミラクルフライト」こそが、私の運命をも左右することになる。


 9月はじめ。

 初めてそのミラクルフライトに対面した。


 牡の2歳。前に写真で見た時よりもさすがに体格ががっしりとしてきた。馬体重は470キロ前後。少し首を上下に振るような特徴的な走り方をする馬だった。鹿毛の馬体は美しいというよりも、凛々しい感覚に近い。ある意味、男らしさを感じる。


 だが、

(何だろ? 何か妙にしっくり来る)

 というのが、調教で初めて騎乗してみて、真っ先に思ったことだった。


 これは、バイクとか車でも言えることだが、「自分に合う感覚」みたいなものがある。

 靴や服でも同じかもしれないが。


 とにかく、最初に乗った時から、私は彼に妙な親近感と、フィーリングの良さを感じてしまうのだった。


 もっとも、一つだけ違和感があって、それは「彼が周囲の雑音を気にしている」ように見えたことだ。馬は音に敏感で、そういうのに気を取られて本来の実力を発揮できない馬もいる。


「メンコをしてみてはどうでしょう?」

 一応、調教師の熊倉さんに伝えてみたが、相変わらず適当な彼は、


「まあ、考えてみる」

 と言っただけで、まるでやる気のない政治家のように動かなかった。


 そして、そんな超良血馬のミラクルフライトのデビュー戦がやって来た。


 2037年10月5日(日)、京都競馬場、2Rレース、芝1600メートル、新馬戦。


 天候は晴れ、馬場は「稍重」。

 出走は10時30分という、早い時間のレースになる。


 京都競馬場、芝1600メートル(内周り)のスタート地点は向こう正面の2コーナーのポケット付近。外回りの芝1600メートルよりも左寄りの位置になる。スタートから3コーナーまで、約700メートルの長い直線を走る。向こう正面の半ばからは徐々に坂を上り、3コーナーのところで頂上を迎える。そして4コーナーにかけて下るというレイアウト。最後の直線は平坦で、長さは約328.4メートル。最後の直線距離は中央の競馬場の中で中山競馬場に次いで短い。


 どちらかというと、先行の脚質が有利とされている。


 そのレースにおいては、彼は2番人気。期待値も高かった。他には、さして有力な馬がいなかったが、大林翔吾騎手と、長坂琴音騎手がいたのが気になる程度。


 そして、スタートすると、彼は驚異的な力を発揮してくれた。


 馬なりに進み、スタートも悪くなかったし、道中は先頭から4、5番手を進んでいた。全体で15頭中のこの位置だと悪くはない。


 1600メートルのマイル戦なので、時間はあっという間に過ぎ去る感覚に近い。3コーナーの坂道を登っても、彼の脚色は衰えなかった。


 そして、最終の4コーナーを回った後の直線。

 ここで3番手まで上がっていた、ミラクルフライトを、外埒沿いから一気にまくって上げる。


 そして、その「末脚」が驚異的だった。

 どこから出てくるのか、というほど強烈な末脚を発揮し、一気に前の3頭を外から追い抜いて、最終的には2着に半馬身の差をつけて1着でゴールイン。


 上がり3ハロンのタイムは36秒2を計測していた。


(速い!)

 シンドウの時とは違った、速さを感じてしまう。


 ミラクルフライトは、シンドウのように暴れ馬ではなかったが、かと言って従順でもなかった。彼にはどこか「気高さ」を感じて、「無意味な命令には応じない」ような雰囲気があった。それこそが、彼が「良血」のお坊ちゃんのような血統から来るものだろう。


 だが、私は彼のことは一目で気に入ってしまっていた。

 何より、この馬は、馬にしてはなかなかの「イケメン」だった。


「ありがとう、ミラクルフライト」

 走った後に、彼の首筋を触り、声をかけていた。


 後検量の後、それを見ていた長坂琴音騎手に、ジョッキールームで声をかけられた。


「まったくあなたらしいというか。馬にお礼を言うなんて」

「おかしいですか?」


「べ、別におかしくないけど。ただ……」

「ただ?」


「そ、その……」

「はい?」

 何だか目を逸らして言いにくそうにしている彼女が、もじもじしていた。


「あなたが……ちょっとだけ。か、可愛いと思っただけ」

 それを耳にして、今度は私の方が先程より自然と笑顔になっていた。


「ありがとうございます。そんな風に思ってくれるなんて嬉しいです」

 最初は完全に敵視されていたと思っていた、長坂琴音騎手と今はこんな風に普通に話せるようになったことが、不思議だったし、嬉しかった。

 当初、思っていたのと違う形だったが、やはり私は改めてこの人のことが好きなんだと気づいていた。


「か、勘違いしないでよね。私は別にそっちのはないから」

 しかも、照れ隠しで顔を赤くして、目をそらしている姿が、まさに「ツンデレ天使」的で可愛らしかった。


「それよりミラクルフライトね」

「ミラクルフライトが何か?」


「さすがの超良血馬ね。まあ、正直、私もこの馬には勝てる気がしなかったわ」

「そうでしょう。来年のクラシック戦線は、この馬で引っ掻き回しますよ」

 そう豪語していた私に対し、しかし彼女は最後に気になる一言を投げてくるのだった。


「良血なのは認めるけど、競馬はそれだけで勝てるわけじゃないわ。もちろん来年はあなたにもクラシックに上がって来て欲しいけど」

「はい。がんばります」


「あとどれくらい?」

 と彼女が言ったのは、通算勝利数のことだ。これが31勝を越えないと、クラシックはもちろん、GⅠにも出走できない。


「今、28勝ですね」

 そう。私はこの年、21勝からスタートし、すでに7勝を上げていた。あと3勝で目標到達となる。


「ま、今のあなたなら3勝くらい余裕でしょう?」

「余裕かどうかはともかくがんばります」


「実は私も、外国産だけど凄い馬に出逢ったのよ。来年の戦いが楽しみだわ」

 笑顔を見せる長坂琴音騎手。


 ようやく私たちは、競馬を通じて「わかりあう」ことが出来たのかもしれないが、そもそもこの「ツンデレ天使」様は、単にコミュ障なだけだったのかもしれない。


「じゃあね。また会いましょう」

 相変わらず、励ましなのか、照れ隠しなのか、よくわからない謎の挨拶を残して、彼女は立ち去って行った。


 これがミラクルフライトとの二人三脚の戦いの始まりだった。

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