RE: 風見俊介・3


「ほら、ここなら雨に濡れないでしょ」


 綾と僕は広場に設置された土管の中で体育座りをし、小さくなっていた。


「まあ、ね……でも止むかなぁ」


「うん、しばらくすれば止むと思う」


 五年前の今日は雨に見舞われなかったから、丘陵地帯によくある通り雨なのだろう、そして綾も同じ認識をしているようだ。


「しっかし、子供用の隠れ通路ってのはこんなに狭いもんなんだな」


 綾はともかくとして、僕の場合は上半身をまっすぐにすると頭が天井にぶつかってしまう。折り畳んだ膝の上に頬を乗せて綾の様子をうかがう。


 綾は何かを言いたげで、でもまだ整理しきれないようで黙ったままでいた。


 弥生さんから回転木馬を受け取った時、流れ込んできた三人の想いに僕はうろたえた。間を置いて頭の中を整理してみると、綾の想いがくっきりとした輪郭を描いていることに気づいた。


 ――最後にもう一度だけ会って、ちゃんとありがとうって言いたかった。だけど、願いは叶わなかった。


 ずっと大好きだったよ、俊介――


 綾はあまりにも近しい存在で、だから僕は恋愛対象として見られるなんて思っていなかった。


 正確には、僕が綾を恋愛の相手として認めないことで、気兼ねのない関係でいられたのだ。


 僕たちの秩序は、そんなあやふやな定理の上に成り立っていた。いつまでも変わらないようで、本当はすこぶる頼りない、いつ壊れてもおかしくない、幼馴染の関係。


 そして僕は松下に抱きしめられる綾の中に、ついに「女性」を見てしまったのだ。


 真実は誤解でしかなかったのに、僕はその誤解によって、綾と二人で保ってきたはずの均衡を自ら崩してしまったのだ。


 そして、「ずっと大好きだったよ」という過去形の想いは、綾が僕に本心を伝えることと引き換えに、守り抜いてきた関係に終止符を打つことを意味しているように思えた。


 けれど幼い頃から慣れ親しんできた綾が、いつそんな感情を抱いたのか、僕にはまるで心当たりがない。


 僕が思案に暮れていると、綾は黙って僕に身を寄せてきた。そして、ふわっとした指先で僕の手のひらを包み込む。


 僕の胸はいまだかつて自覚したことのない、複雑な波形の鼓動を刻む。


「あったかいね。俊介の手って」


 しみじみと言う綾は、薄暗い土管の中だというのにはっきりわかるくらいに頬を色づかせていた。子供っぽく見えても、大人の女性の雰囲気があった。


「綾もね。あったかい血が通ってるよ」


 僕も綾の手のひらを握り返し、温度を忘れないよう心の中に焼きつける。


「へへぇ~、今日の俊介はなんだかやけに優しいねぇ」


「これもやる気スイッチが入ったからだろうな。人工知能が発動した」


 照れ隠しの冗談を口にしたけれど、綾と過ごす最後の一日に躊躇いなどもってのほかだ。


 綾は紅潮したまま僕に尋ねる。


「ねぇ、俊介にとってあたしはどんな子なのかなぁ。あたしはそれが知りたいの」


 嬉しいことでも傷つくことでも、この世界を去る前に知りたいと思うのは当然だろう。


 けれど、綾と僕の関係を適切に表現できる答えを、僕はいまだに見つけていない。


 僕が返答に窮していると、綾はわざとらしくぷーっと頬を膨らませる。


「あー、あたしのこと、普段全然考えてないなぁ」


「ちっ、違う、ただうまく言い表わせないんだ。――じゃあ綾にとっての僕はどうなんだよ」


「まったくもう。あたしにとっての俊介はね、ちゃんと決まってるの。


 ――あたしの憧れのヒーローだよ」


「憧れのヒーロー……?」


 綾の中での意外な立ち位置につい、ぽかんと口を開いてしまう。


「うん、いつかはちゃんと言おうと思っていたんだ。だから茶化さないでちゃんと聞いてね」


 そして綾はおもむろに過去の話をし始めた――



 俊介は覚えているかな? 


