Interlude #2

 倫太郎は瞼を上げ、過去となった一日を思い返し、深くため息をつく。手には回転木馬が握られていたが、放たれた光はすでに収束していた。


 窓の外は宵闇に包まれていて、夜空の同じ場所に更待月が映っていた。過去の世界に戻っていたものの、時間はほとんど経過していないことを示していた。


 それでも脚がずっしりと重い。疲労感の蓄積は明らかだ。


 視線を移すと、純白のシーツが敷かれたベッドがあり、その上に横たわり淡い光を放つ綾の姿があった。先程よりも幾分、明るみが強くなっているように思える。傍らには俊介が呆然としてしゃがみこんでいた。


 俊介は起きた事態が呑み込めていないようで、頭を抱え顔面蒼白になっている。


「なんだ、これ……僕の記憶が、おかしい……。


 ……松下は転んで大怪我を負ったはずだが……いや、そんなはずはない、バトンは弥生さんに渡って……僕はその後、松下に突き飛ばされて……」


 俊介はあからさまに記憶が混乱していた。現在まで認識していた、確かであるはずの過去の記憶が、別の記憶の堆積によって思考の奥へと押しやられているからだ。


 ――俺が今、経験したのは夢ではない、確かに現実だ。これが「回転木馬」の持つ効果なのか。


 倫太郎は俊介の狼狽した様子に確信し、そして尋ねる。


「風見、俺はお前に聞きたい。あの時リレーでは誰が転倒したか、誰がバトンを落としたか覚えているか?」


 俊介は動揺を隠せないまま、松下を見上げていう。


「あの時は松下が転んで……いや、転んだのは成宮だ、成宮の方だ。そうだった。それで僕にバトンを渡す時に……ああ、そうだ。僕は弥生さんの落としたバトンを拾って走り出した」


 俊介の記憶は次第に輪郭を明確にしてくるが、それは新しく焼きつけられた方の記憶だ。


「……ちょっと……飲み物買ってくる」


 奇妙な感覚に恐れをなした俊介は、この場から離れようとして、ベッドの柵を掴んで立ち上がった。よろけるように部屋のドアに向かう。そして扉をスライドさせた。


 とたん、俊介は目を大きく見開き、その場で呆然と立ち尽くした。


「どうした風見」


 俊介の様子を目で追っていた倫太郎もまた、開いた扉の向こう側を見て喫驚した。


 そこには二人の知る、ある女性の姿があったからだ。


「や……弥生さん……どうして……」


「弥生……お前……」


 二人は同時に声を発したが、その声はともに震えていた。現在の弥生の姿は、二人の記憶にある「川端弥生」とはひどくかけ離れていたからだ。


 荒れた肌を隠すように厚塗りされた化粧に不健康な印象を与えるダークブラウンの口紅。露出度の高いタイトなショートワンピースをまとい、虎柄のコートを羽織っている。髪は金色に染められていて、本来の色艶はすっかり失われていた。


 表情も淀んでいて、かつて夢を語っていた瞳の輝きはみられない。


「使い古された夜の女」、という印象だった。


 俊介はかつて自分が好意を抱いた女性像とはまるで違った雰囲気に動揺したが、気を取り直して病室に入るように手を差し出した。


 けれど弥生はあからさまに身を引いてこうこぼす。


「私なんかが綾ちゃんのそばにいたら、綾ちゃんが汚れちゃうから。


 ――でも、せめて廊下で待たせてもらえないかしら」


 汚れた、という表現が何を意味しているのか、俊介にはわからなかったが、良い意味であるはずがない。


 倫太郎が病室から廊下に歩み出て小声で弥生に尋ねる。


「もしかすると、今、お前がここに来たのは俺が五年前の体育祭で、屋上から叫んだ言葉を覚えていたからか」


 弥生はうつむいていた顔をはっと上げ、倫太郎と視線を合わせた。淀んだ瞳はかすかに光を灯し、そして潤みだす。


「うん、倫太郎が『俺に会いに来てくれ、そして俺を頼ってくれ』って言ってくれたから。


 だから綾ちゃんのことでお母さんから連絡がきた時、倫太郎も来るんじゃないかと思って。


 ……私、すごく後悔してるの。あの時、自分ひとりでなんとかしようと思って。なんとかできるって思ってた。


 でも、それって自惚れていたっていうことなのかなぁ……」


 俊介は会話の意味が理解できず、視線が二人の間を行き来する。


「松下、お前は弥生さんが言っていることの意味がわかるのか?」


 だが倫太郎は何も答えず、かわりに弥生の肩にそっと手を当てた。


「俺はお前がどうなったのか、すこぶる気にしていたんだ。だからすまないが、お前の口から教えてくれないか。


 どうして突然、高校を辞めてしまったのか。


 いや、それ以前にあの日、お前の身に何が起きたのか」


「そんなこと話しても、今更どうにもならないことよ……」


 しかし倫太郎は、諦念しかない弥生にこう告げた。声には倫太郎らしい力感が備わっている。


「心配するな、何があっても俺はお前のことを見捨てたりけなしたりしない」


「倫太郎は変わってないね、いつも私に優しい。私、もう涙なんて枯れちゃったと思ってたけど……でも……」


 そういって言葉を詰まらせ、瞳に湛えた雫をぽろりとこぼした。


 そして弥生は、自身の抱える一生の後悔を語り始めた――。




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