最終章 ちいさな天使の、最後の賭け・4
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ログハウスの扉を開け、ミリとメルのいる部屋に勢いよく飛び込んでいく。
「ミリ、メル、奇跡が叶えられるわ!」
ベッド際に並んで行儀よく座る二人に、勢いそのままに抱きついてベッドになだれ込む。メルはすでに包帯が取れていた。
「アヤ、その話は本当なの?」
「うんミリ、これから奇跡を回収しに行くわ。だからあたし、お別れを言いにきたの」
「はじめてよ、奇跡を手にした天使なんて!」
「ありがと、メルも傷が治ってよかった!」
あたしは身を起こして二人と顔を見合わせる。
二人は小さな祝福をあたしに送ってから、一度、真顔で見合わせて頷いた。何か意味がありそうだけど、双子の意志疎通なのだからあたしには不可侵だ。
それから二人はそっと顔を寄せ、あたしの耳元で優しく囁いた。
「奇跡を手に入れたら一度、見せて欲しいわ」
「湖のほとりで待ってるわね」
頷いてから身を引き、部屋を後にして飛び立つ。
目指すは奇跡を蓄えた回転木馬を手にしている、死に瀕した過去のあたしだ。死んでしまったら元も子もない、急がなければ。
期待に高まる胸をなだめながら、湖面に手をかざし過去のあたしを映し出す。
見ると泡沫たゆたう青の世界に力なく横たわっていて、寿命がほとんど残されていないようだった。けれど、その手には煌々と瞳を輝かせる回転木馬があった。
あたしはお面を被ってから、するりと湖面に身を滑らせ、過去のあたしの目の前に舞い降りる。
過去のあたしは回転木馬を抱きかかえたままうずくまり涙をこぼしていた。
ただ、不思議と嬉しそうな顔をしていた。
あたしに気づくと目を見張り、すがるように腕を伸ばして哀願してくる。
「お願い天使さん、あたし、もう一度だけみんなに会いたい。どうしてもみんなの想いに応えたいの。
だからこの回転木馬で奇跡を起こせるなら、あたしにあと少しだけ、時間をくださいっ!」
這いつくばって懇願する過去の自分を見て思う。
みんなに会いたい、なんて言わないでほしい。あたしは自分がもう一度俊介に会うために、必死に考え抜いてこの作戦を実行した。そして賭けに勝ったのだ。
奇跡を手にするのは、これから死にゆくあなたじゃない、不遇の天使となったあたしの権利だ。
あたしは今まで天使の仕事で利用してきた、柔和な笑顔と囁く声で過去のあたしに語りかける。
「それでは、回転木馬を目の前に置いて、手を離してもらえないかしら」
過去のあたしは不安そうな顔で、でも言われた通りに回転木馬を置いた。そっと手を離す。
――いまだ!
あたしはその瞬間を狙っていた。
間髪入れず翼を羽ばたかせ宙を舞う。回転木馬を掴み取ると、ひらりと身を翻し距離をとる。
「あっ――!」
過去のあたしは小さな悲鳴をあげたけれど構うもんか。ついに手に入れたこれは、純粋にあたしの成果だ。
「今までお疲れ様。これが欲しかったら、あなたも死後にあたしと同じ努力をしてね」
そしてあたしはお面を外し、横たわる過去のあたしに顔をお披露目した。
見た過去のあたしの表情は、死にゆく者の絶望で固まっていた。
素早くその場を飛び去る。背中から涙声の叫びが聞こえたけれど、あたしは振り返らなかった。
――これで奇跡はあたしのものだ!
奇跡とはどんなものなのか、あたしはまだ知らない。けれど手に入れるのにこれだけ苦労したんだ、絶大な力があるに違いない。
あらためて視線を手のひらに向けると、四体の馬の瞳は煌々と輝いていた。叶った願いが満たされている証拠だ。
その瞬間、とてつもなく密度の高い、巨大な塊がぶつかったような衝撃を受けた。
まるできらめく流星が衝突したような、容赦ない衝撃だった。
「う……うわああっ――ッ!」
吹き飛ばされるように湖から飛び出し、草原に転がる。
「い……一体何っ!?」
あたしを襲った高密度の塊は、物理的な衝撃ではない。心を砕くような、未体験のインパクトだった。
思い返せば、回転木馬を受け取ったがために起きた衝撃だ。
それはつまり――。
――あたしに繋いだ、みんなの想いだ。
その回転木馬が宿していた想いが、濁流となってあたしの心の中に流れ込んでくる。まるで終わりを知らない、雄大な自然の理のように、あたしの心を容赦なく押し流し続ける。その正体は、
風見俊介の――。
川端弥生の――。
松下倫太郎の――。
そして過去のあたし、鳥海綾の――。
――魂をかけて互いを想い合う、揺るぎない情愛の気持ちだった。
あたしは愕然としてその場に崩れる。
回転木馬に詰め込まれていた感情の嵐は、あたしの「人間として生きたい」という願望をかき乱し、激しく揺さぶった。
ずるい、どうして!
