RE: 風見俊介・5
☆
僕たちは自宅の最寄り駅で電車を降りた。
紅色に染まりかける街並みは、僕たちがともに眺める最後の風景となる。
二人の手には、それぞれの回転木馬が握られている。ひとつしかないものが同時にふたつ存在することは奇妙だけど、時間跳躍しているのだから起こり得ることだ。
ただ、僕の回転木馬は二体の馬の瞳がルビー色に輝いている。
「じゃあ、そろそろ行かないとな」
「うん……」
別れの刻がひたひたと静かに、けれど確実に近づいてくる。次第に足取りは重くなり、口数が少なくなってゆく。
何か話さなければと思うけれど思考が空回りし、残された時間がこぼれ落ちていく。
それでも、繋いだ手だけは決して離さないでいる。
僕たちが向かっているのは、綾と待ち合わせをした自宅近くの公園だ。つまり松下が綾に声をかけ、二人が知り合うことになった場所でもある。
綾の手元にある回転木馬は松下の手に渡らなければならない。
もしも綾の持つ回転木馬を松下が受け取らなければ、僕の手元に回転木馬は存在しないことになるし、僕が過去に戻ることもなかった。そうすると現在の状況がいわゆるパラドックスとなってしまう。
渡せなかった場合のことを想像すると恐ろしくて身震いがする。この世界に存在しないはずの僕はどうなってしまうのだろうか。
「あたし、この日の記憶がなかったんだよね。一日中ごろ寝していたのかと思っていた」
「当然だよね、未来の綾が意識の主役だったんだから。でも、僕との一日が訪れる前は、僕に回転木馬を渡すことができなかったんだ」
「あー、それで松下くんと弥生さんを経由して俊介が受け取ったんだね。あたしが知らない今日一日があったなんて、なんか不思議な感じ」
「それまでのことは、僕が今持っている方の回転木馬を綾に渡したら、全部伝わると思うんだ」
でもそれは今ではない。僕は元の世界に戻ってから、みんなで綾に渡したいと思っている。
不思議な効力を持つ回転木馬をまじまじと見つめる。
「しっかし一体これ、何なんだろうなぁ……綾はどうしてこれを持っていたんだ?」
渡された記憶は綾からの分しかなかった。
「うーん、お面を被った天使の子、かな」
「天使……?」
回転木馬は手にした時からの記憶が蓄えられるようで、綾の記憶の最初に天使の姿があった。けれど僕にはその天使の目的も、正体が何なのかも想像がつかない。
そうして僕たちは公園に着いた。陽が沈むまではあと一時間程度だ、余裕はある。
僕はかつての一日と同じように、綾が松下に回転木馬を手渡す儀式を、こっそりと木蔭から見守るつもりだった。
けれど松下が待つはずのベンチに目を向けた時、僕は硬直した。
――いない、松下が。
全身の毛穴が嫌な汗を吹き出している。
「あれー? 松下くん、まだみたいだね」
「いや……そんなはずはない、だって……」
僕が受け取った回転木馬には松下の記憶が残っていた。それによると松下は、「この日、諦めずに待ち続けていて本当に良かった」という思いを抱いていたのだ。
おかしい、明らかにおかしい。
この一日の中で、以前は存在しなかった異物が運命に干渉しているはずだ。
理由はわからないが、とにかく松下の居所を突き止めなければならない。
「綾、松下の携帯番号わかるか?」
「教えてもらったけど……リレーのメンバーに選ばれてからだったよ」
二人で慌てて携帯電話を取り出し確認してみるが、どちらにも松下の連絡先は登録されていなかった。
「番号を覚えてたりはしないか」
「ええっ……当時は覚えていたかもしれないけど、もう忘れちゃったよぉ……」
無理もない、五年前のことだし、携帯電話を持っているのだからわざわざ記憶する必要はない。
「まずい……どうしよう……」
その時、綾がなにかひらめいたようで声をあげる。
「そうだ弥生さん! あの人なら知ってるはずだよ、昔恋人だったんだから」
そしてひらめきは連鎖する。その綾の一言で、僕はなぜ松下がこの場にいないのか、インスピレーションが湧いたのだ。
今朝、弥生さんからのデートの誘いを断るために口にした言葉を思い出す。
『君は本当は僕よりもずっと大切にしなくちゃいけない人がいるはずなんだ』
だから、もしも弥生さんが僕の言葉で決心したのなら、弥生さんは松下に声をかけている可能性がある。
つまり、弥生さんが松下の行動に干渉したかもしれないのだ。
