最終章 ちいさな天使の、最後の賭け・2
生きとし生けるものには皆、肉体とともに魂が与えられる。魂は目には見えないものの、生物の特性を決定付ける根幹であり、肉体以上に個体差が激しい。時に異状な魂が生まれ、他の者に大きな危害を加えることさえある。けれど、ことが起きなければ、異状な魂を発見するのは難しい。
ザラキエルはそう、説明した。
だから天使となったあたしに課せられた使命は、過去に遡り、異状な魂を死へと誘導することだった。
「じゃあ、行ってくるね」
あたしはログハウスを後にし湖のほとりへと向かう。
着くと水際に立って両手をかざし、目的地を脳裏に描く。湖面はざわざわと波立ち水面に光の粒子が舞い踊る。
湖は人間が描く夢の世界に繋がっている。
「我々、いわゆる『運命』という概念は、物理的な制約を受けません。
幾重に折り重なる不可逆的な時間も、絶対的な距離に支配されている空間も越えていくことが可能なのです。
そしてあらゆる人間の夢に干渉することができるのです」
さざめく湖面に身を滑り込ませると、目前には泡沫が泳ぐ紺碧の世界が広がる。美しい光景のはずなのに、あたしがしていることは罪深い所業に感じられる。
あたしは目的の『魂』を発見した。湖底の岸壁にしがみつき、じりじりと壁を登っている。その先は光に満ちた世界になっていた。
この『魂』は後に、多くの人間を殺める猟奇犯の人格となった。その運命を律するため、あたしは『生の根源』の世界に忍び込んだのだ。
優雅に翼を羽ばたかせながら、『魂』の目前に舞い降りる。穏やかな笑みを浮かべてみせ、そっと手を差し伸べる。そして、天使にそぐう穏やかなウィスパーボイスで囁きかける。
「さあ、ワタシと一緒に、素敵な世界へ旅立ちましょう」
概念の世界では、言語の違いなど存在しない。『魂』は天啓を受けたかのように窪んだ双眸を輝かせる。
あたしは手を取り、魂を『生』へと続く岸壁から剥がし取る。魂はきっと、確実な『生』へ案内してもらえると期待しているのだろう。
でも、そうじゃない。
あたしは『魂』を掴んだ手をそっと開く。『魂』の表情は恐怖に歪み、舞う落ち葉のごとく闇の奥深くに吸い込まれてゆく。
――ああ、かわいそうだけどしょうがないか、自業自得だもん。
行く先は素敵な世界ではないけれど、これで凄惨な未来がひとつ、塗り替えられたことになる。
あたしは『魂』の姿が消えたのを確認してから、『生の根源』の世界に別れを告げる。
そんなふうにして多くの犠牲者を救ってきた。
けれど、あたしはなんの満足感も得られない。自分が幸せになれなかったのに、他人の幸せのために身を削り、そして対価が得られないなんて、なんて不公平なのだろう。
どうして天使には、自分の幸せを追い求める方法がないのだろうか。
あたしはログハウスのダイニングテーブルで頬杖をつき、口を尖らせて愚痴をこぼす。
たった今、三人分の仕事を片付けてきたところだ。
「ねぇミリ、あたしの仕事っていうか、天使の仕事って、つまり詐欺じゃん」
「うふふ、そういう見方もできるかもしれないですね」
ミリは上品な笑みを浮かべティーカップに紅茶を注いでいる。
「お疲れ様です、アヤは本当に魅力的ですよ。ザラキエル様がおっしゃるには、色のある天使ですものね」
テーブルの上にはクリスタル製の小皿があり、アイスボックスクッキーが盛られている。ひとつ手に取り口に運ぶと、口の中でさっくりと軽い音をたてクッキーが崩壊する。けれど優雅なひとときは胸の中で渦巻く矛盾をごまかしてくれるわけではない。
「そういえばメルはどこにいるの」
辺りを見回しても姿がない。二人が一緒にいないのは珍しいことだ。
「ただいまお仕事中ですよ、もうじき帰ってくると思います」
ああそうか、二人ともあたしと同じ役目を担っている天使なんだ。
「でもなんで二人とあたししか天使がいないの? 認知度高いんだから、もっとたくさんいそうなのに」
いくら犯罪者になる魂とはいえ、騙して地獄に突き落とすのだから心理的負担が大きい。
気づくとミリは手を止め、表情からは笑みが消えている。
「ザラキエル様と同格の天使は何人かいらっしゃるのですが、あなたみたいな天使は……」
濁した言葉に何かあるな、と思った時、家の扉が勢いよく開かれた。
そして、崩れるようにメルが飛び込んできた。
純白の翼は片方が大きく捻じ曲がり、血で紅に染まっている。
「メル、どうしたの!」
驚いて尋ねると、メルは苦悶の表情で床にうずくまったまま答える。
「説得できない魂が、反撃してきたの……」
その時あたしは初めて、この仕事が常に順風満帆に遂行できるものではないと認識した。ミリが事態を受容しているのがその証拠だ。
ミリは救急箱を持ち出してメルの翼を手当てし始めた。あたしも隣に腰を据え手伝う。
丁寧に血を拭き取り、傷口を消毒してゆく。概念の世界の天使でも、傷の処置は人間と同じようなことを行うらしい。