この四人の関係は、あたしが奇跡を手に入れるために作り上げた、かりそめの絆だ。
それなのに過去のあたしたちは、こんなにもかけがえのない宝物に昇華させていた。
煌めくようなみんなの関係こそ、本物の奇跡なんじゃないか。
あたしも、過去のあたしのように、そんな想いの中で消えていきたかった。
自分の残された時間を輝かせてくれる、そんな仲間がいる過去のあたしが羨ましい。
月光が照らし出す草原であたしは慟哭する。
その時再び知る気配を背後に感じた。同時に響く低い声は、いささか興奮気味だ。
「素晴らしい成果ですね。では、その回転木馬を私に渡してください」
ザラキエルは野心的な瞳で回転木馬を見据える。隣にはミリとメルが揃ってよそよそしい表情をしていた。
あたしはそんな彼らの雰囲気に、真実を察することができた。
本当は、ザラキエル自身が願いを溜めた状態の回転木馬――つまり『奇跡』を欲しがっていることを。
そしてミリとメルは、この概念の世界の住人となった天使たちに、奇跡に挑戦したくなるよう、それとなく誘いをかけていたことを。
さっき、二人が顔を見合わせて頷いていたのは、奇跡への到達をザラキエルに報告することを意味していたのだ。
「いやよ、奇跡を手にするのはあたしの権利よ! あなたに渡すつもりはないわ」
ザラキエルは、ふっと口元を緩め、あざ笑うかのように言う。
「残念ながら、それを手にしてもあなたは再び『鳥海綾』として皆の前に姿を見せることはできません。
なぜなら『死』とは、世界の秩序を保つため、奇跡ですら超越不可能な概念なのですから」
「なんですって!」
「彼女らに聞いたと思うのですが、この回転木馬は危険なものです。
奇跡の効能は、命を与えるものではなく、あらゆる天使を滅するために神が創りたもうた、『滅びの焔』です。
この奇跡を手にすることができれば、すべての天使は所有者に逆らうことができなくなります。運命という『概念』も思いのままになるのです。
もちろん、アヤの努力は私が評価しますよ。概念の世界を律するひとりになることができるなんて、素晴らしいとは思いませんか」
「そういうことだったのね……」
あたしは回転木馬を渡された真の目的が腑に落ちた。この世界の支配者になろうとしていたなんて、ザラキエルはやっぱり野心家だ。
そして、奇跡が一体どんなものなのか、ミリとメルは知っていながらあたしに言わなかったに違いない。
死を越えられないという事実を知っていれば、あたしが奇跡を手に入れようと躍起になることもないからだ。
でも、ミリとメルの泣きそうな顔は、ザラキエルの命令だと物語っていた。だから二人を恨む気にはなれない。
覚悟を決めてザラキエルに言い返す。
「それならあたし、別に生き返らなくてもいいや」
ザラキエルはさらに瞳を輝かせ、あたしの眼前に手を差し出す。
「それでは回転木馬を渡してもらえますよね」
あたしの心の中に炎が灯る。炎はこの世界に対する反抗心を巻き込んで激しく燃え上がる。
「それはどうでしょうね、だってこれ、あたしの宝物だもん」
あたしが回転木馬を背中に隠すと、ザラキエルの顔が激しく歪む。
「アヤ、君に制御できるはずもない強大な力が、それには秘められています。あなたが持つのは危険すぎます」
「たとえそれが滅びの道でも、あたしは構わない」
あたしは過去のあたしを裏切り、この奇跡を手にした。
だから、この回転木馬に込められた、みんなの想いは手放しちゃいけない。
あたしは自分のために生きているんじゃない。みんなのために生きていなくちゃいけないんだ。
そして、過去のあたしはもう、過去のあたしじゃない。
あたしが届かなかったその先の、「未来のあたし」になってもらうんだ!
