RE: 風見俊介・1

 瞼を上げると、窓から伸びるまばゆい光が部屋の奥まで照らしていた。


 高校卒業後は上京して一人暮らしをしていたから、懐かしい部屋で目覚めたことで、回転木馬が発動したのだと確信できた。


 枕元の携帯電話はかつて使っていたものだったし、画面を確認すると日時は五月八日を示している。


 ――本当に戻ったんだ。五年前のこの日に。


 武者震いが起きたが、感激している暇はない。


 現在の時刻、6時29分。記憶が正しければ、弥生さんからの電話は6時30分にかかってきていたはずだ。


 そして時計の表示が動いた瞬間、携帯電話の着信音が鳴り響いた。まさに五年前と同じタイミングだ。


 僕は一度、深呼吸をしてから、意を決して着信のボタンに触れた。


「もしもし、風見くん……だよね?」


「あっ、はい、そうだけど……弥生さんだよね」


「わぁ、ちゃんと覚えていてくれたんだ。うん、川端弥生。ねえ聞いてよ聞いてよ」


 嬉々として話そうとする弥生さんには申し訳ないけれど、僕はすかさず会話を遮る。


「ちょっと待って。どうか僕の話を聞いてほしい」


 僕らしくない、神妙な雰囲気が醸し出された気がする。


「きっと弥生さんは、夢の中に綾が出てきて、僕をデートに誘うように言われたと思うんだけど、それって当たっているかな」


「えっ、ちょっ……それ……」


 少しだけ間があった。多分、絶句していたのだろう。しばらくして、ようやっと声が出たみたいだ。


「……驚いたなぁ、もう。なんで風見くんが私の夢のこと知っているの?」


「うん、詳しく説明する訳にはいかないんだけど、僕は弥生さんの夢の中に出てきた綾のお願いを聞き入れるわけにはいかないんだ。実はもっと大事な用事があってさ」


「大事な……用事……?」


 そこで少しだけ心の整理をした。どうか僕の言葉を受け入れてほしいと願いながら伝える。


「弥生さん、君は本当は僕よりもずっと大切にしなくちゃいけない人がいるはずなんだ」


 病院の待合室で弥生さんに言われたことを、僕もこの場で五年前の弥生さんに言い返す。


 返事を待つ携帯電話の向こうから、小さなため息が聞こえた。それから間があって、弥生さんはこんなふうにこぼした。


「風見くんと綾ちゃんって、よくわからないけど、二人とも不思議な人ね。それに今日の風見くんはなんだか大人っぽく感じるよ」


 弥生さんは他人の雰囲気を察する感覚が鋭いみたいだ。その推測は正解だ、図書館で会った時よりも五年、僕は大人になっているのだから。


「ありがとう、でも、の方が今の僕よりもきっと、いい男だと思うよ」


 僕はそれだけ伝え自分から電話を切った。かつての眩しい弥生さんに未練がないわけじゃない。けれど感傷に浸るために五年前に戻ってきた訳でもないからだ。


 気持ちの整理をつけ、出かける準備に取りかかる。


「おはよう、元気だった?」


 朝食をこしらえている母の背中に挨拶をすると、母は振り向いて微笑んだ。今よりもいくぶん目尻のしわが少ないし姿勢もしゃんとしている。やはり時間は流れているのだ。


「何よ、そんな久しぶりに会ったみたいな挨拶」


「ううん、何でもないんだ。――今日さ、ちょっと出かけてくるから」


「あ、そう、遅くなるの?」


「陽が沈んだら普通に帰ってくるよ」


 その頃には多分、この世界の僕に戻っているはずだ。


 僕は早々に着替え、母のこしらえた目玉焼きとウィンナーのソテーを急いで口に詰め込んだ。かつてのコーディネートと同じ服に着替え、部屋で綾からの電話を待つ。


 ――お願いだ、電話をかけてきてくれ、綾。


 携帯電話がお気に入りの音色を奏で始めた。カノンのパッヘルベル、綾専用の着信音だ。


 画面を見ると「綾」と書かれている。


 ――この電話の向こうにいるのは、未来から僕に逢いにきた綾のはずだ。


 僕は五年前、つまり今日、僕との最後の時間になるであろう綾の想いを知ることもなく無下にしてしまった。僕はこれから、その後悔の鎖を断ち切るのだ。


 息を整えてから電話に出る。冷静さを保とうとしても胸はいやおうなしに早鐘を打つ。


「もしもし、なんの用?」


 かつての僕がしていた、若干つっけんどんな返事をする。


『あっ、俊介? 本当に俊介?』


