第2章 憧れと現実

第5話 同期の活躍と彼女の勝利

 一方、その頃。

 私の同期たちはどうだったのか。実は彼らの方が、スタートダッシュを決めていた。


 デビューが3月11日で15着だった私に対し。


 最も鮮烈なデビューを飾ったのは、あのお調子者の二世騎手、大林凱だった。

 2035年3月4日。

 スカイユニオン(牡・3歳)で初騎乗にして、いきなり初勝利を飾り、その1週間後の3月11日にも1着になる好走を見せていた。


 次いで、個人的にいけ好かない関西人、山ノ内昇太。

 デビューから15戦目の同年3月11日。

 ティアラマジック(牝・5歳)で初勝利。


 そして、年下の同期、女性騎手の川本海。

 デビューから20戦目の同年3月25日。

 ホクトランカスター(牡・4歳)で初勝利。


 私は、デビューからすでに25戦以上を経た3月末時点で、未だに勝ち星が一つもついていなかった。

 同期の誰よりも遅いという印象を抱かせてしまい、馬主にも、調教師にも申し訳が立たないのだった。


 だが、調教師であり、厩舎を預かる熊倉弥五郎は、私にはたった一言しか言わなかった。

「お前さんには、闘争心がねえんだよ。それじゃ勝てないべ」

 基本的に、彼はいつも放任主義だったから、初めてまともに会話した気がするが、彼は恐らく東北、それも青森あたりの出身だろう。訛りが強かった。


 いや、そんなことよりも、かつて同期の山ノ内昇太にも、似たようなことを言われていたが、私は根本的に「闘争心」に欠け、それ故に勝てない、ということらしい。


 早くも思い悩み、躓き、騎手人生の坂道を転げ落ちそうな勢いで、落ち込んでいた私。あまりにも勝てないと、そのうち騎乗依頼が来なくなり、騎手人生は簡単に終わりかねない。そんな私の目に、信じられないものが飛び込んできたのは、その年の5月だった。


 いわゆるクラシックレースと言われる、3歳のレース、牡馬の皐月さつき賞、牝馬の桜花おうか賞が終わって、次の一戦、5月の牡馬の日本ダービー、牝馬のオークスが行われる直前のこと。


 2035年5月13日(日)、東京11Rレース、芝1600メートル、ヴィクトリアマイル(GⅠ)。サラ系4歳以上の牝馬によって争われるマイル戦。


 そこに私の「憧れの人」の姿があったから、私は美浦トレセンにある、テレビ画面に釘付けになって見ていた。


 長坂琴音、この時25歳。

 デビューから6年目。

 18頭立てで行われるレースの、真ん中あたり、6枠12番に彼女が騎乗している馬、ポイントガーネット(牝・4歳)がいた。芦毛のアイドルホースと言われた、毛並みの美しい気品の感じられる馬で、実際に3番人気まで押されていた。

 ちなみに、血統も良く、父はマイル戦で活躍し、母はクラシック2冠を達成しているから、良血馬だ。


 相手には、あのリーディングジョッキーの武政修一はじめ、凱くんの父の大林翔吾もいた。もちろん、他にも彼女よりはるかに年上で経験があるジョッキーばかりが並ぶ。

 まさに、プロ中のプロに囲まれている。


 天候は晴れ。馬場状態は「良」だった。


 GⅠ特有のファンファーレが聞こえてきて、観客からは万雷の拍手が鳴り響き、赤旗がスターターから振られる。

 各馬がスターティングゲートに並ぶ。


「スタートしました」

 実況中継は、何事もなかったかのように、淀みなく響き、レースが展開される。


 ここ東京競馬場、芝1600メートルの特徴は、左回りワンターンのマイル(1600メートル)であり、新馬戦でも有力馬が集まる。


 スタート地点から3コーナーまで542メートルあり、序盤のポジションは比較的取りやすいと言われている。

 そんな中、長坂琴音が騎乗するポイントガーネットは、中団の少し後方の位置につけていたが、先行勢からは離れていた。全体的に馬群が詰まっており、スローペースに近かった。


