RE: 川端弥生・1

 ――信じられない。でも私が今、存在しているのは確かに五年前の世界だ。


 倫太郎のいうことは本当だった。彼は紛れもなく時を超えていた。


 私の目の前のスタートラインには、口元を引き結び緊張した面持ちの綾ちゃんが立っている。あの日の体育祭が、再び目の前で展開されていた。


 ――頑張って、倫太郎に繋げて。


 私が心の声で語りかけると、綾ちゃんは私と目を合わせ小さく頷いた。懐かしい、生気にあふれた綾ちゃんの姿にきゅっと胸が苦しくなる。


「よーい!」


 綾ちゃんはスタートの構えを取った。


 ――パァン!


 号砲が空高く鳴り響くと同時に六人のランナーがスタートする。綾ちゃんは押しのけられるように後手に回ったけれど、引き離されまいと必死に食らいついている。


 練習で見た時よりもだいぶスピードが上がっていた。綾ちゃんはきっと、足を引っ張らないようにと頑張って練習していたはず。綾ちゃんはいつだって自分の精一杯で頑張る子だから。


 綾ちゃんがスタートした後のテイクオーバーゾーンで準備を整える。


 入念に準備運動をしたし、アンダーハンドパスのイメージを何度も思い浮かべた。それにタイトなスポーツタイプのブラを着用して、なるべく胸が揺れないようにした。スピードロスを最小限に抑えるためだ。


 よし、今回は準備は万端。


 その時、女子生徒たちから黄色い声援が沸き起こった。成宮がバトンを受け取ったのだ。


 トラックの向こう側で成宮が走り出した数秒後、綾ちゃんもバトンを倫太郎に繋いだ。よろけるようにトラックを出て座り込む。


 ――綾ちゃん、よく頑張ったね。あとは任せて。


 倫太郎は力強くぐんぐんと加速し、ひとり、またひとりと追い抜いてゆく。そして成宮に追いつき、隣に並んだ。


 突然、成宮がバランスを崩し、ずるりと足を滑らせる。その足は倫太郎の進行方向を塞ぎ、二人の脚が交錯した。


 次の瞬間、派手に砂塵が舞い、成宮の体が宙に浮き上がる。それから背中を地面に打ち付ける鈍い音と、同時に「ぎゃっ」と短い呻き声が聞こえた。


 転倒したのは成宮の方だった。周りの女子たちから悲鳴が飛び交う。


 ――よしっ、さすが倫太郎、第一関門は突破だ。


 視線を鋭くした倫太郎が迫ってくる。今まで倫太郎の戦う姿を見てきたせいか、呼吸のリズムが手に取るようにわかる。私も自分の呼吸を倫太郎のリズムに乗せてゆく。


 左隣、次に右隣の走者がバトンを受けて飛び出した。私もタイミングを見計らいスタートを切る。倫太郎のトップスピードを可能な限り生かしたいので、早めに助走を開始した。


 スピードを上げつつ、テイクオーバーゾーンの先端付近でバトンを受け取ろうとする。倫太郎は私の意図を感じ取っているようで、ぎりぎりまでバトンを差し出さずトップスピードを維持する。


 まるで何万回も練習したかのように、ぴったりと呼吸が合っていた。


 感覚が研ぎ澄まされていくのが自分でもわかる。倫太郎の心の声まで聞き取れるようだ。


 倫太郎は腕を伸ばしバトンを差し出す。バトンは私の手のひらの中にきっちりと納まった。


 ――弥生、あとはお前の全力で駆け抜けろ!


 私も倫太郎の心の声に呼応する。


 ――任せて。今度こそ、ちゃんと風見くんにつなぐから。


 そしてテイクオーバーゾーンを飛び立つ。バトンを受け取ったのは、ゾーンの最後を示すマークのたった一歩、手前だった。


 本気で走るのって、何年ぶりだろう。ひょっとすると初めてかもしれない。


 一心不乱に地面を蹴り、前へ前へと体を進める。周りの景色が溶け、次第に目の前のランナーと自分だけしかいないような錯覚に陥る。視界に映るふたつの背中を無心で追いかける。


 コーナーにさしかかると遠心力が私を連れ去ろうとする。勇気を出して体を左に傾けるとバランスが取れた。呼吸は荒いけれどリズミカルで、全身の隅々に必要な酸素を行き渡らせている。予想していたよりも体がずっと軽やかに動いていた。徐々に目の前の背中が近づいてくる。


