RE: 風見俊介・4
☆
「だからね、俊介と一緒にいられたあたしはとっても幸せだったんだよ」
綾は瞳を潤ませながら締めくくった。
僕は言い返す言葉が思い浮かばなかった。なにも気づくことはなく、綾の想いを無下にし続けてきたのだから。
「ちゃんと俊介にお礼を言いたかったんだ」
「なんだよ、その……まるでお別れみたいな言い方は」
僕自身、どうしようもなく言葉が震えてしまう。綾は僕と最後の時間を過ごしたくてここにいることを、僕は知っているのだ。
けれど続いて綾が放った一言に驚愕した。
「うん、本当にありがとね、二十三年間。それから、あたしの人生の最後で会いに来てくれて」
――えっ!
心臓が派手に
「いててて……」
「俊介、大丈夫?」
「う、うん……まぁ物理的な衝撃の方はね」
綾は手を握る力を強め、いっそうに潤んだ瞳で僕の顔を正視していた。
綾は僕が時を越えてきた二十三歳の風見 俊介であることに気づいていた。僕が十七歳の自分を演じていることもお見通しだったのだ。
綾は口元に作り笑いを浮かべて、いたずらっぽく、へへっ、驚いたかなとおどけてみせる。
「あたしだって、俊介を驚かせるくらいのことしてみたかったんだ」
「どうやって気づいたんだ……」
「あー、だって俊介が自分から言ったじゃない」
「えっ、僕が?」
困惑する僕に向かって綾が丁寧に説明する。
「エンジェル・シンドロームの原因なんだけどさ、原因の遺伝子変異が特定できたのは、たぶん二年前くらいだったよね? 当時はまだわかってなかったはずよ」
僕は大いに面食らった。虹ヶ丘公園に向かう途中の電車の中で、確かにミトコンドリアの異常について熱弁した。綾の病気を知らないというアピールのつもりだったが、策士策に溺れるとはまさにこのことだ。
「あっちゃ~」
額を叩いて観念するしかなかった。
「じゃあ、『しおこんぶ』もあたしを試した、っていうことだよね?」
「う、うん、その通りでございます……」
さすが才女と謳われるだけのことはある。僕よりも綾の方が数枚、上手だ。
うろたえる僕とは対照的に、綾は爛々と瞳を輝かせる。
「でもそれってつまり、『回転木馬』が俊介に届いたっていうことなんだよね」
「うん、まあ、そうだな……松下と弥生さんが病室に来てくれてさ」
綾にしてみれば奇跡的なバトンパスだったのだろう。記憶の中で失敗したはずのリレーが何度も上書きされ、そしてついにゴールテープを切ることができたのを思い出す。
「すごい、あたしの最後の願いが届いていたんだ!」
霧のような小粒の雨はまだ公園に降り注いでいるけれど、空は明るさを取り戻してきた。雲の切れ間から差し込んだ光が花壇に色彩を取り戻させる。
「やっぱりこんなところでくすぶってちゃもったいない、花の命も人生も、全然長くなんてないんだから!」
綾は土管の中から飛び出すと、誰もいなくなった丘の頂に駆け上がり振り返った。
さらさらと降り注ぐ雨の中、綾の立つ場所だけ眩い光が差し込んでいて、濡れた綾の肌をひときわ輝かせていた。
綾は両手を高々と空に掲げ、天を仰いで叫ぶ。
「ちくしょー、運命は残酷だっ!」
囁くような声のはずなのに、空の彼方まで抜けていくような力強さがあった。
「でも、生きてるって、とってもすごい。素晴らしいよ!」
綾は泣いているのか笑っているのかわからない顔をして、咲き誇る花の中で身を翻して叫び続ける。
「雲の上では雨は降らないっ!
満天の夜空だって眺めたい放題!
怖いことも嫌なことも、ひとっつもない!」
雲の上とは天国のことを指しているのだろう。まるで天使になる運命に楯突いているように思えた。
差し込む光が鋭さを増して、綾を包む霧雨に透き通るような光彩を与える。
色のない、純粋に輝きだけを宿した霧の粒子が綾の背中にやわらかい輪郭を形作ってゆく。その光景に僕は目を疑った。
綾の背中に、翼のような幻影が見えたのだ。
僕は天使になりかけている綾に引き寄せられていく。綾は僕に向かって両手を大きく広げて、心から絞り出すように叫び続ける。
「それでも、この世界がいっちばん美しいっ、大好きだー!」
命が尽きる悲運を認めながらも、綾は力の限り笑っていた。
「なーんでだー? それはね――
俊介、きみがいるからだよ!」
天使の叫びに、僕は全身の麻酔がかけられたような感覚に陥る。
「俊介が、あたしの人生を眩しくしたんだよー!」
ああ、そうか、僕はちゃんと綾の人生に色彩を添えてあげることができていたんだ。
僕がそう思っていなくても、ただ同じ時間と空間を共有してきただけで、綾は幸せだと実感していてくれたんだ。それが綾にとっては、何よりも大切なことだったんだ。
僕の脚は自分の意志とは無関係に駆け出していた。
――綾……ッ!