(大丈夫かな)

 と、私が手に汗を握り、心配しながらも、密かに彼女を応援していると。


 やがて、最終の4コーナーを回った辺りで、実況中継の声と、周りの歓声が一気に膨れ上がり、共鳴していた。


「さあ、4コーナーを回って直線コース。3番のニセコローズが先頭に立つ。内を突いて18番のアリエッティ」

 3番のニセコローズ(牝・5歳)に騎乗しているのは、あの武政修一騎手で1番人気。そして、18番のアリエッティ(牝・6歳)に騎乗しているのは大林翔吾騎手で4番人気だった。まあ、レースとしては妥当なところだろう。


 しかし。

 この時、私は信じられないものを見た。

「外から飛んできたのは、ポイントガーネットだ!」

 そう、それは文字通り「飛んできた」ように見えたのだ。


 競馬では、ごく稀にこういうことが起こる。それを人は「奇跡」というのかわからないが。


 一体、今までどこにいたのかわからない状態だった、中団、いやむしろ後方集団にいたはずのポイントガーネットが、一瞬の隙を突いて、大外おおそとから猛烈な勢いで「まくって」上がってきた。


 それも東京競馬場の最終直線を意識している。ここの直線は、約525メートル。日本の競馬場で2番目に「長い」。つまり、有利なのは、「差し」、「追い込み」馬だ。


 しかもその「脚」が恐ろしかった。前に7、8頭はいるのに、恐ろしいほどの次元の違う脚を見せつけて、一気にごぼう抜きをしていく。ポイントガーネットは残り200メートルを通過した辺りから、さらに爆発的な脚を見せた。


 そして、ついに残り100メートルほどでアリエッティに並び、ゴール直前でニセコローズにも並んだかと思うほど急追したポイントガーネットが、興奮気味のアナウンサーの声と共にゴール板を一気に駆け抜けた。

「外から一気に差し切った! ポイントガーネット、1着でゴールイン!」

 その瞬間、大歓声と共に、私は鳥肌が立っていた。全身が震えるくらいの感動を浴びていた。まさに強烈な「末脚すえあし」を発揮したポイントガーネットが逆転勝利を収めたのだ。


 その興奮はテレビ中継を通じて伝わってきた。

「何と長坂琴音、女性ジョッキー初のGⅠ制覇! これは歴史的快挙です!」

 観客はスタンドからスターティングオベーション状態で、歓声が鳴りやまず、「琴音」コールが鳴り響き、ウィナーズサークル内で、キラキラと輝くような汗と、疲れが弾け飛ぶような満面の笑みを浮かべていた長坂琴音騎手。


「やっぱり、カッコいい……」

 同じ女性ながら、どうしても憧れて、カッコいい。ああいう風に私もなりたい、と思ってしまう。


 物事には、必ず「目標」というものがあった方が、結果が伴う。それは小さな目標でも大きな目標でもいい。


 未だに、たったの1勝すらできていない私が、こんなことを言っても説得力はなかったが、彼女、長坂琴音が私に与えたのは、強烈な「インパクト」だった。


(いつか私も、琴音さんみたいにGⅠで勝利を)

 そう、熱い思いが胸の底から湧き上がってくる。


 翌日の新聞、テレビ、インターネットは彼女のニュースで持ち切りになり、暗い世相を吹き飛ばすかのような、女性ジョッキーの快挙は、しばらくの間、日本列島を駆け巡った。


「日本初の女性GⅠジョッキー誕生」

「ホースウーマン、長坂琴音」

「歴史に名を残したプリティーウーマン」


 マスコミはこういうのが大好きだ。おまけに、彼女は綺麗だったから、テレビ映えもする。

 一方で、競馬界は完全な「男社会」だから、素直に彼女を称える者は、実は関係者の間では少なかったが。


 とにかく、私にとって、彼女こそが「刺激」になり、原動力を呼び起こす「何か」になるのだった。


 ところが、現実はそうそう甘い物ではなく。

 私はやはり「勝てなかった」。

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