第7話 シンドウの実力と、彼女の一言

 2035年6月10日(日)。私、石屋優の競馬人生にとって、忘れられない日になる。


 東京競馬場、5Rレース、芝1800メートル、新馬戦。


 シンドウは、2枠2番という内沿いに入る。頭数は12頭立てで、牡馬・牝馬の混合。人気は5番人気と、それほど注目はされていなかった。一方で、1番人気のシュートカテドラル(牡・2歳)に乗っていたのは、あの女性初のGⅠを勝ち取って、今や日の出の勢いの、長坂琴音。


 私にとって憧れの人だが、レース前の緊迫感の中で、わざわざ彼女に話しかけるのも気が引けたので、今はレースに集中することにした。


 天候は、晴れ。馬場状態は「良」と、コンディションは悪くなかった。

 シンドウは、暴れ馬だが、意外なほど頭がいい馬で、今日がどういう日かわかっているようだった。

 レース前に合わせて、飼葉を調整するように食べており、馬体重はプラス3キロ。

 もっとも好走率が高いのは、前走からプラスマイナス3キロと言われており、つまり万全の態勢と言える状態だ。


 一見、ただの新馬戦。だが、私にとっては、「初勝利」を期する、大事な一戦。

 それゆえに、レースコースは事前に頭に叩き込んできた。


 東京競馬場、芝1800メートルは、GⅡの毎日王冠でも使われるコースで、スタート地点は1~2コーナーのポケット地点。そこからコースに合流するまでは、150メートルしかない。つまり、序盤のポジション取りがシビアになる。

 その影響から、逃げ馬の勝率が他のコースよりも低いのが特徴だった。


 しかも、私が見たところ、シンドウの脚質は「逃げ」ではなく、どちらかというと「先行」もしくは「差し」。勝機は必ずあると思っていたし、彼のコンディションは悪くなかったし、トモ(馬の後ろの腰部、臀部でんぶ後肢うしろあしのこと)の張りも良かった。


 新馬戦、あるいはメイクデビューなんていうのは、大抵そんなに注目されないし、観客もコアな競馬ファンか、もしくは馬主か、競馬関係者が多い。


 そんな静かな雰囲気の中、私は発馬機、つまりスターティングゲートに芦毛の馬体を入れて、すぐ隣をチラ見した。


 すぐ隣の3枠3番にいたのは、長坂琴音騎手だった。彼女は、レース前の集中力を保っているのか、こちらを見ずに、自らの馬に集中しているように見えた。


 ゲートが開く。

 まず先行するのは外枠にいた馬。確か3番人気だったはず。それを追って、長坂琴音が操る1番人気のシュートカテドラルが続く。

 シンドウは、後方に控える競馬だった。後方から数えた方が早いくらいの12頭中の9番目。


 私が見たところ、この仔は「ズブい」、つまり競馬用語で、「エンジンがかかるのが遅い」タイプだと思っている。

 その代わり、一度、エンジンがかかると、爆発的な力を発揮する。


 そして、だんだんとわかってきたのは、彼は後肢の繋ぎが緩く、ダッシュが効きにくい。その代わり、強靭な肉体と柔らかい筋肉を持ち、坂道を苦にしないということ。

 

 シンドウは、焦りの色を見せずに、冷静に見えた。内埒うちらち沿いを走り、次第に後方から中団に迫る。


 競馬においては、逃げ以外の、先行、差し、追い込みには、この「中団」の団子状態の中をかき分けて、「抜ける」力が求められる。


 つまり、強い馬は、馬群を物ともせずに、突き抜けるのだ。

 前に、私が長坂琴音の初GⅠ勝利を見た、ヴィクトリアマイルでのポイントガーネットがまさにそのタイプだろう。


 ラップタイム、つまりペースとしては比較的速いように感じたが、先頭から最後尾までは10馬身もない。それほど縦長でもない展開だと思った。感覚的には、1000メートル通過時に大体1分くらいの平均ペースに近いはずだ。


 2コーナー、3コーナーを回り、ついにここ、東京競馬場の名物、府中の大欅おおけやきを見ながら、4コーナーに差し掛かる。

 コーナーを回り切る少し手前で、私は仕掛けていた。


「行け、シンドウ」

 私が、軽くポンと彼のたてがみを触ったのが、合図になった。


 その時、後方から4番手にいた彼が、一気に加速した。

 ヴィクトリアマイルでは、大外からポイントガーネットが抜いたが、今度は逆に内埒沿いを進んだシンドウが、ぐんぐんと加速して、追い抜いていく。


 まだ、騎手として、慣れていない私には、「恐怖」を感じるほどのスピード。だが、馬は繊細で、しかもこのシンドウは頭がいいから、私の恐怖心を敏感に感じ取る。恐怖心を悟られないように、しかし飛ばさなければならない。


