最終章 ちいさな天使の、最後の賭け・1

 ――ここはどこだろう……。


 重く腫れた瞼を開くと、宵闇に沈む世界にあたしはいた。


 まだ乾かない涙の跡を拭って空を見上げると、瞬いて踊る星營せいえいと、それを見守るような更待月ふけまちづきが浮かんでいた。


 月の明かりを頼りに辺りを見渡すと、微風に揺れる草原で横たわっていることに気づいた。


 数歩先に、深く澄んだ湖面が広がっている。


 湖畔に生える葦には、俊介に縁日で買ってもらったお面が引っかかっていた。そっと拾いあげる。


 アルコールの匂いもしないし、心電図のモニター音も響いていない。


 久々の静寂だな、と思うと同時に、どっと後悔が沸き起こった。


 ――ああ、思い出した。あたしは結局、――


 立ち上がると淡く優しい月光が、あたしの影を浮き上がらせる。けれど大きな鳥のような、不自然な形をした影だった。


 同時に背中にやわらかな違和感を自覚した。背部に今までなかった知覚が存在している。あたしは背中に意識を集中し、力を込めた。


 風の抵抗を感じて、ばさり、と羽ばたくような音がした。振り向くとあたしの背後には純白の翼が広がっていた。それなのに手足は人間の姿形のままだ。


 自分がどうなってしまったか自覚した瞬間、どっと抗いがたい感情が湧き起こる。


 どうしてあたしがこんなことになってしまったのか。


 なんでも努力して真面目に生きていれば神様は微笑んでくれる、そう信じていたのに。


 世の中のすべてに裏切られた気がした。


 病気という死への行進を止める手立てはなく、俊介に想いを伝える機会は失われてしまった。


 そして、あたしは灰になった。


 生きていたかった。生きて未来のある、希望に満ちた人生を送りたかった。こんな翼なんか、ちっとも欲しくなかった。


 衝動的に背中の翼を掴み、力の限りむしり取る。今まで感じたことのない、裂ける痛みを自覚する。それでもあたしは自分の背中に宿った天使の翼しか、呪う相手がいなかった。


 その場にうずくまると、背後から諭すような低い声が聞こえた。


「おやめなさい、せっかく素敵な天使になれたのに」


 丁寧でありながらどこか威圧的でもあるその声に振り向くと、あたしを見下ろす男の姿があった。


 深紅の燕尾服をまとい、光沢を放つ銀白色の髪をし、黒いシルクハットを被っている。そして背中には大きな翼を携えていた。ゆうにあたしの二倍以上はある、そびえ立つような翼だ。


