Interlude #6

 瞼を開いて映った白い壁に気がついて俊介は我に返った。


 滴る涙を腕で拭い、夢のようで、けれど夢ではない、過ぎ去った一日に思いを馳せる。


「綾……」


 深いため息をついてから立ち上がり、のろのろと手中の回転木馬に視線を向ける。すると、四体すべての木馬の眼が、煌々とルビー色に輝いていた。


 その現象は、回転木馬の力で戻った過去で、二人の願いが叶ったことを意味している。


 倫太郎は俊介の背中を軽く叩き、顔を近づけて親しげにこういう。


「過去へ行ってきたんだな、風見……いや違う、俺はお前のことを『俊介』って呼んでいたな。


 ようやっとあの日、お前の様子がおかしかった理由がわかったよ」


「俊介くん、綾ちゃんに夢を見せてあげられたんだね」


「二人とも、今まで綾を気遣ってくれて本当にありがとう。他人行儀だけど感謝してるよ」


 俊介と二人の距離感は、過去に戻る前に比べると明らかに縮まっていた。


 そして記憶が混在しながらも、皆、起きた現象を理解できていた。


 ――綾、僕だけじゃない、みんな綾のことを大切に想っている。綾の魂はいつまでも僕たちの中で生きていくんだ。そして僕たちが綾にしてあげられることは、もう、ひとつしかない。


 俊介は回転木馬を握りしめ決意を固める。


「よし、これからみんなの想いを綾に伝えよう。一緒に来てくれ、弥生さん、それに倫太郎」


「おう、わかってるって」


「もちろんそのつもりよ」


 そして三人は足並みを揃え、綾の待つ病室へと向かう。



 五年前の過去で四人が会した翌日のことだった。


 放課後、俊介は弥生と綾とともに喫茶店へと向かった。弥生からの誘いだったので浮かれてついていった俊介だったが、向かう途中、弥生と綾の仲が親密なことに疑問を抱いた。


 聞けば喫茶店は二人の行きつけだという。そして俊介は自分の知らない、弥生と綾の間に築かれた友情関係を知ることになった。


 さらに倫太郎が訪れることを知らなかった俊介は、一足遅れて到着した倫太郎の姿を見て、不穏な空気を察した。弥生が俊介に近づいたのはハニートラップだったのではないかと疑ったぐらいだ。


 なんでこいつが来るんだと警戒する俊介に対して、弥生は風見くんがお願いしたんじゃないのと言い返し、俊介は大いに困惑した。


 そして本題はまず、弥生から切り出した。率直に倫太郎との過去を二人に告白し、それから復縁したことも明かした。俊介は期待が打ち砕かれたことに落胆し、倫太郎に敵意の視線を向ける。


 けれど回転木馬を受け取った倫太郎だけは綾の病気を知っていて、そのことが波乱を呼んだ。


 病気の彼女を放っておいて浮気とはひどい奴だな、という倫太郎の一部勘違いを含む一言がきっかけで、皆がエンジェル・シンドロームについて知ることになったのだ。逃げ場のない詰問に綾は観念した。


