第6話 対等な関係
5月いっぱい、幸い私の元に騎乗依頼は来たが、それからも勝てない日々は続き、気がつけば通算成績が65戦0勝。
さすがにヤバい、後がないという状態に追い込まれていた私。
しかももうすぐ6月には、熊倉厩舎のシンドウがデビューするし、その騎乗は私に任されていた。
そんなブルーな気持ちの状態では、身が入らず、相変わらずシンドウとは心を通わせられていないままだった。
そして、そんな平日のある日。
騎手の仕事は、基本的に土日が中心であり、中央競馬は土日に開催される。一方、地方競馬は平日中心だが、私はまだ地方競馬からの依頼がほとんど来なかったので、逆に空いていたのだ。もっとも、日中は美浦トレセンで調教をしているから時間はない。
連絡先を交換し合っている、同期の川本海ちゃんからLINEが来た。
「会えませんか?」
という内容で、私自身も、彼女には久しぶりに会いたかったので、了承した。
場所は、美浦トレセン近くの土浦市にある喫茶店。時間は、調教が終わった後の自由な時間が取れる夜20時。とは言っても、ロクに交通手段を持っていない私は、唯一の足と言える、原付バイクでそこに向かったのだが。
久しぶりに会った、川本海ちゃんは、相変わらず、クールビューティーに見えた。
どこか達観しているというか、落ち着いて見えて、私より年下に見えないくらいだ。
ブレンドコーヒーを注文し、席に着いて、コーヒーを一杯口に含む。
「お久しぶりです、優さん」
「うん。元気そうだね、海ちゃん。しかも、結構勝ってるし」
海ちゃんの成績は、62戦して13勝。目立つほど勝ってはいないが、まあ、それでも1勝もしてない私よりも全然いい。
だが、彼女は私のことを気遣ってくれたのか、元々の性格なのか、あまり喜色を現さない。
「私なんて全然大したことないです」
と謙遜していたが、
「それを言ったら、私なんて、最低だよ」
と、つい自虐的になってしまった。
そのことで、彼女は心配してくれたのだろう。
「私は、優さんは弱くないって、思いますよ」
そう声をかけてくれたのが、慰めでもお世辞でも、今は少しだけ嬉しかった。
何しろ、この世界は厳しい。女というだけで、馬鹿にされ、ひどい騎手になると「どけ」とか「邪魔だ」と言われてしまうこともあるし、調教師は調教師で、ドライな連中が多いし、馬主はもっとドライで、金のことしか考えていない。
「そんなことないよ。全然勝てないし」
さすがに、私の一言で雰囲気が暗くなることを危惧したのだろう。
彼女は、思い出したように私に面白いことを告げるのだった。
「あの。優さんは馬に乗る時に、特にレースの時に、何を考えてますか?」
「えっ」
少し意外な一言だったため、一瞬声が詰まった私は、振り返ってみたが、考えてみても答えは一つしか思い浮かばなかった。
「それは、もちろん『勝ちたい』ってことだね。私が制御して、この仔を勝たせるって」
海ちゃんは、その円らな瞳を向けて、優しい口調で切り出してきた。
「それが原因かもしれませんね」
「えっ。どういうこと?」
すると、彼女は遠くを見つめて、在りし日を思い出すように、そっと穏やかな声を出した。
「私が初めて優さんに会った時。あなたは、すごく楽しそうに馬について話してました」
そうだったのか。
いや、そもそも初めて会った時に、自分が何をしていたのかすら、私は明確には覚えてなかったが。
確か、彼女と初めて会った時は、騎手学校の1年生の時の春で、自己紹介を兼ねた挨拶をしていた。
「同期」と言っても、騎手学校の入学者は少なく、同期はたったの10人しかいなかったが。
「きっと、今の優さんは、馬を抑えようとして、無理をしているんです。あるいは、変に緊張している。それが馬に伝わるんですね」
はっとする思いがした。
確かに、シンドウの時は、彼の気の強い性格から、無理矢理にでも「制御」することを優先していた。
ピリカライラックの時は、逆に私自身が緊張して、その緊張が彼女に伝わり、上手くレース運びが出来ていなかった。
他の騎乗馬に対しても、大抵同じようなことが起きていた気がする。
「ありがとう、海ちゃん。私、もうちょっとがんばってみる」
「どういたしまして。忘れないで下さい。私はあなたの一ファンであることを」
そう言った彼女が、照れ臭そうに微笑んでいたのが印象的で、年相応に可愛らしく見えた。騎手1年目の19歳。右も左もわからないまま、この過酷な世界に飛び込んだ彼女に私は、アドバイスをもらった。
翌日。その日は、シンドウの調教をする日だった。
シンドウは、最初から私を散々振り回してきた、気の強い暴れ馬。北海道弁で「きかない」と言う。つまり、「やんちゃ、わんぱく、気が強い」の意味で使われる。
そんな「きかない」仔に、私は思いきって、乗ってみた。
その日の調教は、ウッドチップコースでの馬場で行われ、坂路、つまり傾斜のある坂道も入っていた。
ウッドチップは、走路の基盤の上に、粉砕された木片を敷き詰めた馬場で、調教用馬場として用いられている。
ダートコースに比べて、クッション性が高く、脚への負担が少ない。
そのコースにて、私は初めて「彼」の実力を知ることになる。
「シンドウ。よろしくね」
いつもは無理矢理抑えつけようとしていた、彼に対し、私が取ったのは「対等なパートナー」としての関係。
平たく言うと、馬を「友達」だと思うことだ。
原点に返って、馬が好きだというその一点に賭けてみることにした。
すると、どうだろう。
今まで散々嫌がっていた彼が、自由に走り始めた。
たまに勢い余って
その時、私は感じたのだ。いつものようにモンキー乗りをしていて、身体の下から「エンジン」でも積んでいるかのようなスピードに。
特に、坂道を上るパワーが素晴らしかった。
速い、速い。
今まで色んな馬に乗ってきたが、こんなに速い馬はいなかったかもしれない。
なかなか止まろうとしないまま、気がつけばコースを5周もしていた。
ようやく止まった彼に対し、私は馬上からそっと首筋に抱き着いて、囁いた。
「君。思いきり走りたかったんだね。気づかなくてごめんね」
シンドウは、ブルッと一瞬震えたように見えたが、後は落ち着いて、言うことを聞いてくれるようになった。
馬は、とても神経質で、繊細な生き物。ましてや、競走馬は闘争心を鍛えられている。レース前には気持ちが「
だが、この仔は、何だか違う気がした。
そして、ついにそのレースがやってきたのだ。
シンドウのデビュー、新馬戦だ。
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