 男は口元に笑みを浮かべながらも鋭い視線であたしを捉え、風貌にそぐわないやわらかな口調で話しかけてきた。


「ようこそ、アヤ。お待ちしていました」


 男は胸に手を当て深々と腰を折り、紳士的な態度を見せた。歓迎しているようだけど、理由はわからないので、あたしは困惑して尋ねる。


「あなたは一体誰なの、それからここはどこなの」


 天国と呼ぶには鬱蒼としているし、他の天使の姿もない。辺りを見回していると、男は眉根を寄せてあたしの頭から足の先まで視線を沿わせた。


「ふむ……珍しいですね、この世界に招かれ天使になれたものは大抵、心が無垢に還るものです。


 ですが、アヤには削ぎ落とすことのできない色が染み付いていますね。その色への執着が、あなたの深層に隠れた人格をこの世界へ持ち込ませてしまったようです。


 もっとも、あなたの場合、人間であった時よりも今の方が人間らしいとも言えますが」


 あたしはその男の言葉の意味がよくわからない。


 ただ、心の奥底では、今まで抑えつけていた、世界の矛盾に対する反抗心があらわになっている。


「どういう意味なのよ、それにあたしの質問に答えてないんだけど」


 睨みつけ厳しい口調になるあたしに対して、その男は口角を上げてみせた。


「大変失礼いたしました、強気な性格は大歓迎です。


 私はザラキエル、死を司る天使です。あなたは私を手伝うために、招かれたのですよ。この、『概念』の世界に――」


「概念……?」


 あたしはまるで理解できず、頬を指先でちょいちょいと掻く。


「はい、私たちは実体を持たず、概念として存在しています。人間の辿る道筋の分岐点における、道標のようなものです。


 アヤ、あなたは人間として生を授かったその時に『天使の盟約』を受け、人間の運命を律する使命を請け負ったのです」


 大層な役割のように言われても、普通の人間として生きることが許されていなかったんだと、二度目の病名宣告をされた気持ちだ。


「……じゃあ、あたしはこれからどうすればいいの」


「それでは、アヤの役目について説明しましょう。紹介したい者がいますので、私について来てください」


 ザラキエルは大きな翼を携えた背中をあたしに向け、悠々と歩き出した。


 案内されたのは草原の中、孤独に佇む一軒の家だった。おとぎ話に出てきそうな可愛らしい木製のログハウスで、いくつか部屋があり、窓には淡いオレンジ色の明かりが灯っていた。誰かが住んでいるようだ。


 ザラキエルがノックをすると、扉は軋みながらひとりでにゆっくりと開く。翼をたたんで中に足を踏み入れたので、あたしも身を滑り込ませる。


 すると、スリッパの軽快な足音が響き、目の前に二人の女の子が姿を現した。


 背はあたしよりもいくぶん高いけれど、やっぱり小柄で幼く見える。しかも、今のあたしと同じように、背中には純白の翼を携えていた。


 どちらもふわくしゅの金髪に澄みきったスカイブルーの瞳を持っていて、一目で異国の少女だとわかった。瓜ふたつの姿をしているからきっと双生児だ。


 あたしとは対照的な、無邪気で晴れやかな表情で駆け寄ってくる。


「ザラキエル様、こんばんは」


「お待ちしておりました、お上がりください」


 あたしと似たウィスパーボイスで返事をした。


「久しぶりだね、ミリ、メル、その後の首尾はどうかね」


「おおむね対処できていますのでご安心ください……あら、後ろの子は……?」


 ザラキエルの翼に身を隠すあたしに気づいたようで、澄んだ瞳を大きくさせた。愛想がよくても相手は人間でない異質な存在だから、身を引いて様子をうかがっていた。


 そういえば、あたしもその異質な存在と同類なのかと思い、自分が恨めしくなる。


「ああ、つい先程、天使になることができた幸運な者です」


「不幸の間違いよ」


 つっけんどんに言い返すと、ミリとメルと呼ばれた子は不思議そうな顔をする。喜んで当然のはずなのになぜ、という疑問を抱いているのだろう。


 ザラキエルはあたしに視線を向け、諭すように言葉を重ねる。


「アヤ、天使になったのは世界が君を必要としているからです。誇らしいことなのですよ」


「死んだ人間に誇りなんか、あるわけないでしょ」


 口をついて出たのは、人間でいた時は言わなかったような、若干乱暴な反論だった。それでもザラキエルは優雅な笑みを崩すことはない。


「言葉遣いは丁寧にするよう心がけてください。せっかくの素敵な天使の声がもったいないですよ。


 それに、これから請け負う仕事を経験すれば、きっと誇らしいと思えますから」


「あたしの……仕事……?」


 天使の仕事とは何だろうか。


 すると、その言葉を聞いたミリとメルの表情が明るさを増す。二人で手のひらを合わせて喜悦を表現した。


「わぁ、お仲間が増えたんですね。とっても素敵なことですね、メル」


 ミリという名前の方が感嘆の声をあげた。もう一人の子、メルが続く。


「アヤというお名前なのですね。あなたが『魂の案内人』をなさるに見合う方だということは、その声を聞いたらすぐにわかりますわ」


「『魂の案内人』……?」


 不穏さを感じさせる言葉につい、ザラキエルは鋭い視線をあたしに向け小さく首を縦に振った。


「そう、アヤの仕事とは、、しかるべき人間を『安らかな死に導く』ことです」


 それは、天使が世界の秩序を保つのに必要な存在だということを意味していた。







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