僕はそう思い、今朝届いた着信履歴の番号に折り返しの電話をかけた。
悠久のように感じる秒の間を抜けて、弥生さんの声が僕に届く。
「もしもし、風見くん?」
朝の雰囲気とはまるで違った、静謐な声色だった。すぐさま用件を切り出す。
「弥生さん、大切なお願いがある。どうしても今すぐ松下に会わなければいけないんだ。だから松下の連絡先を教えてくれないか」
すると一息、間があった。僕と松下には接点がないから、懐疑的に思われているのかもしれないと、不安だけが過ぎる。
けれど弥生さんはやわらかな声で答えてくれた。その返事は僕が一番願っていたことで、まるで運命の歯車が回り始めた音色のようでもあった。
「私ね、今、倫太郎のそばにいるの」
☆
弥生さんが僕に伝えた場所は、隣駅からほど近い河川敷の広場だった。
着くと弥生さんは一人、土手の芝生に腰を下ろしていた。立てた膝に腕を乗せ、紅色に染まる空虚な広場の片隅に目を向けていた。
視線の先では松下が一人、竹刀を手に黙々と素振りをしていた。姿を確かめてほっと胸を撫で下ろす。
遠くて表情はよく見えないけれど、弥生さんがいることをわかっていながら何も切り出せずにいるように思えた。
綾は「行ってくるね」と言い残して土手を下りていく。
弥生さんに歩み寄り、隣に座り肩を並べる。
弥生さんは僕に小さく会釈してから、まるで滴る雨のように、心の中に溜めていた思いをこぼし始めた。
「……散々迷ったんだけど、勇気を出して連絡したんだ」
記憶を受け取った僕には、そういう弥生さんの気持ちが理解できた。
成宮のせいとはいえ、松下に別れを切り出したのは弥生さんの方だ。松下に今の想いを伝えあぐねているのだろう。
皆、さして器用な人間じゃないんだなと今更ながら思う。
「私ね、倫太郎のあんな愚直なところが素敵だなぁって思うの。おかしいかな?」
「ううん、弥生さんは勘がいいから、運命の人の匂いを嗅ぎ分けられるのかもね」
「そう、私って昔から勘がよくて。でも、私のことをよく知ってるみたいに言う風見くんって、不思議な人ね」
高校三年生の間だけだったけれど、弥生さんとは重ね重ね同じ時間を共有した仲だ。
「まあ、ね……でもきっと明日からはいつもの僕に戻ると思う」
弥生さんは不思議そうな表情を浮かべる。
眺めていると、綾が長く伸びた影を連れ立って松下に歩み寄っていく。松下は手を止め、綾になにか語りかけているようだった。
綾は松下に話しかけながら一歩、また一歩と近づいていく。伸びた影がひとつに混ざり、綾の手が松下の手と触れ合う。
どうやら回転木馬を渡すことができたようだ。
少し間があってから、松下は綾の頭に手を当て優しく撫でた。綾は照れたのか肩をすくめているように見えた。
「倫太郎に用事があったのは綾ちゃんなんだね。何してるのかなぁ」
二人の間に割って入った綾に不安を抱いたのだろう。ほのかに笑って答える。
「心配しないで、大切なバトンパスだよ。
――でもいっそのこと、そのまま松下に抱きしめられちゃえばいいのに」
僕はかつて松下の抱擁を受けた綾を目にして動揺したけれど、今では本心からそう思える。松下の優しさに感謝の念が湧いているぐらいだ。
それから綾は松下の手を取り、半ば強引にこちらへ連れてきた。不器用な二人に必要なきっかけは綾がこしらえてくれたようだ。
弥生さんも無言で立ち上がり、松下に歩み寄ってゆく。
二人は向き合って視線を重ねる。先に口を開いたのは弥生さんだった。
「倫太郎、ごめんね……別れてからやっとわかったんだ。
私、やっぱり倫太郎が大切で、いなくなって空っぽになった気持ちは、どう頑張っても埋めようがなかったの」
松下は僕と綾のお膳立てに戸惑っているようだったが、綾に促されてようやっと口を開いた。
「そうか……俺だって同じだ……」
弥生さんの表情に光が灯り瞳が潤み始める。もう、互いの気持ちは十分通じているのだろう。
僕は綾と顔を見合わせる。綾は可愛らしくウインクをしてみせたから、僕も瞼で頷き返した。
それから弥生さんにこう伝える。
「弥生さん、もしも生徒会長の成宮が悪事を働いたら、僕たちも味方になって協力するから、絶対にあいつに折れないでくれ」
すべてを見通している僕の言葉に弥生さんは瞠目した。
そしてさらにひとつ、大切なお願いを伝える。