 俊介の家族と、あたしの家族で一緒に行ったあの時の夏祭り。小学校五年生の時だったと思う。


 祭りばやしが聞こえ、たくさんの人が行き交う中、あたしはみんなとはぐれてしまった。赤い金魚柄の浴衣は気に入っているけれど、急いで歩けないから、仕方なくはぐれたあたりの道路際に座り込んだ。


 露店で買ったあんず飴をちょびちょび食べながら、お父さん、お母さんが見つけてくれるのを待つ。見つけてもらえなかったらどうしようって、不安であんず飴が全然甘くない。


 すると俊介が駆け足で戻ってきてあたしを見つけてくれた。安心してつい、ぱっと笑顔になる。


「綾、ここだったか。みんな神社の参拝で並んでるよ~」


「よかったー、さすが俊介」


 そういってあたしは立ち上がり、俊介と一緒に神社へ向かう。


 途中には露店が並んでいる。焼きそば、綿菓子、射的ゲーム。


 子供が喜びそうなお面を売っている露店があって、そのひとつに目が惹かれた。


「マジカル☆プリセプティー」、看護師さんを目指すドジっ子が特殊能力で悪魔を退治しみんなを救う、人気アニメのヒロインだ。


 子供向けかと思いきやシビアな内容の話も多く、中高生にも人気が高い。つい、足を止めてしまう。


 ――あたしもそんな強い女の子になりたいなぁ。


 そう思っていると俊介はあっけらかんと尋ねる。


「あれ欲しいの?」


 年代的にはお面なんて卒業だけど、本心は欲しくてたまらない。


「ううん……別にいいよ」


 すると俊介は「そっか」といって、屋台のおじさんに話しかけた。


「それください」


 そして小銭入れをポケットから取り出し、百円玉を数えて渡した。


「ええっ、あたし欲しいなんて一言も……」


「いいのいいの、お年玉の残りだから。それに顔に書いてあるし」


 そういってにっと笑った。俊介はあたしの気持ちに必要以上に気づいてしまう。


「お兄ちゃん、可愛い妹には優しいねぇ~」と露店のおじさんに茶化され、あたしはにこにこと笑ってやり過ごす。


 ――あたしって、やっぱり俊介よりも子供に見えるんだよなぁ。


 はいお兄様からのプレゼント、と軽い一言を添えてお面を渡される。


「ありがとう……」


 嬉しさともやっとした気持ちを抱えて歩いていると、あたしのクラスの男の子たち三人に遭遇した。この子たちはちょっと意地悪な感じで、小柄なあたしのことをいつもからかってくる。どこにでもいる、女子にちょっかいを出す悪ガキの代表格だ。


「うわ、幼稚園児がいたよー」「ママとはぐれちゃったのかなぁ」「今日は彼氏つきかよー」


 別クラスの俊介は面識がないし、関わらせたくない相手だ。無視して通り過ぎようとすると、突然、抱きかかえていたお面を取り上げられた。


「ちょっと、何するのよ!」


「お面かよ、やっぱガキンチョだな。だから挨拶も知らねえのか。返してほしかったら取ってみな!」


 意地悪な同級生はお面を高々と掲げる。背の低いあたしは飛び跳ねても全然、届かない。


「お前、ちょっとばっかりテストの点がいいからって偉そうなんだよ」


「お前みたいにできるやつがいるから、俺が母ちゃんに怒られるんだよ」


 どうやらやっかみであたしに当たっているみたい。先日返されたテストの結果が悪くて怒られたところなのね。


「返してよ!」


 あたしが怒りながら届かないお面に手を伸ばしていると、俊介が前に立ちはだかり、その男の子のポケットに手を突っ込んだ。スリさながらの素早さで小銭入れを奪い取った。


「あっ、おめえ、何するんだよ! この泥棒が」


「どっちが泥棒だ、しかも女子に嫌がらせまでして」


 平然といじめっ子にやり返したのは、楽観的で正義感のある俊介ならではだ。でも相手は三人いる。後先を考えないところもあるから不安だ。


「こいつを返してほしけりゃ追いかけてこいよ」


 俊介は白い歯を見せて相手を挑発してから、軽い足取りで人混みをかいくぐり逃げていく。


「おいこら待て!」


 いじめっ子たちは慌てて俊介を追いかける。心配でたまらないあたしもその後をちょこちょこ歩きで追いかける。


 俊介は人混みから少し外れた、閑散とした公園にいた。常夜灯の薄明かりの下、奪い取った小銭入れをこれみよがしに掲げてみせる。


「返して欲しかったら捕まえてみな」


「なにおう、覚悟しろよ!」


 いじめっ子たちは怒り心頭の様相で、すぐさま俊介に飛びかかっていく。俊介は余裕の表情を見せていて、ぎりぎりまで引きつけてから身を翻し、公園の中を縦横無尽に駆け巡る。遊具の間を軽やかにすり抜け、いじめっ子たちの追随を許さない。


