RE: 風見俊介・2
☆
虹ヶ丘公園は電車で小一時間ほどの郊外にある、小高い丘陵に造られた公園だ。一面に芝桜の花壇があり、見頃を迎えるのはゴールデンウィーク前後となっている。
あまり知られていない、隠れスポットのひとつなのだ。
かつて中学生になりたての頃、思い切って遠出をしてみようと綾が言い出した。冒険心が刺激された僕は意気揚々と綾の提案に乗った。
場所は綾の強い推しで虹ヶ丘公園に決まり、当日を心待ちにしていた記憶がある。
けれど天候に恵まれず企画倒れになってしまったのだ。
綾と僕が記憶の引き出しに眠る虹ケ丘公園を指定したのは、つまり当時、出かけられなかったことをお互い悔やんでいたという証拠なのだ。
ローカル電車に揺られながら二人で並んで座り、たわいのない会話を繰り広げる。最初は妙に緊張していたのに、長い時間をともに過ごした相手だけに、かつてのような温和な空気に戻るのに時間はかからなかった。あたかも眠りから覚めたようでもある。
僕と顔を見合わせるたびに嬉しそうに笑顔を振りまく綾。しゃべる時は手ぶりを交えて一所懸命に説明するし、表情もころころと豊かに変化する。記憶に焼きついている綾と見た目も仕草も一致していた。今になってこんなに僕に懐いていたのかと思い、五年前の忖度のない自分を猛省する。
「ねえ、あたしたち三年生になったじゃない。受験勉強しなくちゃだけど、俊介って将来どっち方面に進もうと思ってるの?」
僕はあくまで高校三年生の風見俊介を演じてみせる。綾はその前提で僕に話しかけているのだから。ちなみに当時の僕の考えとして正しいことを答えるのだから、嘘ではない。
「あっ、ああ、将来ね。――この前さ、綾のミトコンドリアの講釈を受けていて、生物学が面白そうだと思ったんだよ。
だからあの後自分で勉強して、ミトコンドリアで起きる病気があるってことも知ったんだ。
DNAの塩基がひとつ、ええと――CがTだったかな、変異したせいでアミノ酸のプロリンがロイシンになっちゃうんでしょ?
それでミトコンドリアの寿命が極端に短くなって、しかも次第に自家蛍光を発するようになるんだってね」
あえて綾の病気を話題にして、綾がミトコンドリアの異常――エンジェル・シンドローム――だとはまったく知らない自分を演じてみせた。
綾は驚いたようで、くりっとした目をさらに丸くする。
「俊介、真面目に勉強してたんだ……めっちゃ想像つかないなぁ」
「僕だって綾に頼らず自己学習する時もあるってば。実はスイッチ入るとすごいんだぞ!」
「俊介のやる気スイッチ、って、それどこどこぉ~」
わざとらしく僕の背中を覗き込んで撫でながらくすぐってくる。
「ちょ、ちょっ……も……もっとやって!」
「変態!」
僕の背中を弄ったあと、頭頂部をこぶしで軽く叩く。
「はい、やる気スイッチなんてどこにでもありませんでした」
そこで僕は今、目の前にいる綾が本当に五年後の綾なのか、確かめる方法を思いついた。
「僕のやる気スイッチは人工知能仕様だからな。必要な時だけ自動で入るんだよ」
「あー、なるほど。だからテスト前しか勉強できないんだね」
「うるさい、この塩昆布がっ!」
「しっ……しおこんぶって、どういう意味よっ!」
綾はディスられたと思い、あひる口を尖らせて上目遣いで僕を睨む。その様子に確信した。
――やっぱりそうだ、間違いなく五年後の綾だ。
この「塩昆布」は、五年前の今からすればつい最近、僕が図書室で綾に言ったことだ。
賢明な綾のことだから、最近耳にした僕の褒め言葉だったら絶対に覚えているはずだ。
それなのに塩昆布の意味を忘れていたということは、当時よりだいぶ時間が経っている――つまり、この時代の綾でないことを色濃く物語っている。
