Interlude #5

 待合室の自動販売機からこぼれる灯りが床にうずくまる弥生の背を照らしていた。その傍らには回転木馬が転がっている。


 倫太郎は弥生が回転木馬を起動させてから新しい記憶が上書きされ、過去が修正されたことを自覚した。しかし経緯を理解していたために、古い記憶と新しい記憶は明確に区別することができた。


 だが、生じた変化はそれだけではなかった。弥生の外観がまるで違っていたのだ。倫太郎は瞠目する。


「弥生……気づいているか? 自分の姿が変わっていることに」


「え……? これって……」


 弥生は宵闇を背にした窓ガラスに映った自身の姿に吃驚した。髪の色は高校時代と変わらない栗色に戻っていて、虎柄のコートではなくパステルカラーのパーカーを羽織っていた。薄化粧の肌は艶やかで健康的だ。


 記憶を辿ると、苦界の生き地獄は夢だったかのように薄れていて、現在はデザイナーの卵としてアパレル業界を駆け回る慌ただしい日々を送っていた。


 倫太郎と目を合わせ、信じられないといった顔をする。


「ねぇ、倫太郎……私って……」


「ああ、今までの悪夢はもう、ただの夢になったみたいだ」


 倫太郎の一言に弥生は事態を理解し、うち震えて涙をこぼした。


「弥生、お前には我慢ばっかりさせて、本当にすまなかった」


「ううん、友達を信じて、みんなで頑張ればなんでも乗り越えられたはずなのにね……」


 倫太郎はうずくまる弥生をそっと抱きしめ、優しく背中を撫でた。


 弥生は傍らに転がる回転木馬を拾い上げる。過去を映し出す光は消えてなくなっていたが、ふと、回転木馬が異変をきたしていることに気付いた。


「ねぇ、倫太郎……回転木馬の馬って、最初からこうだったっけ」


 そう言って弥生は馬の目を指差す。すると四体のうち、二体の馬の瞳が煌々とルビー色に輝いていたのだ。


「こっ……これは……っ!」


 倫太郎はその光が何を意味しているのか察しがついたのだ。


 ――鳥海は、この回転木馬は叶った願いを溜めると言っていた。俺の願いは弥生を救うことであり、弥生の願いは生き地獄の過去を塗り替えることだった。願いは他人の手によって叶えられたとしても有効だとすると……


「弥生、奇跡の芽はまだ摘まれていなかった!」


「ええっ、どういうことなの?」


 弥生が腑に落ちない表情をしたその時、当直着姿の医師が早足で目の前を通り過ぎていった。


 続いて看護師が救急カートを押して後を追う。妙にせわしない雰囲気だ。


 倫太郎と弥生に気づいた看護師は、通り過ぎる際に足を止め声をかけてきた。


「鳥海さんのお見舞いの方ですね、今ちょっと……先生が診ています」


 言葉を濁したことは、事態が悪化していることを物語っている。


 倫太郎はすっくと立ち上がり、弥生に手を差し出す。


「弥生、一緒に鳥海と風見の元に行こう」


「う、うん……でも……」


「お前は生まれ変わったんだ。鳥海だって会いたがっている。顔ぐらい見せてやれ」


「……そうね、お礼も言いたいし」


 意識のない相手にそういうのは、綾に対する二人の誠意に他ならない。二人は足早に病室へと向かった。




 薄明かりの中、綾は満ちた月の光のように輝いていた。けれど、生命徴候である血圧は低下し、脈拍は微弱になっている。


 人生という旅の終焉が間近に迫っているのは誰の目からも明らかだった。空気はなおさら重く、不条理な圧迫感を生じている。


 部屋には俊介と医療スタッフの他、綾の両親の姿もあった。二人は返事のできない綾にひたすら呼びかけている。


「綾、お父さんも来たぞ、頑張れ!」


「お母さん、ちゃんとここにいるからね」


 医師と看護師はこの後に発生する、致死性の不整脈に備えて救命処置の準備を整えている。除細動器とカンフル剤だ。この病気に限っては状態悪化時の救命例はなく、無意味な処置であるが、若い命が失われるのを看過することはできないのだ。