 ――もっと、もっと早く。


 体を前傾させ、前の走者を内側から抜きにかかる。びりびりと神経を研ぎ澄ませて、わずかな隙をうかがう。


 ――よし、今だ。


 目の前の走者が遠心力で膨らんだ瞬間、前傾を深くしトラックと走者の隙間に体を滑り込ませる。さらに脚に力を入れ、そして一歩、前に出た。


 コーナーを曲がり切り、直線に入った。トップランナーはまだ遠い。逆転するには、五年前のような失敗をすることなくバトンを風見くんに託さなくてはならない。


 風見くんはテイクオーバーゾーンの手前で微動だにせず構えていて、助走をつける気配はない。


 スタートダッシュからトップスピードに乗るのがものすごく早いから、きりぎりまで初動を開始しないんだ。


 けれどかつては私がタイミングを見誤った。風見くんは私が思うよりもバトンパスの直前まで助走をしていなかった。風見くんが自分自身を信じる気持ちと、私が風見くんを信じる気持ちが一致していなかった。


 でも、今度は本当に風見くんを信じる。風見くんに繋げるために今、私は疾走しているんだから。


 テイクオーバーゾーンに踏み込むほんのわずか前、風見くんはようやっと足を踏み出した。私は速度を落とすことなくテイクオーバーゾーンに踏み込み、そしてバトンを低い位置から持ち上げるように風見くんに手渡す。アンダーハンドパスだ。


 ぱしん、と軽快な音がして手のひらの中にバトンは収まった。今度こそ成功だ。


 ――よし、第二関門通過。


 受け取った風見くんは一気に加速する。


 私が見たことのない、風見くんの本気のスタートダッシュ。


 じかに目にした風見くんの加速は、走る、という動作とはまるで次元が違っていた。


 舞い上がる砂塵が遠のく背中を曇らせる。


 ああ、なんて例えたらいいんだろう。


 風見くんが通り抜けた後に、風のトンネルができているみたい。風見くんはまるで、誰にも縛られず自由に空を駆ける、秋の風のよう。


 あっという間に風見くんの背中が小さくなる。トップとの差は大きいけれど、もしかしたらと、そんな期待をもたらしてくれる。


 ――お願い、あとは任せたよ。


 校内の生徒も先生も、皆が風見くんの走る姿に目を奪われている。ぐんぐんと速度を上げ、みるみるうちにトップランナーとの距離を縮めてゆく。


 コーナーに差しかかると、どよめきが沸き起こり、次第に背中を押す歓声に変わってくる。


 ――いっけえっ、風見俊介!


 コーナーを曲がり切ってゴールが近づいたあたりで、風見くんはついにトップランナーの背中を捉えた。


 相手は後半の伸びがあるようで、そう簡単には追随を許してくれない。風見くんが迫っていることに気づくとさらに加速する。追い上げと引き離しの競り合いに歓声が最高潮に達する。


 その時私は、走り終わった綾ちゃんがいなくなったことに気づいた。


 視線を走らせると、綾ちゃんはゴールテープの向こう側にいた。


 いてもたってもいられなくなったのだろう。両手を広げ、ゴールを目指して迫る風見くんに向かって叫ぶ。


「俊介ェ――ッ!」


 その声が届いた瞬間、風見くんはスパートをかけ一気に速度を上げる。先生も生徒も皆、驚きで色めき立つ。


 ゴールの直前でついにトップランナーに並んだ。肘と肘がぶつかり、まるで火花が散っているようにも見えた。二人はゴールを目指して疾走する。


「風見ィ――、いっけえええ!」


 倫太郎も野太い声を張り上げた。


 そして二人のランナーは飛び込むがごとくゴールを切った。ぴんと張られていたテープが二人の体に絡み空中で波模様を描く。


 ――パン、パーン。


 乾いた号砲の音が二回、青空に響いて消えた。


 ほんのわずかながら、風見くんがリードしてゴールを迎えていた。


 駆け抜けた風見くんはぐっと拳を握りしめ勢いそのままに、綾ちゃんに向かって走る。そして互いに手を広げて、通り過ぎる瞬間に手を掴み、くるりと半回転して足を止めた。それからパーン、ともう片方の手を合わせた。


 二人の視線が交錯し、そして笑顔が弾ける。


 ――やったっ、やっぱりあの二人はこうでなくっちゃ。絵に描いたような、固い絆の関係。


 二人の喜ぶ姿を目にして、私も心底嬉しく思えた。


 だって私は、風見くんと綾ちゃんには、いつでもそんな眩しい色彩の二人でいてほしいと願っていたのだから。


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