川端弥生――高校二年の春から――・1
――人間には悪い人なんていないんだよ。いい人と、ちょっとだけ寂しい人がいるだけなんだよ。
どこかで聞いた珠玉の言葉。素敵だけど、きっとそれは嘘だと思う。
だって、こんなに酷いことをする人たちは、いつだって馬鹿みたいに笑っていられるのだから。
「キャハハハハ、みんな来て来て! 今、あいつがトイレに隠れてるよ」
「チャンスだ、退治しちゃえ~!」
私はチャイムが鳴るやいなや女子トイレに駆け込んだけど、誰かが私の後を追っていたようで気づかれてしまった。追い詰められて逃げ場はない。
日本人にしては色素が薄い瞳と、大人っぽい外見だったこと、それに母子家庭だったことの全部が原因。本当にぴったりだったんでしょうね。
「いじめの対象」として。
ナイフを振り回して殺人を起こすのはみんな男だって言う人いるでしょう? でも女子だって、みんな平気でナイフのような言葉を振りかざすよ。証拠が残らないからとどまるところを知らない。なおさらタチが悪いのかもね。
トイレの個室で小さくなっている私の頭上からはいくつもトイレットペーパーが投げ込まれた。次には雑巾、掃除のモップ、それからバケツがふたつ。
バケツが頭を直撃し、それから跳ね返って壁にぶつかった。悲鳴をあげるとなおさら面白がるのを知っているから、痛みに耐えながら声と感情を押し殺す。
「ねえ、今、手応えあったよ!」「もう一個投げ込んじゃおっか!」「えー、やっぱり出てこないとつまんな~い!」
扉の反対側では蜂の巣をつついたような騒ぎっぷりだ。
向こう側の子たちは、残酷であればあるほど、いきいきしている。
もう少しで授業が始まる。先生の目があれば、その間だけは平穏な時間でいられる。
そう思っていた矢先、頭上から冷たい水が降り注いできた。
「きゃっ!」
さすがに声がもれた。
「やった、悲鳴あげたよ!」「作戦成功、いえ~い!」
制服はびしょ濡れになって、もう、今日の授業を受けることはできなくなった。
笑い声が遠ざかってゆき、それからしばらくしてチャイムが鳴り響いた。
私は冷たくなった肩をぎゅっと両手で抱いて、唇を噛んで耐え忍ぶ。
――泣くもんか、泣いたら負けたも同然だ。
高校一年生の終わり頃から突然、一部の女子たちが私をいじめの対象として標的にし始めた。恨まれる心当たりなんて、まるでなかったのに。
そのせいで仲の良かった友達も、巻き込まれるのを恐れて私を遠巻きにした。
だから私は、なるべく人目に触れないように朝早く登校し、帰りは誰にも声をかけられないように、そそくさと学校を後にしていた。
ある日、学校の裏を通り校門に向かっている時、体育館の中から竹刀を交える音が聞こえてきた。
――剣道部ね、なんだか汗臭そう。
性悪な先入観が憂鬱な気分に拍車をかけたけれど、よくよく考えれば、行なわれているのは日本古来の伝統的な武術のひとつだ。だから所属する部員たちは卑怯な人間とは無縁なのかもしれない、と前向きな想像もできた。
体育館の中をのぞき込むと、迫力のある掛け声が耳に届き、思わず身を強ばらせる。
「ウオオオオオッ!」
虎の咆哮のような、地鳴りのような、あるいは雷鳴のようなその声は、海底深く沈没した私の心を激しく揺り動かす。
――一体、なんなの?
自然に足が体育館へと踏み込んでいた。
体育館の中央で、防具を身に纏い、竹刀を構えた二人が対峙している。周りを他の部員たちが囲んでいる。
一人は恰幅の良い男で、体の正面で竹刀を構えている。一般的な中段の構えだ。
もう一人は背の高い男で、竹刀を高々と頭上に掲げていた。これが上段の構えというものだと思う。威風堂々とした構えが、なおさら男を大きく見せていた。
再び声が轟く。背の高い男が発する掛け声は、体育館の窓ガラスが一斉に震えるほど、気合いみなぎる咆哮だった。
一瞬、二人の間の空気に揺らめきを感じた。
たぶん、瞬く間の出来事って、こういうことを言うんだろう。
空を裂く強烈な一閃。亜麻色の竹刀が恰幅の良い男の頭部に向かって打ち下ろされる。
「メ―――ンッ!」
防ごうとした竹刀は、衝撃で吹き飛ばされ宙を舞っていた。
「一本っ!」
白旗が高々と掲げられた。わずかの間があってから、竹刀が床に落ちて乾いた音を奏でた。
――すごい迫力っ!
