第16話 皐月賞で見た奇跡

 2036年4月20日(日)、中山競馬場、11Rレース、芝2000メートル、皐月賞(GⅠ)。


 天候は晴れ、馬場は「稍重」だったが、実は前日に雨が降っており、その影響で内寄りの馬場状態は、荒れていた。


 そして、この「クラシック」初戦の大事な一戦において、私は「自分以外が乗った馬」では初めて「奇跡」に近いものを目の当たりにすることになるのだった。


 俗に「最も速い馬が勝つ」と言われるのが、この皐月賞。


 1番人気は、ベテランの大林翔吾騎手が乗る、フリーズムーン(牡・3歳)で、武政修一騎手が乗るシンドウ(牡・3歳)は4番人気だった。なお、昨年、野路菊ステークスでシンドウと争った、海ちゃんが騎乗していたジェットアタッカーは、不運にも怪我によって、レースを回避していた。

 そのことが、後々海ちゃんの運命をも変えるのだが、それは別の話になる。


 私の傷はだいぶ回復しておきており、幸いにも騎手人生を脅かすほどの重症ではなかったため、明後日、4月22日(火)に退院予定だった。プレートを入れる手術はすでに終わっていたが、そのプレートを除去するのは、来年の秋になるらしい。


 病院のベッドではなく、多くの患者たちが集まる、広々としたロビーに置かれてある、50インチはあろうかという、大きなテレビで観戦することにした。

 病室のベッドから見るより大きく、また患者の中に、競馬好きな年寄りがいるため、GⅠのレースの際に、ここで放送を見る人が多いことを、私は知っていたからだ。


「さあ。いよいよ始まりますね、今年のクラシック戦線。解説の丸川さん、どう思いますか?」

 本レースが始まる、本馬場入場前から、すでにテレビの競馬番組では、この皐月賞が大きな注目になっており、キャスターが解説者に振っていた。

 ちなみに、この「丸川」という男は、丸川和馬かずまという名の元・騎手で、現在はこの競馬番組の専属に近い解説者だった。


「そうですね。やはり、スプリングステークスを圧倒的強さで制したフリーズムーンに注目します。ただ、この馬場状態の悪さが、どう影響するかですね」

 事実、フリーズムーンは、皐月賞前哨戦のスプリングステークスで、2着に5馬身も差をつける圧勝劇を演じていた。

「なるほど。丸川さんの本命は、フリーズムーンと」

「はい」


 他の出演者もそれぞれ予想し、ボードに自分の予想を書き連ねては、発表していたが、実はこの時、誰も「シンドウ」を本命には予想していなかった。

 私個人としては、「武政騎手なら、シンドウを上手く扱えるはず」と信じていたから、彼が勝つことを疑ってはいなかったが。


 そして、いよいよパドック、本馬場入場となる。

「スプリングステークスの奇跡を再び。圧倒的一番人気のフリーズムーン、まずは一冠目を取るか!」

 単勝1.5倍という圧倒的人気の、黒鹿毛の馬体、フリーズムーン。確かにスプリングステークスでは、2着に5馬身くらい差をつける圧勝劇を演じていた。


「神童の名の通り、神の力を見せつけるか、シンドウ!」

 一方、芦毛の馬体、シンドウは弥生賞ディープインパクト記念で2着とはいえ、決して惜しい戦いではなかった。単勝オッズは7.1倍。決して高くはない。


 そして。

 関東でGⅠが開催される時の、高らかなファンファーレが鳴り響き、大歓声と共に各馬がゲートに集う。


 いよいよ、今年のクラシックの運命を決める、初戦が始まろうとしており、中山競馬場には、異様な緊張感が漂い、10万人を越える大観衆が、固唾を飲んで、この伝統の一戦に注目する。


 シンドウは、7枠13番、フリーズムーンは、8枠18番という外枠。


 全18頭の、選ばれた優駿がゲートに入る。


 そして、

「スタートしました」

 いよいよ始まる、皐月賞。


 ところが、

「おっと。一頭出遅れた。シンドウが、スタートに失敗か」

 いきなり最初から、彼はつまづいており、スタートダッシュに失敗し、最後方からのスタートになった。


 その瞬間、

「おいおい。シンドウ、大丈夫か」

 病院内でも競馬好きで通っている、老年の患者が、つい声を上げていた。


 私も内心では、同じ気持ちで、これまで彼は「どちらかというと後方」からの競馬が多かったが、それでも最後方からのスタートは、ほとんどなかった。


 1コーナーを回った時点で、すでに最後方にポツンと取り残されたようなシンドウがいた。


 レースは、大方の予想通り、逃げ馬の2頭が先頭に立って、レースを引っ張り、フリーズムーンは先頭集団後方の4番手くらいを追走していた。


 そのまま、逃げ馬の2頭がぐんぐん引き離し、3コーナーを回る頃には、先頭から最後方のシンドウまで15馬身くらいの差がついていた。


(これはダメかな)

 と、さすがに諦めていた私の目に、信じられないものが飛び込んできた。


 シンドウは、3コーナーから内目のコースに飛び込んで行った。このレースでは、前日の雨でコンディションが悪くなっていた為、内寄りの馬場を避け、多くの馬が外寄りに進路を取っていた。


 ところが、シンドウだけは違っていた。

 そのコンディションが悪い内埒沿いに進路を取ると、前に馬がほとんどいない内側を一気に駆け抜ける。


 4コーナーを回った時点で、いつの間にか彼は6番手まで上がっており、残り400メートルからさらに加速。


 中山競馬場の芝2000メートルは最後の直線が308メートルほどだが、坂道になっている。

 そして、それこそが彼の「得意」であることを見せつけるように、ものすごい末脚で一気に上がっていき、あっという間にハナを奪うと、後続に2馬身半もの差をつけて、ゴール板を駆け抜けていった。


「一気に突き抜けた! シンドウ!」

 興奮気味のアナウンサーの声が響くと同時に、上がり3ハロンのタイムが、電光掲示板に表示されるが、それを見た私は、絶句していた。


(34秒4! とんでもない速さだ)

 シンドウが、「神童」である所以を見せつけたレースであり、これこそが本来は、「私」が望んでいたシンドウの戦い方だったのかもしれない。


 もっとも、坂道に強いことはわかっていても、私は武政騎手ほど完璧には彼を扱いきれていなかったから、仮に皐月賞に出ていたとしても、私では恐らく同じ戦いは出来なかっただろう。


 第一、あの状況下で、荒れている内埒沿いに進める判断力が凄い。恐らく、武政騎手は、「シンドウなら行ける」と判断したから、あえて不利な内埒沿いを選んだのだろう。


 これこそが、「ベテランの味」とでも言うべき、彼の「能力」だった。

「よっしゃ! シンドウ!」

 先程のご老人が、上げる元気な声を聞きながら、私は静かに病室に戻るのだった。


 ちなみに、1番人気のフリーズムーンは、荒れた馬場に脚を取られ、5着に終わっていた。


 一方で、頭の片隅では別のことを考えていた。

(シンドウの血の濃さが問題かもしれない)

 と。

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