「ちゃんと手当てをすると回復するけれど、そうでないと翼は駄目になってしまうのよ」
痛みで顔を歪めるメルに気遣いながらも翼を整復し、
ミリとあたしはメルを支えてベッドにそっと寝かせる。
「でもその厄介な魂、どうやったら消滅させられるんだろう」
心配になり尋ねると、ミリとメルは同時に壁際の一点に視線を向けた。
そこには透明なアクリルケースが静置してある。
そしてその中には、手のひらサイズの、鈍い銀色に光るオブジェが飾られていた。
「いざという時は、あのオブジェが役立つのよ」
ミリがそういうので、あたしは近づいてまじまじとアクリルケースの中身を視線で探る。
土台の中央に立てられた傘からは四体の馬が吊るされている。回転木馬のオブジェのようだ。
「これって……何?」
あたしが尋ねると、ミリは回転木馬の能力について語り始めた。
「これは人間の願いを貯めることのできるオブジェ。これを渡された人間は、願いを叶えるため、一度だけ過去を塗り替えることができるの」
一度とはいえ、過去に戻れるなんて、人間だったら垂涎のアイテムだ。天使になったあたしにとっては過去への旅が日常茶飯事になってしまったけれど。
それからあたしはこのオブジェが人間の記憶を運び、想いを伝えていくものだと説明された。だから、使用した後のオブジェは、心から信頼できる人に渡す必要があるらしい。そして、叶えた願いを四つ貯めて再び手にすることができたら、奇跡を起こせるとのことだった。
『魂』に対して用いる魔法の武器ではなさそうに思えたけれど、続く一言であたしは腑に落ちた。
「でも、これはすごく危険なもの。純粋な魂でなければ受け付けないのよ。もしも異状な魂の者が手にすると、このオブジェは暴発して魂を粉々に砕いてしまうわ」
つまり、この回転木馬を「願いが叶えられるオブジェ」という殺し文句で目的の『魂』に渡せば、自動的にその『魂』を消滅させられる、ということだ。
受け取る相手によって正にも負にも作用する天使のアイテムか。なるほど理解できた。
「でも、願いを叶えるにしても、回転木馬を繋ぐ四人目の人が自分に渡さなければ失敗ってことよね。そうなるとほぼ無理じゃない?」
「ええ、わたしは成功したのを見たことがないわ。だから『奇跡』なのよ。失敗が確定した時点で最初にオブジェを受け取った人間の魂は消滅し、廃人になるの」
ミリは物憂げな表情で、しかも語尾が震えていた。
そしてあたしはミリの表情から、彼女がまだあたしに言っていない重要なことを察した。
「ミリはそうやってたくさんの魂と、同じだけたくさんの天使が消えていくのを見ていたんだね」
ミリははっとしてあたしの顔を正視する。横たわるメルもあたしが気づいたことに驚き目を見張っていた。
「失敗すると消滅するのは人間の魂だけじゃなくて、渡した天使も同じなんだね。
だって、『すごく危険なもの』ってあなたが言うんだから、天使にとっても危険なものなんでしょ。
それに、エンジェル・シンドロームの患者さんは世の中には結構いるはずなのに、この概念の世界の天使はあまりにも少ない気がしていたんだ」
ミリの潤んだ瞳は、あたしの推測が正しいことを肯定していた。
「……ごめんなさい、あなたを騙して」
その時、背後に今までなかった気配を感じた。この世界に来たばかりの時と同じ感覚だ。
振り向くとザラキエルがあたしを見下ろしている。
冷酷なようにも、野心家のようにも思える鋭い視線であたしに語りかける。
「この概念の世界を疑いの目で見るとは一味違いますね。さすが色彩を有する天使だけのことはあります。
気づかれた以上、残酷な使命をお願いするわけにもいきません」
そう言いながらも表情には期待が込められている。たぶん、過去にはわかっていながら了承した天使もいたのだろう。
「でもあたしがやらなければ、多くの人が死ぬんでしょう?」
「いや、この魂は人間を殺してはいないです。ただ……」
それから一息、間があって続ける。
「……アヤも女性として生きてきたのであれば、その行為を許せないと思うはずです」
「女性として、許せない……?」
あたしは不穏な空気を感じつつも、ザラキエルの真意がわからない。
けれど次に発せられた一言に、どうしても看過できないという気持ちが湧き起こった。
「魂の遺残に乗っ取られた人間の名は――ケイゴ・ナルミヤ、かつてあなたの同級生であった男です」
あたしの記憶には確かにその名前があった。女子の間でよくない噂のあった、高校時代の生徒会長だ。
「もしもあなたの同級生たちが彼に凌辱されていたとしたら、天使となったあなたは、はたしてその人間を見逃しますか?」
言い終わったザラキエルは、かすかに口角を上げ、あたしの返事を待った。
およそ決まっているであろう、あたしの魂と引き換えになる、その決意を。
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