「ほらこの前言ったじゃん。ちっちゃくても
綾は即座に表情が固まる。わずかに間があってから、慌てた様子で繕いつつこういう。
「あっ、そうそう。そうだったよね、あはは。塩昆布、鮭茶漬けにちょこっと乗せると出汁が出て美味しいんだよね~、あたし朝ごはんにそれやってみたんだよ」
綾とは長い付き合いだから、誤魔化しているのも手に取るようにわかる。確信すると同時に、僕は時を超えて死の淵から逢いに来てくれた綾が愛しくてたまらなくなる。
公衆の面前だというのに、その華奢な肩を抱きしめてあげたい、と情愛に駆られる。けれど不自然な振る舞いは避けなくてはいけない。
その時、電車のアナウンスが流れた。
「虹ヶ丘駅~、虹ヶ丘駅~、お降りのお客様は――」
僕はすかさず立ち上がって、綾に手を差し出す。
「着いたよ、行こう、綾」
綾は僕の手を取って立ち上がる。その時、僕は綾の耳元でこう、伝えた。
「今日一日、思いっきり楽しもうな!」
すると綾は目を細め、風が囁くような声で僕に答えた。
「はい、よろしくお願いします」
幸薄い、綺麗な笑顔に僕は改めて思う。
――僕は最後の一日を綾に捧げるために、今ここにいるんだ。
そして「回転木馬」をしまい込んだ鞄を、ぎゅっと抱き寄せた。
☆
虹ヶ丘公園は小高い丘の上にある見晴らしの良い公園だ。混雑しているかと思ったけれど、ゴールデンウィーク明けだったせいかか来場者はまばらだった。
石畳の階段を昇ってゆくと木造の平屋がある。フードコートとお土産ショップがひとつになっているようだ。こげ茶色の支柱は木が生きた年月を刻んだ証でもある模様が活かされている。
けれど年輪の数が今の綾の年齢よりもずっと多いことは、世界の不条理さを示しているようにも思えてならない。
建物を越えてゆくと目の前に広々とした丘陵が広がった。一面が芝桜の花壇で、細い散歩道でなだらかな流線型や円形に区分けされている。
「うわぁ――、すごぉ~い!」
綾は感嘆の第一声を発した。
「ねえ俊介、この世のものとは思えないくらい綺麗ね」
「ああ、確かにすごい、こんなにも鮮やかだなんて」
今年は春の到来が若干遅かったから、幸運なことに目前の光景は見頃を迎えていた。
芝桜たちはカラフルなパレットとなって、丘の上を鮮やかに染め上げていた。まばゆい太陽の光が花弁を輝かせる。
緋色、
「この季節に来れてよかったね、綾」
「うんっ!」
綾は大げさなくらいに勢いよく首を縦に振る。本心が滲みでていて、その気持ちは僕も共感できた。
なにせ二人とも五年前の世界を訪れ、巡り合うことができたのだから。
散歩道は甘い香りを乗せた春風に包まれている。
春色が織り重なる花の空間を、綾は軽やかなステップで先をゆく。
喜びを滲ませはしゃいだって構わない。病に伏している綾は、「回転木馬」の力で今、自分の足で世界を謳歌しているのだから。きらきらと輝く瞳は感動の証だろう。
それからしばらく公園内を散策したところで、綾は花壇の脇にしゃがみこむ。
慈しむように小さな花弁に指先で触れ、感触を確かめる。目を細めて芝桜に語りかける。
「この公園の花はみんな頑張って咲いている。えらいえらい」
僕も綾の隣に腰を据え、相槌のように返事する。
「みんな頑張って生きているんだよなぁ」
綾は思いつめたような間を置いてぽろりとこぼす。
「ねえ、人間ってさ、何で生きているのかなぁ」
春風に溶けるような、しっとりとした言葉は、綾の憂いを感じさせる。自分の運命を知っているから、そんな疑問を抱くのも当然なのだろう。
だから僕が伝えなくちゃいけないのは、哲学者の言葉ではなく、綾にとっての生きた意味を実感させてあげられる僕自身の言葉だ。
