鳥海綾――三日前――・2


 瞼を開けると、あたしは自分の部屋で目覚めたところだった。


 枕元を探ると高校生の頃に使っていた旧式の携帯電話が置いてあった。見回すとハンガーには制服がかけられていて、机の上には受験対策の参考書が山積みになっている。


 夢にしてはあまりにもくっきりとした目前の風景に驚かずにはいられない。


 ――まさか、これ、現実?


 慌てて自分の右手で頬をつねってみる。確かに痛いけれど本当に現実なのか、すごく疑わしい。


 左手にずっしりとした重みを感じたので確かめてみると、あの回転木馬を握っていた。


 まさかと思いカレンダーに目を向けると、五年前の五月を示していた。


 ――あの天使の言っていたことは本当だ。五年前に戻ってきている。


 驚いて飛び上がると、自由が利かなくなったはずの両足が、あっさりと掛け布団をはねのけ、あたしをバランスよく床に立たせた。


 ――すごい、動けてる。


 久しぶりの階段の下り坂は断崖絶壁のように見え、慎重に足を運んだけど、無事、降りられた。


 ――これなら大丈夫、俊介に遊びに行こうって、声をかけられる。


 そう思い、あたしは俊介に電話をかける。昔の携帯電話の使い方は忘れかけていたけれど、俊介の名前があって、ちゃんとかけることができた。コール音が鳴る。


 でも、本当に過去の俊介が電話に出るのだろうか?


 そう思っていると、俊介の声が耳に届いた。


『もしもし、なんの用?』


「あっ、俊介? 本当に俊介?」


 つい確かめると同時に、胸が高鳴り熱くなる。ずっと会いたかった俊介が、電話の向こうにいるんだ。


『えっ、そりゃあそうだよ。綾の名前通知されてるから、携帯からかけてるんだろ? 間違えるわけないじゃん』


「あっ、そうか、そうだよね。ははっ、よかったぁ~」


 あたしは大きく深呼吸して早鐘を打つ胸をなだめ、それから切り出す。


「ねえ、お願いがあるの。本当に一生のお願いなんだけど……」


『お願い? 綾からお願いなんて珍しいじゃん』


「うん。実はね……今日だけでいいから、あたしに一日、時間を貰えないかな。夕方までなんだけど」


 あたしは天使が言ったのだから、俊介から前向きな返事をもらえるだろうと信じていた。数秒間の間は、期待がいっぱいで本当に長く感じた。


 でも、俊介の返事は、あたしの期待をこっぱみじんに砕いてしまうものだった。


『やだよ、っていうかダメだよ。今日は約束があるからさ』


「ええ~っ!」


 派手に落胆の声が出てしまった。慌ててくいつく。


「ねえ、そこを何とかお願いできない? どうしても今日じゃなくちゃダメなのっ!」


『こっちだって今日が決戦日なんだよ! 大体お前、弥生さんと僕のことくっつけようと思ってたんじゃないか?』


「もっ、もしかして弥生さんとデートなのっ!?」


『そうだよ。来週だったら空いてるけどさ。よりによってなんで今日なんだよ』


 そんなっ!


 あの天使、あたしを騙したの? それとも知らなかったの?


「だって、今日しか……」


 それ以上、何も話すことはできなかった。未来から戻って来たなんて説明しても信じてもらえるはずがない。落胆で涙がじんわりと溢れてきて、涙声になりそうだった。


「そっかぁ……やっぱりそうなんだよなぁ。そんなに都合いいことなんて、なかったんだよ……」


『まっ、そのうち都合いい時あったら言うよ』


 つれない返事を耳にしてあたしは悟った。俊介とあたしは縁遠い関係だったのだと。


「ううん、いいの……ごめんね、わがまま言っちゃって」


『そうか、じゃあな。そしたら僕の幸運を祈ってくれ』


 だらりと下げた手のひらの中の携帯電話は、ツーツーツー、と無情な機械音を発していた。


 せっかく人生で最後のチャンスだったのに、俊介とデートすることはできなかった。


 でもせめて、この回転木馬を渡してあたしの気持ちを伝えたい。


 あたしは決心し、急いで着替え、出かける準備をする。気づいたお母さんが心配そうな顔で尋ねてくる。


「綾、お出かけ? 朝ごはん食べていくわよね」


「ううん、そんな時間の余裕ないのっ、急がなくちゃ!」


「体に悪いわよ、ただでさえあなた……」


「お願い、好きにさせて、今日だけはっ!」


 たいした荷物も持たずに家を飛び出し、俊介の家に向かう。家のそばの垣根に身を隠し、俊介の出方をうかがう。


 しばらくしてから俊介が姿を現した。久しぶりに見た俊介の姿。なつかしさと、それよりもずっと大きな切なさが胸にこみ上げる。


 気づかれないように同じ電車に乗り、待ち合わせしている様子を遠目にうかがう。弥生さんを見つけて俊介は嬉しそう。逆にあたしはしょんぼりする。


 こっそりと後をつけて動向をうかがうなんて、ストーカーみたいで後ろ髪を引かれる。でもそれ以上に、俊介があたしじゃない女子と一緒にいることに胸が苦しくてたまらない。


 あたしって、こんなにヤキモチ焼きの女の子だったかな? 俊介とデートできる弥生さんが羨ましくてしかたない。


 アパレルショップ、ファーストフード、そして青空カフェのプリン。二人が楽しそうに時を過ごすかたわら、あたしはお腹の虫をぎゅるぎゅると鳴り響かせながら、ひたすら機会をうかがっていた。