たどり着いた丘の上の天使に両手を伸ばす。やわらかく包み込むように、見えない翼ごと抱きしめる。
冷たい雨の雫と、綾の生命の熱が混じりあって、僕に不思議な温度を与える。
空に溶けるような、囁きの声が胸の中で聞こえた。
「俊介は、あたしがいなくても、もう大丈夫だよね。昔より、ずっとしっかりしてるもん」
その言葉は、綾がいなくなっても、僕が前を向いて歩き出せるようにと願う、綾の気遣いに違いない。
綾は今度こそ本当にひとりになる僕に、去るための銀の橋を架けてくれたのだ。
そんな想いをたやすく肯定できるわけがない。でも、肯定しなくちゃいけない。これ以上、綾に未練や後悔を残してはいけないのだ。
「綾……僕だって綾と一緒にいられて幸せだった。綾と会えなくなってから、綾がどれだけ大切だったのか思い知らされたんだ。
でも、もう大丈夫だよ、僕はしっかりと生きていけるよ」
最後の一言は、嘘だ。一世一代の大嘘をついた。優しくて悲しい嘘だと、我ながら思う。けれど泣いてはいけない。もっと泣きたい綾だって、精一杯、笑っているのだから。
その時急に、辺りの光が密度を増してゆく。空に覆い被さっていた雲が流れてゆき、ぱああっと陽射しが花園一帯に降り注ぐ。眩しくて思わず目を細めると、抱きしめたままの綾が空を見上げ、驚いた顔をして呟く。
「ねえ……俊介、空を……見て……すごい」
「空……?」
綾はまるで信じられないものを見たかのように呆然としていた。
そして僕も何が起きたのかと思い、綾の視線を追って空を見上げる。
目にした光景に僕は息を飲んだ。
――嘘だ。夢物語だ。
綾と僕の頭上の天空は、一面が揺らめく光の帯で満たされていた。幾重にも折り重なり、紅から藍色まで、鮮やかなグラデーションを描いている。僕たちはいつの間にか、その光に包まれていたのだ。
「ねえ、これって……虹だよね」
「う、うん……きっとそうだ」
それ以上、声をあげることができなかった。
虹の中にいる時は、決してそのことに気づくことはできないはずなのに、僕たちは今、確かに虹の中にいるのだ。
重なり合う色は互いに溶け合い、無限の色彩を作り出している。
虹が七色だなんて誰が決めたのだろうか、と、僕は思った。
そこに色と色の境界などはないのだから。
突然、ああ、そういうことだったんだと、僕は腑に落ちた。
僕が綾と共に過ごした時間は、いうなれば虹のようなものだったのだ。
その中にいる時は認識することのできない、虹色の時間だった。
そして僕と綾は、ともに虹のパレットのひとつだったのだ。違った色の二人なのに、いつだって互いの色と溶け合っていたのだから。
僕は思わず綾を抱き上げた。僕の衝動に綾は驚きを顔に浮かべる。
「綾、僕だって綾のことが大好きだ。でも、この特別な関係を、ありきたりの言葉で片付けるなんてできっこなかった。
――だけどこの気持ちを伝えるのに一番近い言葉があるとすれば、それはきっと――『綾は僕の魂の一部』ってことなんだよ」
綾は瞠目して僕を見つめる。そしてほろりともらした。
「……俊介だって、ずっと昔からあたしの魂の一部だよ」
ああ、想いが共鳴する。綾も僕と同じだったんだ。
「そうだ、僕はちゃんと、綾のひとかけらだ!」
「あはは、ひとかけらなんかじゃない、あたしの中のいっぱいだ!」
綾を抱き上げ、子供を扱うように空中で回す。綾は翼を広げるように両手を伸ばし、僕に空の旅を委ねた。
「じゃあ、僕だって綾でいっぱいだ!」
そうだ、僕たちはいつでも溶け合っていたんだ。だから綾との別れは、自分の一部を失うことと同じなんだ。これから世界が終わるほどの絶望が訪れて、僕は必死に自分の気持ちと向き合うのだ。
だって、悲しみが深ければ深いほど、僕が抱く綾への情愛が確かなものだったと思えるのだから。
――綾、たとえ何があっても、君は僕の中から消えたりしないんだ。いつまでも僕と一緒だ。
――うん、あたしのこの魂は、ちゃんと俊介と生きている。いつまでも一緒だよ。
ようやっとわかった。僕たちはただ偶然、幼馴染の関係になったわけじゃない。
呼び合うように引き寄せられ、互いに気持ちを委ねあいながら、同じ時代を生きてきたんだ。
僕たちはそのことに今、気づいたのだ。
そして天空を満たしていた虹の色彩は、次第に色を失いながら、輝く空へと還っていった――
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