「それじゃ今までありがとね、ミリ、メル」
立ち上がり二人に投げキッスをしてから大きく羽ばたく。
「待ちなさいっ!」
ザラキエルが追いつく前にブルーの湖面に身を滑り込ませる。過去に遡上すると、ザラキエルの気配は薄くなり消えた。これで少しは時間が稼げる。
あたしはいつ、何のために、自分が「
ミトコンドリアは母親から遺伝するはずなのに、お母さんの家系にあたし以外、この病気の人はいない。
だとすれば、この病気の発症原因はあたしが誕生する時に、不運にも偶然起きた遺伝子変異で矛盾しない。
そう、「不運」という「概念」で起きていることだ。
そして双子のミリとメルがエンジェル・シンドロームだったと考えれば、遺伝子変異が起きるタイミングは命を授かるその時に違いない。
あたしが目指すのは、お母さんの夢の中、あたしの命が誕生する、その『生の起源』――。
そしてたどり着いたブルーの世界で、眠りにたゆたうお母さんの姿を見つけた。すこぶる若く見えるのは、年齢の違い以上にあたしがかけた苦労のせいだろう。
目を凝らすと、お母さんの下腹部の体内に、小さく光るなにかがある。その輝きが何なのか、天使であるあたしは直感した。
――あたしの新しい命だ。
あたしは身を潜めて様子をうかがう。白妙の花弁のように純朴な命は、輝かしい未来を夢見るかのように瞬いている。
ばさり、と翼を羽ばたかせる音が耳に届いた。上空を見上げると、差し込む光を遮る大きな影が横切り、お母さんのそばに舞い降りる。
血で染め上げたような深紅の燕尾服、ぎらぎらと光沢を放つ銀白色の髪、闇夜のような黒いシルクハット。その正体はあたしの知る天使だった。
――ザラキエル。やっぱりそうだったのか。
ザラキエルは手のひらをあたしが宿るお母さんの腹部にかざす。
儀式のように小声で何かをつぶやくと、二人の間隙に淡い火花が散り始める。
――これがあたしの「不運」の原因だったのか。
ザラキエルは概念の世界で運命を律する存在だ。「不運」とは偶然がもたらす概念だけど、今あたしの目の前で繰り広げられているのは、天使の行為として視認できる、「不運」という概念そのものだ。
――ミトコンドリアの遺伝子を操っているに違いない。
回転木馬を握りしめ、ザラキエルの目の前に飛び出す。
「それ以上手を出さないで、ザラキエル」
「――下級天使が何故ここに?」
ザラキエルは訝しげにあたしを視認する。あたしのことを知らない時間軸のザラキエルだから当然だろう。構わずお母さんへの干渉を続けている。
ところが、その視線が回転木馬を捉えた時、瞳孔が大きく見開かれた。
「君はまさか、奇跡を手にすることができたのですか」
「そんなことはどうでもいいの、お母さんから離れなさい!」
ザラキエルは瞳をぎらつかせて口角を上げた。
「おお、あなたはこの胚芽の成長した姿なのですね。ならば、この胚芽はやはり天使になるべき存在です。奇跡を手に入れられるほどの天使となるのですから」
ますます放つ火花が激しくなる。なんとしても過去のあたしをエンジェル・シンドロームに仕立て上げるつもりだ。
それならもう、あたしの意思は決まったも同然だ。
ためらいなど、微塵もなかった。
相手がたとえ天使だろうと神だろうと、みんなの想いよりも大切なものなんて、この世界のどこにもないのだから。
あたしは回転木馬を手のひらに乗せ目前にかざす。
――お願い、回転木馬。あたしにあなたの溜めた奇跡をちょうだい!
すると、回転木馬はゆったりと動き出し、次第に加速してゆく。
ウォンウォンと低いハウリング音を立てながら熱を帯び、煌々と赤く輝きだす。
「何をするのですか、すぐさま発動を停止しなさい!
その奇跡とは、天使を滅ぼすことができる強大な力なのです!」
「知ってるわ、だからこうしてるのよ!」
回転木馬は地鳴りのように重々しい音を立て、急激に熱を上昇させてゆく。あたしの手のひらも燃えるような熱を発し、辺りにはむせかえるような熱風が吹き始めた。
焼けつくような痛みが走り腕が溶けだした。
吹き荒ぶ熱風の嵐はザラキエルに襲いかかり、翼が派手に炎をあげる。
「ぐっ……天使がなぜこんなことをするのだ!」
もう、あたし自身はどうなってもよかった。
みんなの想いに殉じるなら、それこそ本望だ。
あたしは天使なんだから、自己犠牲こそ美しい。
「この奇跡が、あなたという概念を超えたいって叫んでいるからよっ!」
ザラキエルは燃え上がる炎に悶え苦しみながら、お母さんから身を引いた。
「うぐぐっ……! 下級天使の分際でこの私に歯向かうとは……ッ!」
あたしの全身は熱で激しく損傷し、体のいたる部位が溶けてただれる。
――あたしの存在が消えていく。それでもこの奇跡は、みんなが繋いでくれたあたしへの贈り物だ。だから焼き尽くされたって本望だ。
腕が肘からまっぷたつに折れ、回転木馬が鈍い音をたてて落下した。それでも発する熱はとどまることを知らない。
あたしは自分の体を支えきれなくなり、力なく地面に崩れ落ちる。
視界がおぼつかなくなり、ついに魂の終焉を自覚した。
今、あたしは初めて、自分が生まれてきた意味がわかった気がする。
それは、心から大切だと思える人たちに、幸せな未来を贈るためだ。
もしもその願いが叶うなら、天使として生まれた運命もまんざらじゃない。
だから、あたしの願う奇跡が、どうか叶いますように――。
そして、あたしの夢を、未来のあたしに託します――。
ハレルヤ――。
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