 綾の父は持参した紙袋をおもむろに病室の円卓の上に置いた。袋に手を差し入れ、中の荷物を取り出す。幸恵も視線を向けるが、それが何なのかは承知している。


 袋から姿を見せたのは、一枚のプラスチック製のお面だった。両目の部分が丸くくり抜かれた、笑顔の眩しい女の子だ。


 幸恵はしみじみとそのお面を眺め、俊介に語りかける。


「ねぇ、俊介くん、これ覚えてる?」


 病室の隅で項垂れている俊介は、弥生が五年前に跳躍していたことを知るはずがない。だから突然、過去の記憶が塗り変えられて混乱していた。


 俊介は呼ばれてのっそりと顔を上げる。


「小学生の頃、俊介くんから貰ったのよ。今でも宝物なんだって」


「僕が……?」


 俊介がおぼろな記憶の糸を手繰り寄せると、それは確かに夏祭りで綾に買ってあげたお面だった。


「え……と、マジカル……プリなんとかいうやつですよね。でも、こんな子供っぽいもの、どうして……」


 すると幸恵は眠る綾の顔の隣にお面を置き、目を伏せてこういった。


「一緒に焼いて、ってお願いされたの……大切な思い出なんですって」


 俊介はなぜそこまで思い入れがあるのか記憶に定かではなく困惑する。


 すると俊介の側に戻ってきた弥生がそっと歩み寄り、身をかがめて視線の高さを合わせた。


 弥生の外観の変化に瞠目する俊介に向かって、弥生はそっと伝える。


「風見くん、よく聞いて。もし風見くんが綾ちゃんに会って、最後の思い出作りをできるとしたら、そうする?」


「……え? 弥生さん……それって一体……」


 俊介は状況が理解出来ておらず、思考がついていかないようだった。


「もし綾ちゃんに会いたいのなら、今すぐついてきてほしいの」


 弥生は手を掴んで俊介を立ち上がらせる。


「弥生さん、綾に会えるって……」


「うん、でも説明するより体験する方が早いかな」


 そして綾の両親に一礼をしてから部屋を後にし、俊介と先ほどまでいた待合室へと向かう。


 夜はとっぷりと更け、待合室には誰もいなかった。倫太郎も二人の後を追って待合室に立ち入る。


「なんでお前が来るんだよ……」


 俊介はいまだ倫太郎を不審の目で見ていたが、一方の倫太郎は真剣な表情を崩さない。


 弥生は回転木馬を鞄から取り出し、俊介の目の前に掲げてみせる。


「あれ、これはさっき松下が持ってたやつだよな」


 俊介は疑問符を頭に浮かべる。自分は手にし得なかった回転木馬は、弥生の手の中ではいたって静穏なのだ。


「うん、私が引き継いだから、次には風見くんに渡したいと思うの。だからちゃんと私たち想いを受け止めてね」


「みんなの……想い……?」


 俊介は眉をひそめ、ますます困惑した顔だ。


「それでね、綾ちゃんと最後の一日を過ごしてあげて。その時には、今まで風見くんが思っていたこと、ちゃんと全部伝えてあげるんだよ。必ず、ね」


 そして弥生は俊介の手を優しく取り、手のひらの上に回転木馬を乗せた。


 俊介はおっかなびっくり受け取ったが、弥生のいう通り、回転木馬は俊介の手の中におとなしく収まる。無反応という反応は、弥生の俊介に対する信頼の証でもあった。


「本当だ、今度は大丈夫だ……」


 その瞬間、俊介の心の中には皆の想いを乗せた記憶が一塊となって崩落してきた。荒波にさらわれるような感覚に思わず声がもれる。


「――ああっ!」


 倫太郎が運命に悲観する綾を支えていたこと、成宮に恐喝の濡れ衣を着せられて絶望していたこと。


 弥生が皆を大切に思い自ら成宮の犠牲になったこと、そのために一緒に卒業を迎えられなかったこと。


 そして綾が抱いていた、俊介への想いと葛藤。


 すべての想いはあまりにも高い密度で、さまざまな感情を凝縮していた。


 皆の痛みが、苦しみが、そして優しさが俊輔の心の臓を容赦なく突き刺してくる。


 俊介はひどく狼狽し、うち震えてその場にくずおれる。


「うっ……ううっ……僕はっ、僕は――ッ!」


 俊介は皆の苦悩を代弁するかのように、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた。そして同時に激しい呵責の念に駆られ、床にひたいを打ち付ける。何度も鈍い音が待合室の床に響く。


 自身を断罪する俊介は喉から呻き声を振り絞る。


「松下……ッ! どうか誤解していた僕を許してくれっ! 真実を何も知らないでお前を非難したことは僕の大罪だっ! 僕は今、自分の心臓をえぐり出して、お前に捧げたいくらいだ……ッ!」


 けれど伏した俊介の頭上からは優しい声が降り注いだ。


「気にするな、理解してもらえればそれで十分だ。ただ、お前はこれからしなくちゃいけないことがある。お前にしかできないことだ。わかるよな?」


「僕だけが……できること……?」


 弥生は膝を折って俊介の顔をのぞき込み、そっと想いを添える。


「風見くん、私からもお願い。――綾ちゃんに最後の夢を見せてあげて」


 俊介は黙していたが、荒ぶる呼吸は次第に落ち着きを取り戻してくる。記憶と情報が脳内で整理されたようだった。


 それから俊介は、覚悟を決めたようにゆっくりと立ち上がる。


「そうか……綾は五年前の世界で僕を待っていたのか。そしてこれを渡せず、松下に……」


 握りしめた回転木馬に視線を移す。真実を認識した俊介にはもう、迷いはなかった。懐かしそうな目をして弥生に語りかける。


「弥生さん、あの日をやり直したら、君との楽しかったデートは幻になっちゃうね……まさに幻のプリンだけど……でも、許してくれるかな」


「当り前じゃないの。私のことは全然、気にしなくていいよ。だって、風見くんが本当に大事にしなくちゃいけない人は……もう自分でもわかっているでしょ?」


「ありがとう、弥生さん。そう言ってくれて」


 そこで倫太郎が俊介の背中を叩いて急かす。俊介はよろけて一歩、前へ踏み出した。


「風見、残り時間がほとんどない」


「言わなくてもわかってるよ。やり方はさっき松下のを見て大体わかった」


 そして俊介は腕を伸ばし、回転木馬を掲げた。


 ――頼むぞ、回転木馬。僕が綾にしてあげられなかったことを、せめて今、叶えさせてくれ。


 四体の馬が回転し始め、ハウリング音を鳴らしながら加速してゆく。過去を描いた光彩が頭上で舞い踊る。


「確かに僕の過去だ……」


 俊介は驚きで口を開いたが、すぐさま気を取り直す。目を皿にして映像を探ると、五年前の五月八日を示す一枚の画像を特定できた。それは弥生と二人でプリンを食べている映像だった。


 ――今、会いにいくから待っていてくれ、綾。


 俊介は目的の画像へと手を差し出した。


 まわる、まわる、回転木馬。


 ――世界のことわりに縛られた運命を映し出しながら。


 まわれ、まわれ、回転木馬。


 ――あの日の、あの瞬間から、後悔の鎖に繋がれたままでいる、


 この僕を――。



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