川端弥生――高校二年の春から――・5
★
――体育祭が、終わった。
頭の中に何度も何度も、同じ瞬間がリフレインしている。バトンが手からこぼれ落ち、軽い音を立てて地面に跳ねる。
視界の中に風見くんの手のひらが伸びてバトンが拾いあげられるところまでは記憶に残っているけれど、その先は、後悔と、呵責と、自分への失望で真っ白になっていた。
――風見くん、綾ちゃん、倫太郎、本当にごめんなさいっ!
綾ちゃんは全力疾走して倫太郎に、倫太郎は成宮ともつれながらも私にバトンを繋げてくれた。
それなのに――みんなが繋げたバトンは私のせいで途切れてしまった。
深く沈み込んだ私は後片付けすら手につかず、校舎の隅で体育座りをして丸くなっている。
ふいに背後の窓が開く音がした。保健室の窓から顔を出し、飄々とした態度で話しかけてきたのはあの成宮だ。
「ねえねえ、川端にお願いがあるんだけど」
「……なによ。私は今、絶賛落ち込み中なの」
「そういうなって、ボクだって失敗したんだよ。しかも足を痛めちゃって歩くのが辛いんだ。生徒会室に戻りたいんだけど肩貸してくれない?」
あれだけ派手に転んだのだから無理もないわ。いい気味だけど、少しは反省したのかな。見捨てるのも気が引けるし、事情が事情だから仕方ないかな。
「それくらいなら別にいいわよ」
「ありがとう、助かるよ」
成宮は作り笑顔を私に返した。私は校舎に戻り、保健室から右足を引きずり出てきた成宮に肩を貸す。
「あいつ……君の元カレはパワーあるな。まぁ、ボクのドジだからしょうがない」
「しばらくは大人しくした方がいいわ」
あくどい事はもう考えないでほしいと暗に込めた一言だ。
階段を最上階まで昇り、生徒会室の重厚な引き戸を開いて足を踏み入れる。
「肩はここまででいいよ、ありがとう」
「私、ホームルームがあるから戻ってるわね。お大事に」
そう言って成宮の腕をほどき背を向けた。
その瞬間だった。
「おっと、まだ用事は終わってないよ」
成宮は私の目の前に回り込み、入り口の扉の鍵を素早く閉めた。その動作を一瞬でこなしたことに身の毛がよだつ。
――怪我なんて嘘だ。これは罠だ。
狼狽する私に向かって、成宮は笑顔を崩さないまま言う。
「大事な話があるんだ。ソファーに座って」
そういって手をソファーに向けて差し出す。警戒しながらおそるおそる腰を据えると、成宮は私の隣にどっかと座った。
「いやいや、本当に残念だったね。まぁ、誰だって失敗はあるよ」
「正直、悔しいわ。チームのみんなに申し訳ない」
私はなるたけ視線を合わせず答える。けれど視界の隅の成宮が口角を上げた。
「いやね、ボクが『残念』とか『失敗』って言ったのは、リレーのことじゃないんだけど」
「え……?」
含意のある言い回しにひどく嫌な予感がする。
「君、仲のいい友達がいるみたいじゃない。
まずはゲリラライブでノリノリだった男の子。ひょっとして新しい彼氏?」
――まさか、この学校の誰かが見ていた?