 1頭、2頭を瞬く間に追い抜き、残りの直線に入る。

 ここは、約525メートルもある長い直線だが、実は高低差2.1メートルはある緩やかな上り坂だ。


 それこそが、彼の「得意」なコースだった。

 坂道を物ともせずにぐんぐん登って行き、あっという間に3頭を追い抜く。気がつけば先頭から4番手に上がっていた。


 残り3頭。頭の中で数えながら、私は前だけを見つめる。

 残り200メートルを切る。

 届くか、届かないか。先頭を走る1番人気のシュートカテドラルに乗る長坂琴音の、可愛らしい尻が見えた。


 通常の馬なら、この辺りで失速してもおかしくない。だが、彼は違った。

 わずかながらさらに加速したように見えた。


 そのまま1頭を抜き、残り100メートルでさらに1頭を抜き、ついに2番手。いつのまにか先頭にいた、シュートカテドラルの右斜め後ろにぴったりとつく。


 残り50メートル。もうゴール板は目の前に迫っている。

「行け!」

 シンドウが、わずかにいななき、反応したように見えた。

 ゴール板をほぼ並んで通過していた。


 どっちが勝ったか、一瞬わからず、「審議」のランプが灯る電光掲示板に目を向けた。


 祈るような気持ちで見つめる。このわずかな時間の緊張感が体に悪い。そして、しばらくして、その電光掲示板の一番上に「2」の数字が灯る。


「よし!」

 初めて勝った喜びを味わうことが出来て、思わずガッツポーズをしていた。


 だが、そんな喜びも束の間で、私には思いもよらない事態が、このすぐ後に待っていたのだ。

 勝利した後、ウィナーズサークルで簡易的な儀式と、短いインタビューを終えて、地下道を歩き、検量室に着いて、馬を降りて、後検量を実施。次のレースがない私は、簡単なインタビューに答えてから、ジョッキールームに向かうべく廊下を歩くが、後ろから声をかけられていた。


「まさかあなたみたいな新人に負けるとはね」

 メゾソプラノの綺麗な声が背後から響き、振り向くと、帽子をかぶったまま、こちらを見つめる長坂琴音がいた。


「長坂さん……」

 憧れの人に、直に声をかけてもらい、私は感極まって、言葉を失っていたのだが。


「どうして勝てたのかしら? いえ、違うわね。あなたはなんで騎手になったの?」

 不思議な質問だとは思いつつも、私にとって憧れの人からの質問だ。無下にはできないと、私は思っていたことを正直に口に出したのだった。


「馬が好きだからです」

 しかし、直後、彼女の表情が一変していた。


「はっ? 馬が好き?」

 そして、次の瞬間には、高笑いが響いていた。というよりも、それは侮蔑の意味を込めた、嘲笑に近いものだった。


「マジで言ってんの、それ?」

 違う。私の憧れの人は、そんなことを言う人じゃない。頭の中では、混乱と期待と、その期待に裏切られたという、無念の気持ちが交錯していた。


 しかし、彼女は、その綺麗に見える瞳を濁らせたように、続けた。

「おめでたい人ね。馬なんて、所詮は『道具』よ。勝てればなんだっていい」

 まるで、山ノ内昇太が言ったような一言。


 いや、彼がかつて言っていた、「勝負の世界はそないに甘ないって」というセリフが、頭の中で反芻していた。


 私は、憧れの人の現実世界とのギャップに、かなりのショックを受けていたと思う。だって、テレビやネットの取材で見る彼女は、完璧なほどの、まるで芸能人みたいな素敵な笑顔を見せていたのだから。


 あれが、完全に作られたものだと思うと、ショックだった。

「ま、せいぜい引退しないようにやることね。もっともそんな甘い考えじゃすぐ引退しそうだけど」

 あっさりと手を翻し、彼女は立ち去っていった。


 私に、強烈に「悪い」印象だけを残して。


 勝った割には、ショックが大きすぎて、勝利報告に、調教師の熊倉さんのところに行ったら、

「やっと勝ったか。まあ、お前らしくていい」

 なんて言われていたが、それがどういう意味か、私にはさっぱりわかっていなかった。


 ただ、厩舎に帰って、厩務員さんに断り、シンドウの馬房に行き、柵を挟み、その少し前の地面に体育座りで座って、私は彼に声をかけるのだった。

「シンドウ。私、どうしたらいいかわからなくなっちゃった」

 愚痴を呟く私に、彼はいつものように、こちらには目も向けないで気にもせず、マイペースにただ飼葉を食べているだけだった。


「冷たいな、君は」

 まったく意に介さない彼の仕草に、少しだけ心が傷ついた気がしたが、同時に「勝たせてもらった」に等しい私は、内心ではシンドウに感謝していた。

 あの末脚は、驚異的だったし、伸びれば彼はもっと強くなるだろう。


 現在の成績78戦1勝。父が示した条件をクリアするには、残り8年半で重賞の勝利+残り199勝が必要。道はあまりにも遠かった。

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