 久しぶりに耳にした囁くような声、間違いなく綾だ。やけに切羽詰まったような雰囲気で、事情を知った今では、僕に会うために必死なのだと察する。


「うん、携帯だから間違えないと思うけど。僕にも綾の名前がちゃんと通知されてるよ」


 僕はしらを切ったけれど、若干慎重な返事になった気がする。


『あっ、そうか、そうだよね。ははっ、よかったぁ~』


 綾は現実の僕だと確認できて安堵したようだ。綾独特の囁くような声に胸の奥が震える。


 綾も冷静さを保とうとしているのが読み取れる、かすかに語尾が震えた挨拶だった。


『ねえ、今日って時間ある?』


 なんと答えようか逡巡したけれど、結局、すぐさま返事をした。迷う時間すらもったいない。


「ああ、ちょうど暇なんだけどさ。天気がいいから、どこかへ出かけたいって思ってたんだ。もしよかったら一緒に――」


「うんっ、行くっ!」


 僕が言い終わるよりも早く、綾の返事が届いた。


 無邪気な綾らしい、心から嬉しいのだとわかる返事だった。



 綾と待ち合わせたのは駅に向かう途中にある住宅街の公園だった。


 幼い頃、綾や近所の友達と一緒に遊んだ公園であり、松下に綾が抱きしめられているのを目撃した場所でもある。


 二人の関係に衝撃を受けたのは、今日、弥生さんとデートをした帰りの夕暮れ時ということになる。


 僕はその時の光景に動揺し、綾と松下に対して誤解を生じたのだけど、回転木馬によって事情を知らされた今となっては二人に申し訳ないという気持ちしかない。


 木々に囲まれた遊歩道に立ち綾の到着を待つ。


 頭上を見上げると、みずみずしい若葉を湛えたポプラ並木に春の日差しが降り注いでいる。そよ風に揺れる青緑の葉の隙間から差し込む光線が遊歩道に眩い斑状の模様を描いていた。


 光の抜け道を小走りしながら駆け寄ってくる女の子の姿に気づいた。


 ――綾だ、本物の綾だ。


 僕の胸はどうしようもなく震える。長い間ずっとそばに寄り添っていた、僕の記憶にある綾と寸分違わない姿だった。


 けれどそのいきいきとした雰囲気に、五年後の死の淵にいる綾だとは信じられなかった。


「お待たせ俊介、いい天気で良かったね~」


 目の前で足を止めて僕を見上げる綾は、日常のどこにでもありそうな笑顔を浮かべていた。くりっとした澄んだ瞳は生命力にあふれている。そして同時に、潤んでいるようにも見えた。


 ――本当に時を超えてきた綾なのだろうか。


 病気の翳りを微塵も感じさせない、屈託のない笑顔に僕は疑問を抱く。


 けれど露骨に未来の、それも死に際の綾なのかと尋ねるわけにもいかない。


 僕はあくまで未来を知ることのない、十七歳の風見俊介として、涙とは無縁の一日を送ろうと心に決めている。


 綾だって気心知れた遠慮のいらない、かつての関係を望んでいるはずなのだから。


 だから、綾の持つ回転木馬は松下に渡さなければいけないけれど、事情を話すのは今日一日を心置きなく過ごした後が良いだろう。


「当然、お天道様はいつも僕の味方だからね」


「俊介は誰が見たってあっぱれ晴男だもん」


「ああ、僕は能天気な男だって自負あるんだぞ、言われる前に認めてやる。


 ――ところで今日はどこ行こうか」


「ええっ、全然考えてないんだ。


 ――俊介らしいけどね、その行き当たりばったりな感じ」


 僕の性格の適当さがなせる技だと綾は思っているらしい。本当は時間跳躍の驚きで今日の計画まで頭が回らなかったし、さらに綾に会えるのかという期待と不安でいっぱいだった訳だし。


「いや、考えてないわけじゃないよ。――ただ……」


「ただ……何?」


「――もしも二人、『せーの』で行きたいところを言って、一致したらそこがいいかなぁと思って」


「行きたいところかぁ……そうねぇ、あたしもあるっていえばあるんだよなぁ……」


 綾はしらじらしくあごに指を添え、空を見上げて考えるふりをした。


 そういう時、たいてい綾の意思は固まっている。


「じゃあ、『せーの』で言ってみようか」


「うん、せーのっ!」


「「虹ヶ丘公園!」」


 声が揃った僕たちは、お互いの顔を見合わせて驚き、そして吹き出した。



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