目撃した成宮の腹心が情報を流したのだろう、全身の神経が張りつめる。
けれど成宮の挑発は、風見くんだけではなかった。
「それから帰りに喫茶店で会っている秘密の友達。彼女、ノリノリの男の子とも繋がりがありそうだね」
――きっと私のことを、誰かに尾行させていたんだ。
成宮の見せた、悪戯好きの子供みたいな表情に、私の背中が凍りつく。
「まさかリレーのメンバーが仲良しこよしの四人だったとはね。
風見俊介、松下倫太郎、そして鳥海綾――で、間違いないよね?」
成宮は常に、私の弱みを握ろうとしていた。やっぱり悪い人間は根っから悪なんだ。
大切だと思える人ができるのって、どうしてこんなに嬉しくて、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「彼は足が速いみたいだけど、もうスポーツやってないんだろ? だったら多少、怪我したって問題ないよな。
彼女の方は華奢だから簡単に壊れそうだけど、脆いものを壊すと、やっぱり粉々になるのかな。ガラスみたいにさ」
私は大切な仲間ができて、すごく幸せだと思えた。どんなに辛いことがあったって、頑張って耐えられるって、自分を支えることができた。
でも、そんな大切な友達が壊されてゆくことが、私は一番耐えられない。
もう分っている、成宮は友達を人質として、再び交換条件を提示するつもりだ。
でも、みんなが傷つくような選択は絶対に駄目だ。全力で守ってあげなくちゃ。
たとえ自分が、どうなってしまっても――。
そして私は覚悟を決めて、潰されそうな胸から息を吐き出し成宮に切り出す。
「……やめてくれるなら言うことを聞くわ。それでどう?」
すると成宮は、体育祭の応援団が使った、藍色のハチマキを私に向かって雑に投げてよこした。成宮のチームの色だ。
「その覚悟が本物なら、まずこれを使って、自分で目隠しをするんだ」
成宮が私に何をしようとしているのかは、およそ察しがついた。容赦ない恐怖と嫌悪感、それに喪失感に襲われる。
けれど、抵抗、という自分の意思は大切な友達を傷つけてしまう。私が我慢しさえすれば、みんなは守られるんだ。
だから私は言われるがまま、震える手でハチマキを握り、頭の後ろで結い視界を閉ざす。暗闇に覆われると、なおさら恐怖心が煽られる。
耳元に反吐が出るような吐息がかかる。
「よし、いい子だ。ちゃんとボクの言うことを聞いて、あいつらと一切の関係を断ち切るのであれば、あいつらの平穏は約束する、だから安心しなよ」
とたん、乱暴に頭を押さえられ、唇にぬるりと生温かい感触がした。
「ンンッ……!」
両腕を押さえられソファーの上に押しやられる。
まるで獲物に狙いを定めた蛇のように、ジャージの中に手が伸びてきて、胸を鷲掴みにされる。
「いや……ッ!」
「おっと、嫌なら取引を白紙に戻してもいいけど」
反射的に口を閉ざし抵抗を止める。けれど成宮は容赦ない。荒々しい手つきでジャージと下着を剥ぎ取ってゆく。
それからまるで人形を操るように、私に屈辱的な格好をさせ、じわじわとなぶるように隅から隅までまさぐってゆく。成宮は愉悦に満ちた吐息をもらしていた。
さんざんいたぶり尽くした後、成宮はいよいよ私の脚を乱暴に大きく広げた。
「泣き叫んだって構わないさ、どうせここは防音室だ。嬌声ならなおさらウェルカムだ」
成宮がそういって私の上にのしかかる。
下腹部に容赦ない痛みが走り、その痛みは肉体を越えて、心の芯までも突き刺してくる。
――泣いちゃダメ、泣いたら負けだ。
血がにじむほどに唇を噛んで、耐え難い感情を意識の遠くに追いやり、心の中を幸せな思い出に置き換えようとする。
倫太郎の戦う姿に恋をして、一緒に喜びを分かち合ったこと。
風見くんをデートに誘って、二人で大盛り上がりしたこと。
綾ちゃんと仲良くなれて、たくさん話ができたこと。
いままでの幸せだったこと、全部。
ぐるぐる、ぐるぐる。
それでも肉体的な痛みは増してゆき、私の心の芯を貪ってゆく。この残酷な現実に引き戻し、縛りつけるように。
夢とか、恋とか、友情とか、そんな気持ちは生き物だから、ちゃんと大切に育てたい。
倫太郎に告白する時に抱いた、私の想い。ずっと変わらないと思っていた。
ゆめとか、こいとか、ゆうじょうとか――。
ユメトカ、コイトカ、ユウジョウトカ……。
頭の中をぐるぐる、ぐるぐる。
私の身も心も、悪魔に蝕まれて汚れてゆく。
大切なみんなと引き裂かれて堕とされてゆく。
だけど、私の絶望は無駄になんかならない。
だって、私さえいなければ、きっとみんな、無事に暮らしてゆけるもの。
だからみんな、ちゃんと幸せになってね。風見くん、倫太郎、そして綾ちゃん。
お願い、どうか私の分まで――。
★
体育祭の振り替え休日が明けた日、成宮に無理やり呼び出された。断ることができずに、鉛のような重い足取りで生徒会室に向かう。痛みはまだ、疼いていた。
着いて立ち入ると、成宮の他には誰もいなかった。
「よく来たね、愛しのハニー」
成宮はそういってわざとらしく投げキッスをする。
「そこのソファーに座ってよ。なかなか寝心地、良かっただろ?」
私は視線を合わせず、身を強ばらせる。また今日も同じことが繰り返されるのかと思うと、今にも吐き出しそうだ。
「警戒するなよ。今日は君に見せたいものがあって呼んだんだ」
成宮は意地の悪い笑顔を向けていう。そう聞いたところで風向きの良い話であるはずがない。
「見せたいもの……? 念のために聞くけど、風見くんたちには関係ないことよね」
「おいおい、ボクは約束は守るって言っただろう? ただ、君の決意は大切な友達との友情の証だから、それなりの対価が見合うと思ってさ」
――対価? あれだけのことをしておいて、他に何を要求するつもり?