「それから明日学校で会ったら、松下のことを僕と綾に紹介してほしいんだ。最初は警戒するかもしれないけどさ、僕たちはみんな、いい友達になれるはずなんだ」
言い終わってから自信満々に笑うと、弥生さんもつられて微笑んだ。
「わかったわ。綾ちゃんそっくりの夢の中の天使は、何かのお告げだったのかもね」
松下は弥生さんの言葉に即座に反応した。
「まじかよ、俺も鳥海に似た天使が夢に出てきたんだよ」
「うそっ、倫太郎も? 本当に?」
けれど綾もまた、驚いたようで声をあげた。
「あたしはお面をかぶった天使だったよ」
「「えっ、それってもしかして!」」
松下と弥生さんは二人揃って綾の顔を指差した。
「天使が顔を隠していたのは、見た目が鳥海と瓜ふたつだったからじゃないのか?」
「私もそう思うわ……でも私、キャラが違うから別人だと思うなぁ。綾ちゃんはあの天使と違って全然真面目だし」
「そうそう、ふざけた奴で、俺はあの手羽先女にからかわれたんだ。鳥海に似ているが中身はこんなにしおらしくない」
「あたしも絶対、あたしじゃないと思う!」
皆、どこか夢の中の天使に反感があるようだ。
「どういうことなんだよ、僕だけ仲間はずれかよ」
噂の天使にのけ者にされた気がして少々、気分が悪い。
本当は詳しく聞きたかったが、のんびり話をしている時間はない。気を取り直して松下に視線を送る。
「松下、じゃあ明日、学校で会おう」
右手を差し出すと、松下は派手に眉根を寄せて、僕を訝しげな視線で見つめる。仕方なく差し出した手を僕は遠慮なしに両手で包んで握りしめた。
奇妙な雰囲気を察した弥生さんが、松下の腕に抱きついてこういう。
「ほら、これ以上邪魔しちゃ悪いでしょ、私たちはおいとましましょ」
そう言って目の前で仰々しく手を振り、困惑する松下の腕を引き連れて去ってゆく。
「ありがとう弥生さん、じゃあまた明日」
何度も振り返る弥生さんに、僕らも手を振り返す。
二人はこの後、空白の時間を埋めるために想いを語り合うのだろう。
「よかったね、幸せになれそうで」
「ああ、これでめでたしめでたしだ」
二人の姿が土手の裏側へ消えた後、僕らは同時に西の空に視線を送った。
普段よりも大きく見える鮮やかな紅の太陽が、ゆらめきながら地平線に押し込まれているところだった。
「いよいよだね……」
綾がそっと呟いた。
「うん、いよいよだ」
ついに終わるのだ。この世界で重なる、僕と綾の時間が。
僕は黙って綾の肩に手を回し、そっと胸の中に招き寄せた。綾も体の力を緩め、僕に身を預ける。
何も言わずとも、互いの意思は通じ合っていた。
僕は綾の耳元で語りかける。
「綾はずっと、僕だけの天使だよ」
「あたしは、これからも俊介だけの天使だよ」
綾はそう言って僕の手の中の回転木馬に視線を向ける。
みんなを繋いで巡ってきたメリーゴーラウンドの終着駅のその先には、一体何が待っているのだろうか。
想像すらできないが、受け取る綾だけは知ることができるのだ。
「目を閉じて……くれないか」
早鐘を打つ胸をなだめながら、僕は綾に告げる。
僕の人生はまだ半分の半分しか経っていない。だけど僕の魂は燃え尽きるまで、綾は僕の中に存在し続ける。微笑み続けてくれるのだ。
だからこそ、綾と一緒にいた確かなものを、ひとつでも多く残したい。
「うん……お願いします」
綾はそっと瞼を閉じてつま先立ちをする。
「大好きだよ、俊介……」
僕も少しだけ屈んで顔を寄せる。
「大好きだよ、綾……」
僕たちの間の距離が、無を迎える。
唇を通して綾の宿した命の熱が伝わる。僕の想いが綾に伝わってゆく。
はじめてだけど、ごく自然なことのように感じられた。
今朝、僕は涙とは無縁の一日を送るつもりで綾を迎えた。
けれど、そんなこと、どうあがいたって守れるはずがない。
だって僕は、心から愛しいと思う人を失う悲しさを、悔しさを、喪失感を、全部、一欠片も残さず受け止めるつもりなのだから。
濁流のような感情が押し寄せ、僕を攫ってゆく。窒息するほどの苦しみが涙に形を変えて瞳からとめどなく溢れだす。
うっすらと目を開けると、揺らいだ視界の中、綾も僕と同じ顔をしていた。
僕はもう一度瞼を閉じて、口づけたまま、綾を強く抱きしめていた。
僕の想いの精一杯を込めて。
今までありがとう、僕は君といつまでも一緒だよ。
綾――。
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