僕は綾と会わなくなってから、綾が僕にとってどんな存在だったのか、しばしば考えさせられた。
そしていつか再び会い、笑って話せるような関係に戻れたら、ちゃんと伝えようと思っていたことがある。
僕は心の中にあたためていた想いを綾に伝える。
「あのさ、こんなことを言うのも照れくさいんだけどさ、――僕は綾がいて応援してくれるから、いろんなことに前向きになれたし、自分が誰にでも優しくなれるような気がするんだ。
――もしも綾がいなかったらさ、自分の中の人間らしい部分が、今よりもずっと少なかったんじゃないかと思う」
僕が楽観的なのは綾のせいなのかもね、と責任転嫁する一言を最後に付け加える。
自分なりにまとめたつもりだったけれど、それでも綾が僕の隣にいてくれた意味は十分に言い表せていない。
綾は照れたように頭を掻きながらこう言い返した。
「そんな風に言ってくれちゃうと、まるであたしが人生をテキトー男に捧げちゃったみたいじゃん。
――そしたら仕返しだけどね、あたしだって俊介が大きな支えだったよ」
綾は僕の生きる意味の中に、しらじらしく割り込んできた。
「綾の役に立てていたなら光栄でございますなぁ。
じゃあ、せっかくのデートだし大奮発で褒めとくけどさ、綾はやっぱり可愛いよ。天使みたいだって言う友達もいるんだよ」
天使みたいな、というのは回転木馬を通じて流れ込んできた弥生さんの想いだ。
「天使かぁ……じゃああたし、ずっと俊介のことを見ていられるんだね」
そう言って綾は目を細めた。
散歩道を通り抜け最奥まで進むと、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。
そこにはこじんまりとした広場があり、ジャングルジムやブランコ、それに秘密の通路であるコンクリートの土管が並べられている。声は広場で遊ぶ子供たちから発せられていた。
「俊介、小さい頃はよく、こういうところで遊んだよね」
「うん、そういえばブランコって、いつから乗らなくなっちゃったんだろうな」
綾をブランコに座らせ、自分は立ちこぎで二人乗りをしたことを思い出す。
「そうねぇ……小学校五年生くらいかな」
互いに記憶の糸を辿り空を見上げると、さっきまで快晴だった空が
「あ……雲行き怪しいね」
僕がそう言うと風の温度が急に下がってきた。冷気と湿気を含む風だ。雨を連れてくるのだろう。
「傘持ってくるの忘れたな……」
早めに戻った方がいいのか。けれど二度と訪れることのない時間を終わらせたくはない。
迷っていると頬に冷たい感触があった。ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。
「あらら、降ってきちゃったね」
雨はみるみる勢いを増してきたので二人で木陰に逃げ込んだ。
辺りを見ていると花壇を散策していた人たちや公園で遊んでいる親子は足早に入口に戻ってゆく。フードコートとお土産ショップの建物があったからそこに避難するのだろう。
「これは強くなりそうだ。戻ろう」
僕がそう言って踵を返すと、不意にジャケットが引っ張られた。振り向くと綾が裾を握ったまま立ち止まっている。
「……こっち」
綾は誰もいなくなった広場を指差した。僕がなんでそっちに、と思い疑問符を浮かべると、綾はうつむいて頬を赤らめた。
「二人きりになりたかったから……大事な話しがあるの」
強さを増した雨は木々の隙間を通り抜けて僕らの頭上に降り注ぐ。
僕は自分の心臓が、雨音を打ち消してしまうほどの強い音で拍動するのを自覚していた。
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