 ルール上、回転木馬を渡せるチャンスは日没までだ。時間を過ぎると、あたしはまた、深い眠りに戻る。それまでに、どこかで俊介に回転木馬を渡さなければ。そして出来れば、今まで一緒にいてくれてありがとうって、感謝の気持ちをじかに伝えるんだ。


 ほんの少しでもいい、俊介と直接、話がしたい。あたしの想いを届けたい。デートが終わり、二人きりになれるチャンスが来る時をえんえんと待っている。


 けれど運が悪いことに、突然、ロックバンドのライブが始まってしまった。弥生さんは俊介の手を引いて、人混みの中に潜り込んでいった。


 ――しまった、見失っちゃう。


 背の低いあたしは人混みが大の苦手だし、中に潜り込まれたら俊介を見つける手段はない。


 歓喜の声をあげる人混みを掻き分けながら、必死に俊介の姿を探し求める。次第にライブも白熱してくる。


「さあ、みんなも一緒に歌おうぜぇ!」


 という呼びかけの直後、観客は一斉にリズムに合わせて拳を振り上げた。


 小柄なあたしに気を遣う人は誰もいなくて、観客の肘があたしの頭や顔に何度も何度もぶつかった。


 ――痛いッ! もうっ!


 衝撃で頭がクラクラし、よろけて倒れそうになる。追いかけるのを諦めて、命からがら人ごみを抜け出した。


 ――二人を見失ってしまった。こうなったら強行突破しかない。


 あたしはやむなく俊介に直接電話をかけて約束を取り付けることにした。


 どうしても回転木馬を渡したいから、なんといわれようとも日没前にデートを終わらせ、時間を作ってもらおうと思った。


 けれど俊介にかけた電話からは、無機質な定型のアナウンスが流れるだけだった。


『あなたがおかけになった番号は、現在電源が入っていないか――』


 ――どうしてっ!


 いよいよ足が震えだした。このままやり直しの一日が終わってしまうのだろうか。嘘だ、そんなこと、信じたくない。


 あたしはひどく焦り、ショッピングモールの中をかけ回り俊介を探し続けた。時計の針はこんなにも早く回っただろうか。一秒毎に進む細い針があたしの胸をちくちくとつついてくるようだ。


 喉はからからに乾ききって、お腹はぎゅるぎゅる。太陽が傾き、次第にあたりの空気が冷気を含んでくる。


 ――どうしよう、もう時間がないっ!


 それからあたしは最後の力を振り絞って電車に乗り、自宅方面へと向かった。運が良ければ、俊介の帰り道に会えると思ったからだ。


 そして駅前で俊介を待っていたけれど、結局、最後まで俊介の姿を見つけることはできず、電話に出ることもなかった。


 あたしは地平線に差しかかる夕陽を眺めながら嘆く。


 一日が終わる。人生が終わる。あたしの俊介に対する想いが消えていく。


 俊介と一緒に過ごした日々を思い出して、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙があふれてくる。


 次第に涙は濁流のようになり、あたしは恥も外聞もなく、わんわんと声をあげながら泣いた。


 茜色に染まる公園の中を、泣きながら足を進める。日没とともにあたしは現代に戻り、死を迎えるだけ。すべてが終わったのだと、完全にあきらめた。


 その時だった。突然、背後から声をかけられた。


「鳥海綾っ!」


 驚いて反射的に肩が跳ねる。声がした方を振り向くと、ベンチの前に立っている背の高い男の人と目が合った。涙で歪んでよく見えないけれど、知っている野太い声に、五年前の記憶が蘇る。


 男の人はさらに続けてあたしに声をかけた。


「俺がお前の力になってやる!」


 ――あたしはこの人を知っている。他の誰でもない、あたしの支えになってくれた優しい人。


 目に映る希望の人に、あたしは思わず引き寄せられていく。


「松下くん……? わぁ、本当に松下くんだぁ」


 そして松下くんをまだ知らない頃のあたしは、これからあたしの大切な友達になってくれる松下くんと、再会を果たした。


 絶望しかなかった胸の中に、かすかな希望の光が灯る。


 ――もしかしたら、松下くんがこの想いを俊介に届けてくれるかもしれない。


 力を使いきったあたしはその場に崩れ落ちる。そして松下くんに哀願した。


 ――ねぇ、松下くん、お願いがあるの。すごく大切なものなんだけど、これを受け取ってほしいの――。



 最後に目にした風景は薄明りに浮かぶ白い壁、病室の天井だった。視界の片隅には、お母さんの顔が霞んで見えていた。ああ、首を動かすこともできないし、視力もはっきりしないみたい。


 だけど雰囲気だけで、あたしをいたわってくれているのが伝わる。


「綾っ、わかる? お母さんよ。ちゃんと側にいてあげるね……」


 あたしは最後に残されたわずかな力を振り絞ってお母さんに話しかける。


「うん、わかるよ、ありがとね。


 ……あのね、あたし……最後にどうしても会いたかった友達がいるの……」


「誰なの? ちゃんと連絡してあげるから!」


 お母さんは必死にあたしの虫の息を聞き取ろうとしてくれている。あたしはありったけの力で大切な友達の名前を絞り出す。


 あのね、あたしが会いたいひとはね――。




 三人の名前を伝えたあたしはまた、深いブルーの世界に沈んでゆく。


 きっともう、目を覚ますことはない。


 それでもまだ、信じてるんだ。最後に奇跡が起きるかもしれない、ってこと。


 もしもみんなが再び出会うのなら、回転木馬は繋がっていくはずなのだから。


 お願い、届いて、あたしの最後の想い――。




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