松下倫太郎――高校二年の秋から――・5
☆
俺は回転木馬の力によって、この日に戻ってくることができた。
回転木馬が映し出す、俺の過去を描いた光の像。今までは一体どこを掴めばよかったのわからず、発動した映像をキャンセルするしかなかった。
しかし今日、風見が答えを持っていたことに気づいた。問題の日とは体育祭の日のことだと確信したから、俺は自分が倒れ込んでいる場面の映像を掴み取った。
すると眩い光が目前に広がって、俺の意識は引きずり込まれ、気づいたら朝を迎えていた。
目が覚めても変わり映えしない部屋の風景に、過去に戻ったとは信じ難かったが、窓際には処分したはずの制服がかけてあり、カレンダーは五年前を示していた。そして俺の手は、あの回転木馬を握りしめていた。
確かに俺は、高校生だった。五年前に戻ってきたのだと自覚し身震いする。
この日、俺は怪我を負い、弥生にバトンを渡すことができなかった。病院行きとなってしまったから、弥生に起きた異変を知ることすらできなかった。
俺はこの日をやり直さなければならない。
俺たち四人はグラウンドの端に設けられた、出場選手の待機場所で顔を合わせた。いまだによそよそしかったが、風見の提案で、皆で手を重ねて、「ファイッ、オー!」と掛け声を発する。
少々こっぱずかしかったものの、鳥海の思い出作りの一環だからやむを得ない。そして久々に弥生の手のひらに触れ、その温度を感じて胸が苦しくなる。
心の中で弥生に語りかける。
――弥生、安心しろ。俺が護ってやるからな。俺の手を離れて、幸せを掴めるように。
第二走者としてテイクオーバーゾーンで待機する俺の隣りには知る男の顔があった。この場面は二度目となるが、そいつの顔を視認したと同時に怒りの感情がどっと湧き起こる。
生徒会長、成宮圭吾。俺を嵌め、剣の道を閉ざした張本人だ。
俺を一瞥すると嘲笑うように、ふんと軽く鼻を鳴らした。スタート地点で伸脚をしながら、見下した態度で話しかけてくる。
「お前、あの川端弥生と昔、付き合っていたんだってな。
まぁ、あの女に近づいた奴は皆、不幸が降りかかるって有名な話だから正解じゃねぇのか」
「何言ってんだ? あいつは不幸を呼ぶような女じゃねぇ」
校内の情報を吸い上げ、こいつの元に届ける奴は山ほどいるのだろう。俺が弥生と付き合っていたことも、別れたこともお見通しのようだ。
「大体お前、虚言ばっかり吐きやがって。そのせいで俺がどうなったか、わかってる癖によ」
「さあ、何のことかな。ボクは記念撮影の写真を先生に渡しただけだし、第一、証言したのはボクじゃない。恨むならお門違いだ」
「お前が臆病な奴らを手懐けて操っているんだろ」
俺は成宮を切り裂くほどに睨みつける。
「おお、怖い怖い。まぁ、彼がボクに気に入られようとしてあんなことを口走ったみたいだけどさ。だからこういうのはどうだ?
――もしもこのリレーで君の走力が僕よりも上だって証明できたら、先生にあの件は誤解だったって言ってあげるよ。内申点に影響するよね?」
俺は五年前、今更何言ってやがると言い返したが、まさかこの言葉も「罠」だとは、考えもしなかった。
成宮が俺を挑発しているのは、全力で走らせ追い抜かせようとしたからだ。
つまり、俺が公衆の面前で大怪我を負ったのは、こいつが脚を滑らせた振りをして俺を転倒させたからだ。
剣の道から遠ざかっていたせいで、俺は闘いの感覚が希薄になっていたのかもしれない。薄れたものは、いわゆる
この場面で俺が成宮の目論見に気づき、殺気を察知できていたのならば、むざむざと大怪我を負うことはなかった。その点は俺の落ち度だと言わざるを得ない。
しかし成宮があえて俺を狙うのには何か理由があるのだろうか? 俺のような強面の男をひれ伏させることができれば、皆が従うからだろうか? それとも俺が邪魔になる理由があるのだろうか?
そう考えていると盛んに黄色い声援が飛んできた。「成宮くーん!」「成宮センパーイ!」
成宮は
こいつの腹黒さを知らねえ連中ばっかなんだな、少しは鳥海の賢さを見習えよと叫びたくなる。
そしていよいよ俺たちの順番が回ってきた。トラックの対側では鳥海がスタートラインに立っている。
ぱぁん、と号砲が響き、第一走者が一斉にスタートした。
小柄な鳥海は押しのけられるように後手に回ったが、必死に手を振り前へ前へと進む。
――いいぞ、鳥海。だいぶ早くなったな。
俺は鳥海が一人で練習しているのを知っていた。元来、病気のために体力も筋力も貧弱らしいのだが、それでも不平不満ひとつ口にせず走る練習を続けていた。
そして少しずつタイムが速くなっているんだと、嬉しそうに俺に話してくれた。
――あいつはそれでも必死に走っている。がむしゃらに生きている。
鳥海の頑張る姿を見ていると、俺の全身にも気力が溢れてくるようだ。
――来いっ、鳥海! そのバトン、俺が必ず繫げる!