 綾は倫太郎が自身の病気を知っていたことに驚いたが、一方、倫太郎は回転木馬を渡した張本人の綾が何も覚えていないことに喫驚した。


 俊介は綾の病気を知った衝撃で魂が抜けたように放心していた。しかも自分が知らず、綾と接点のないはずの倫太郎だけが知っていたことも拍車をかけた。


 弥生も綾の病気のことを初めて知り、その場で号泣し、喫茶店は一時騒然となった。


 マスターは勘違いをしたようで、人生にはいろんな寄り道があるものさと的外れなアドバイスを四人に送り、甘酸っぱいストロベリーサイダーを一杯ずつサービスしてくれた。


 どうやら修羅場として扱われたようだった。


 複雑な反応が混じり合う喫茶店で、結局皆が決意したことは、綾と最後まで幸せな日常を築く努力をすることだった。


 以来、皆はなるたけ綾とともに過ごす時間を作り、一緒に出かけ、さまざま人生の楽しみを謳歌し、そしてともに泣いた。


 綾と俊介の、同日に迎える十八歳の誕生日も四人が会して祝った。


 俊介は綾の強い勧めで東京の大学に進学したけれど、たびたび地元に戻り、綾との時間を大切にしていた。二人とも一応、遠距離恋愛だと素直に認めていた。


 そして肌の輝きが増すにつれて衰弱してゆく綾を、俊介は見守り続けていた。



 皆が戻ってきた時、綾が眠りにつく病室はモニターのアラーム音が響いていた。


 綾の父と母は、ただ見守ることしかできずに焦燥していた。モニターの数値に度々、視線を送る。


 血圧は次第に低下し、脈も伸びていた。


 看護師がカンフル剤の投与量を増やし、医師が注意深く心電図の波形を確認している。予断を許さない状況なのは、誰もが一目で理解できた。


「すみません、綾のそばにいていいですか」


 回転木馬を手にした俊介が、遠慮しながらもはっきりとした口調で幸恵に尋ねる。


「うん、綾のためにもそうしてあげて」


「ありがとうございます」


 俊介はベッドサイドに腰を据え、綾の手のひらをそっと握りしめる。ほのかな命の熱が、まだ残されていた。


 弥生は医師と看護師に丁寧に腰を折ってから、倫太郎とともに俊介の脇にしゃがみ込んだ。


 俊介は眠りに沈む綾に語りかける。


「綾、ちゃんと僕と会えたよな。二人で思い出を作れたよな」


 倫太郎と弥生も俊介に続く。


「鳥海、待たせたな。お前が俺に渡した回転木馬は、ちゃんと皆の願いを溜めてきたぞ」


「綾ちゃん……私、綾ちゃんと一緒に過ごせてとっても楽しかった。綾ちゃんは私の大親友だよ」


 そして二人は俊介の手に自分たちの手を添えた。


「じゃあ、いいかな」


 俊介は前置きをしてから二人に視線を合わせ、回転木馬を目の前に掲げる。


「綾、僕たちの想いを受け取ってくれ」


 そう言ってから、俊介は回転木馬をそっと、綾の手のひらの中に収めた。


 皆が無言で綾の様子をうかがう。


 すると綾は意識がないはずなのに、一瞬、驚いたような表情を浮かべ身をこわばらせた。


 それから間があって、ふっと口元が緩んだ。


 綾は、確かに笑っていたのだ。


 それからぽろぽろと涙をこぼし始めた。


 より輝きを増していく肌に散る涙の雫は、この世のものとは思えないほどに美しく煌めいていた。


 それまでに見せていた後悔の涙ではない。満たされた笑顔にそぐう、純然たる輝きだった。


 涙をこぼしながら笑う綾の表情は、まるで天使の微笑みのように見えた。


「奇跡だ……綾、喜んでくれてるよ」


 俊介は生死の狭間で見せた綾の笑顔に胸を打たれ、それ以上の言葉を失う。


「本当だ、鳥海らしい笑顔だ」


 倫太郎も納得して首を小さく縦に振った。


「夢の中の綾ちゃんに、みんなの想いが通じたんだね」


 弥生は感極まって涙をこぼす。


 幸恵も目を潤ませながら、親しい友人たちに感謝の気持ちを示す。


「俊介くん、松下くん、川端さん、みんな本当に今までありがとう。綾はとっても幸せな子だったんだね」


 そして深々と頭を垂れる。


 すると、綾の手の中に収まっていた回転木馬が突然、ふっと消えた。


 皆、唖然としたその時だった。


 突然、心電図のアラームがけたたましい音で鳴り響く。モニターに目を向けると、ディスプレイに映し出される蛍光色の線は不規則なさざ波を描いている。


 即座に医師が声をあげる。


「心室細動だ、除細動器を」


「はい、チャージしました!」


 救命は不可能な疾患だと知りながら、医師は運命に抗おうとする。


「じゃあ君たち、その場所を空けてくれないか。すぐさま救命処置が必要な状況だ」


 けれど三人は立ち上がろうとはしない。俊介は医師の顔を見上げ震える声で言い返した。


「……もういいじゃないですか。綾はちゃんと願いを叶えたんです。だから最後まで、綺麗なままで逝かせてやりたいんです」


 両親は互いに顔を見合わせる。


「本当にそれでいいんですか?」


 医師は困惑して両親に目を向けるが、二人とも首を横には振らなかった。綾を大切にしてきた俊介の想いに反論できるものは誰もいなかったのだ。


 俊介は綾の頬を撫でながら、最後まで優しく話し続ける。


「綾は本当に綺麗だよ、僕の大切な天使だ……」


 皆が見守る中、綾は呼吸を弱めてゆく。


 不規則な心電図の波形も揺れを失い、平坦に近づいている。血圧はすでに測ることができなくなった。


 けれど消えてゆく命と対照的に眩い光彩を放つその姿は、まさに天使のようでもあった。


 看護師がモニター音を止めると、別れを惜しむ嗚咽だけが白い部屋を満たした。医師も黙って除細動器を持つ手を下ろした。


 そして、すう、と穏やかな一息を最後に、


 綾は、今までで一番眩く、美しく輝いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る