「お前らはあっちから回り込め」


「オーケー!」「あいあいさー!」


 相手は俊介を三人で挟み撃ちにする作戦に出た。多勢に無勢だから俊介は追い詰められ、逃げ場を失ってジャングルジムに駆け上っていく。


「はぁはぁ、これでお前もおしまいだ。覚悟しろよ」


 三人がジャングルジムの頂で身構える俊介にじりじりと迫ってゆく。けれど俊介はまるで動じる様子がない。


「袋叩きにしてやるからな」


 そう言って頂から身を乗り出す俊介を捕まえようとする。


 あたしは息を殺して逃げ場のなくなった俊介を見守る。


 三人の腕が毒蛇のように俊介の脚に絡みつこうとする、まさにその瞬間だった。


 俊介はジャングルジムの頂から高々と飛び立った。なんの迷いもなかった。


 俊介はまるで夜空を翔けるように、あたしの頭上を越えてゆく。


 ――わぁー!


 淡い朧月が、宵闇に舞う俊介の悪戯っぽい表情を映し出していた。空中で目が合う。俊介は確かに、あたしに微笑んでくれていた。


 その光景はスローモーションのように、あたしの胸の中にくっきりと焼きつけられた。


 俊介は、風だった。どんな嫌なことだって、軽やかに吹き飛ばしてくれる、あたしの風になってくれた。


 両腕を広げて華麗に着地した俊介は、まるでおとぎ話に出てくるピーターパンのようにも見えた。


 ドスンと鈍い音が耳に届いて我に返る。


 手を伸ばしたいじめっ子がバランスを崩して足を滑らせ、三人が揃ってジャングルジムから落下した音だった。落ちかけた誰かが他の二人を掴んだのだろう。


 三人は身をよじりながらひぃひぃと呻き、苦痛に顔を歪める。お面を持っていた手が離れた。あたしは怖くなり、少しだけ後ずさりをする。


 俊介はくるりと振り返り、落ちたお面を取り上げると、奪った小銭入れをほおり投げて返す。


「これに懲りたら女の子をいじめたりすんなよ」


 と、堂々と勝利宣言で締めくくった。


「俊介、でも怪我してたら放っておけないんじゃない」


 あたしがこわごわ尋ねると、俊介は笑いながら小声でこういう。


「復活する前に逃げちまおう。怪我してたって構うもんか、どうせあいつら自業自得なんだから」


 あたしの手を握って腕を引き、何事もなかったかのように人混みの中へと戻っていく。


 握られた手の温度に胸が熱くなって、いろんな感情がいっぺんに沸き起こる。


 自由気ままで、放っておいたらどこまでも飛んでいってしまいそうな俊介。羨ましくて、憧れてしまう。


 そして、あたしにちょっとだけ優しい。


 握られた手のひらが汗ばんでしまい、それすら恥ずかしく感じる。


 そうなんだ、あたしははっきりと気づいていた。その時、あたしの胸の中にはたくさんの甘酸っぱい果物が詰められたんだ。まるでフルーツバスケットみたいに色鮮やかな気持ちだ。


 ぼうっと熱くなる顔を隠したくて、お面をかぶってみせた。


「ほら、ちょうどぴったりだよ」


 あたしはこれ見よがしにふたつの穴から俊介の笑顔を覗く。


「ほんとだ綾、お面似合うな」


 本当に似合っているのかどうかは自信ないけれど、それでも俊介はちゃんと褒めてくれる男の子だ。


 淡いけれど、初恋だった。小さな種が大きな実をつける時が来るように、きっと育っていく、大切な気持ちなんだって思えた。


 その日から、あたしは俊介とずっと一緒にいたいって思うようになったんだ。


 それがたとえ、どんな関係であっても。


 一生、叶わない想いであったとしても――



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