「まあ、百聞は一見にしかず、さ」
成宮はリモコンを手に取り、モニターを点け録画された媒体を再生する。画像が目の前に映し出された。
最初は音もなくカメラアングルはあらぬ方向を指していたようで、一体何の画像かわからなかった。
けれど「被写体」が映されたとたん、拒否反応で胃の内容物が込み上げた。
見せられたものは、一言でいえば「絶望」――成宮が行為の一部始終を録画し、編集した映像だったのだ。
人間も所詮、動物のひとつなのだと思わせられるあらわな姿で、女性の尊厳もへったくれもなかった。
「どう? 編集には自信あるんだ。それにしても
成宮は勝ち誇ったように笑う。
目隠しがあってもなくてもされることは同じだったのだろう。ただ、目隠しをさせたのは、気づかれずに行為を撮影するためだったようだ。
成宮は「まるで一流女優の演技のようだよ」と、皮肉な褒め言葉を添える。
自分自身がこんな恥辱を受けていたのかと思うと耐えられない。けれどわずかでも目をそらすと、成宮は風見くんと綾ちゃんのことを持ち出し鑑賞を強要する。そして私の反応を楽しんでいるようだった。
五臓六腑がかき乱されるような忌避感に耐えながら、ようやっと映像の終局にたどり着く。
ビデオが終わったところで成宮は切り出す。再び、あの悪魔の笑顔を浮かべて。
「このビデオ、どうしようかな。知り合いの業者に買い取ってもらうか、ネットにあげるか」
私は何も答えなかった。自分に選択権はどうせないのだから。けれど成宮はさらに別の選択肢を口にした。
「ご希望に沿わないのなら、お前の友達に匿名で送ってあげる、ってのはどうだ?」
「そっ……それだけはやめてっ!」
みんなにはこのことを知られたくないと思い、反射的に叫んでしまった。成宮の瞳は不気味な輝きを放つ。
「ふぅん、いいけど、そしたらお願いがあるんだ」
そして一拍、間があった。生じた時間の隙間は、さらなる絶望を織り込むための縫い代のように思えた。
「この学校、辞めてくれない? いい求人があるからさ」
そう言って成宮は、私の名前が記された「退学届」を目の前に差し出してみせた。
――ああ、私には夢のかけらすら、残されていなかったんだ。
それこそが成宮の、本当の狙いだった。
成宮にとって生身の人間ほど面白いおもちゃはなかったのだ。
しばらく弄ばれた後、飽きた成宮は他の標的を探し、不要になったおもちゃを下取りに出した。
「稼げるくらいの技術は教えたつもりだから、感謝してもらいたいよ」
この言葉が成宮からの餞別だったし、最後まで笑顔を崩すことはなかった。
私は以来、成宮が交わした「契約任期」を全うするまで、苦界に身を沈めることになる。
成宮は標的とした人間をとことんまで追い詰め、自身のありとあらゆる欲望を満たすための資本としていたんだ。
五年、という歳月が過ぎた――。
二十三歳を迎えるまでの、永い永い地獄だった。生きる気力も、昔見た夢も、人間の尊厳も、すべてを忘れていた。
私は夜のネオン街を彷徨う、生きる屍になっていた。もうそろそろ人生を終わりにしてもいいんじゃないかと、本気で考えていた。
そんな時、綾ちゃんのお母さんから連絡が届いて知ることになる。
綾ちゃんがエンジェル・シンドロームのせいで危篤だということと、最後の言葉のひとつが私に会いたい、というものだったことを。
けれど、天使のように身も心も綺麗な綾ちゃんに、汚れきってしまったこの私がのうのうと会いに行けるはずはない。
だけど、その電話がきっかけで、私は高校時代を回想し、絶望の淵で届いた声――たぶん、倫太郎が私に向けて放った言葉――を、ふと、思い出した。
『お前が絶望した時は、俺に会いに来てくれ、そして俺を頼ってくれ、俺はお前を待っている、五年後の世界でな』
――まさかね。
あの頃は生意気な天使の夢を見たり、その天使は綾ちゃんに見た目がそっくりだったりと、いくつか不思議なことが重なっていた。だからその残響にも、なにかの意味があるのかもしれないと思ったんだ。
すがるような気持ちがなかったわけじゃない。それに本心では、あの時何も言わずに消えてしまったことを、一言でいいから皆に謝りたいと思っていた。
それが、私が今ここにいる理由なの――。
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