運動競技を見てこれほどの衝撃を受けたのは、人生で初めてだった。まるで私の中に渦巻く、どうしようもない不安や恐怖をいとも簡単に吹き飛ばしてくれるような力強さがあったからだ。
以来、私の足はただ、彼の姿を求めて体育館に向かうようになっていた。
彼は、他人を虐げて生きる恍惚を味わうような姑息な人間とは別世界の住人だった。
決して怯まず、凛としていて、作法も静粛で美しい。
そして、どんな魑魅魍魎も寄せつけない、屈強さと気高さを宿していた。
松下倫太郎。私と同じ二年にして副将を務める、剣道部期待の星。「月城の神童」だ。
――この出会いは、きっと運命。
私は意を決して松下倫太郎に告白する。部活が終わるのを待つ間、喉から心臓を吐き出しそうなほどに緊張していたけれど、彼と他人のまま高校生活を終えるなんて考えられなかった。
夢とか、恋とか、友情とか、そんな気持ちは生き物だから、ちゃんと大切に育てたい。放置して廃れさせちゃ、可哀そうだもの。
私は隠れていた木陰から踏み出し、彼の前に立ちはだかる。そしてありったけの勇気を振り絞った――
――ねえ、部活の邪魔はしないから、あなたの剣道を応援させて。そばで見ていたいの。
――おいおい、俺みたいな気の利かねぇ男、一緒にいてもつまらねえぞ。すぐに愛想が尽きるに決まってる。
――実は私もね、自分のつまらなさには自信あるんだ。
――そうか、じゃあ好きにしてくれ。
――はい、好きにさせてもらうね、だからこれからよろしくお願いします。
――ああ、こちらこそ、その、まあ、よろしく……お願いします。
仰々しくふたりで頭を下げての付き合い始めなんて、
その日以来、どんなに辛いことがあってもくじけないって、不思議なくらい自信を持てたし、モノトーンだった毎日が鮮やかに彩られた感覚だった。
彼のひたむきに努力する背中を見ているだけで幸せだったし、私の勇気にもなったの。
高校二年の夏、夢中で彼を応援して、勝ち上がってゆくさまを見ていて、私もすごく誇らしかった。彼は対戦相手をなぎ倒すだけじゃなくて、現実世界の厭なもの全部、私の心の中から追い払ってくれていた。
そしてついに、彼は目標としていた「全国大会」の切符を手に入れた――
ところが時を同じくして、別の人から告白をされた。同級生の男子だ。
放課後、呼び出された校舎の裏で待ち合わせる。もちろん丁重にお断りするためだ。
けれど姿を現した相手は私を見るやいなや遠慮なしに近づき、身を引いた私に壁ドンをして顔を寄せてきた。逃げ出そうにも追い詰められて身動きが取れない。
「川端弥生、ボクのことは知ってるだろう、付き合ってほしい」
イケメン爽やか男子の代表格、成宮圭吾。現在、副生徒会長に任命されている。眉目秀麗で多くの女子生徒にとっての、憧れの的だ。
けれど初めて知った。好きでもない人にされる壁ドンって、こんなに息苦しいものなのなんだ。
私ね、昔から勘は良かったんだよ。自然に感じ取れるんだけど、そういう成宮の本当の心の声は、きっとこんな感じのはずだってこと。
『早く首を縦に振れよ、このボクが付き合うって言ってやってるんだからさ』
だって、見下ろす視線がとても冷たくて、ドブ水のように濁っているんだもの。まるでモノとして見られているみたい。あの人とは全然、違った眼差しだ。
それなのに成宮は私の抵抗を顧みずしゃあしゃあと続ける。
「たとえ君にどんな困ったことがあったとしても、ボクと付き合い、相談してくれさえすれば、なんだって万事解決できると思うよ」
告白の場面で普通、そんなふうに言う? と思ったと同時に、その言葉に込められた危険な匂いを私は嗅ぎとった。
――もしかすると、私がいじめられるのは、成宮の策略?
その頃、生徒会は成宮の意見により、ホームページに生徒のブラックリストを掲載し始めていた。だから、いじめを受けた生徒は生徒会に相談するようになったけれど、皆がいじめの事実を信用してもらえるわけではないらしい。
信用してもらえるのは――そう、生徒会のメンバーと深い関係になった女子のみ、って噂だ。
それこそが、成宮の思惑なのではないか、そんな気がしてならない。だって、ブラックリストという抑止力があるのにもかかわらず、いじめはまるでなくならないのだから。
つまり、成宮が狙った女子を手懐けるために、特定の女子にいじめを依頼しているのかもしれないってこと。あくまで推測なんだけど。
私が無言で成宮を睨むと、成宮は人差し指を立てて私の頬に触れてきた。
それからその指で、つつーっ、と肌を沿わせる。指先は首元を通り、そのまま遠慮なしに胸元へ下りてくる。全身に鳥肌が立った。
「やめてよ、私はそんなつもりないっ!」
反射的に手を払いのけると、成宮は茶化すようにいう。
「おおっと、見た目と違って意外とお堅いんだなぁ」
「残念でした、だって私、松下倫太郎くんと付き合っているもの」
あの人なら、どんな相手にだって屈することはない。きっと私を守ってくれる。だから倫太郎の名前を出せば、成宮だって私に手を出せないはずだ。
そう思って、そう信じて、私は成宮に「松下倫太郎」の存在を示してみせたんだ。
成宮は目を細めて口元を緩める。
「――ふぅん、そうなんだ、いいことを聞いたよ。でも高校生活はまだまだ長いよなぁ」
不気味にそう言い残し、踵を返して去っていった。
今思い返せば、私の過信がすべての不幸の始まりだったんだ。
悔やんでも悔やみきれない。私のせいで、倫太郎の人生が狂ってしまった。
今思うと、私が倫太郎の生きがいを奪い取ってしまったんだ――。
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