次第に鳥海の姿が迫りくる。トラックの内側ではアンカーの風見が腰を浮かせ鳥海の姿を凝視していた。
隣の成宮がバトンを受け取り走り出す。数秒遅れて俺もバトンを鳥海から受け取る。鳥海は細い腕を必死に伸ばし、俺も手のひらを大きく広げると、バトンは綺麗に俺の手に収まった。鳥海と俺の視線が一瞬、交錯する。
――よし、確かに受け取った。
そして俺は力の限り地面を蹴り飛ばす。全身の筋肉がこれから迎える戦いに歓喜する。目前の走者を押しのけるように前に出、一人、もう一人と追い抜いてゆく。コーナーの中央付近で成宮の背中を捉えた。
グラウンドのスピーカーから流れるバックミュージックは、リレーで定番の「天国と地獄」だ。なぜリレーでは常にこの音楽なのか、そんな
なぜならお前の行く道は決まっているからだ。今日の俺は強いぞ、なにせ未来から戻ってきたんだからな。
――俺がお前を地獄に墜してやるぜぇ、成宮圭吾。
俺と成宮はコーナーの後半部に突入した。俺はトップスピードに乗って、勢いそのままに成宮の外側から抜きにかかる。対称的には成宮はわずかながら減速しているようだった。その意図はたやすく読み取れた。
――俺が追いつくよう、わざとスピードを落としているに違いない。
そして成宮を抜き去る、運命の瞬間が訪れた。
俺は全神経を成宮の挙動に集中する。まさに
一眼――相手の思考動作を見破る眼力であり洞察力。
成宮の視線が一瞬、俺の足元に向けられた。濃密な悪意が波打つ視線だ。
俺は一眼をもって成宮が行動を起こす瞬間を感知する。
――来るぞ。
突然、成宮の体がぐらりとよろけた。いや、今だからわかるが、バランスを崩したふりをしたのだ。
そして成宮の右足が遠心力に負けたかのように、ずるりと滑り、俺の脚道を塞いだ。
二足――技の根源は「足」であり、足の踏み方は剣道の基本的な技術。
成宮と交錯する直前、脚の力を緩め、反対側の足を素早く前方へ踏み込み、揺るぎない軸を作る。
それから、一気に交錯した自身の左足に気を流し込む。
瞬時に筋肉が硬直し強度を増す。
剣道における日々の修練は、この瞬間のためでもあったに違いない。刹那に心技体を凝縮する。
――うぉぉおおお!
俺は心の中で雄叫びをあげながら、左脚を鋭く天に向かって蹴り上げた。
乾いた砂塵が派手に舞散る。
俺の硬い
成宮の全体重を乗せた右脚は大きく跳ね上げられ躰が浮かびあがる。
躰はゆったりと宙で半回転して、背面飛びのように地面に水平になった。
神経を研ぎ澄ましていた俺にとって、一連の事象はスローモーションのように見えた。
そして成宮は重力の誘いにより、背中からグラウンドに叩きつけられた。
「ぎゃっ!」
予想だにしなかったであろう痛みを味わい、潰された蛙のような悲鳴を発する。
――
わずかにバランスが崩れたが、すぐに体勢を立て直し、すかさず速度を取り戻す。
弥生の待つテイクオーバーゾーンが目前に迫ってきた。俺は弥生とバトンパスの練習をしていなかったが、視界に映る弥生は俺と目を合わせ――いや、まるで呼吸まで合わせているようで――だから絶対に失敗しないという確信が生まれた。
弥生は駆け出していた。俺は追いながら距離を詰め手を伸ばし、弥生の手のひらにバトンをきっちりと収めた。
これは俺と弥生で作る思い出の、最後の瞬間に違いない。
弥生の背中に向かって、心の声を投げかけた。
――弥生、今回はちゃんと繋いだぜ。あとはお前の全力で駆け抜けろ!
☆
「まぁ、残念だったが仕方ねえ。でも全員走れたからいいだろ?」
体育祭の片付けをしながら俺は風見に問いかけた。
「……悪いな、僕の提案のせいだ。弥生さんを責めないでくれよな」
風見は露骨に不機嫌だったが、その理由は風見へのバトンパスを弥生が失敗したことではなく、いまだに続く俺に対する不信感の方のようだ。
「練習で見てたが、変なバトンの渡し方だったよな」
「……アンダーハンドパスに挑戦して失敗したんだ。だけどタイムを縮めるにはそれしかなかった」
だが俺は自身が成宮を蹴散らし完走できたことで十分、満足だった。
競技中にバランスを崩したのは成宮の方だったから、体裁上、俺は走行妨害とは見なされなかった。それでも相当に不条理なブーイングを受けたのだが。
ちなみに成宮は保健室に運ばれたが大した怪我ではなかったらしい。俺は風見に本題を切り出す。
「風見、すまないがこの後、手を貸して欲しい。これから弥生に大変なことが起こるはずなんだ」
すると俺の言葉に風見はすかさず反応したのだが、その表情を見た時、俺は自分が失敗を犯したことに気づいた。
「……お前、なんで『弥生』って呼び捨てにするんだよ。全然、接点がなさそうだったのに。それに、これから弥生さんの身に悪いことが起こるなんて、どうしてわかるんだよ」
憮然とした表情の風見は俺を疑念の目で見ていた。
「いや、違う。そういう意味じゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味なんだよ!」
俺はあからさまに困惑した。過去から戻ってきたと言っても信じてもらえないだろうし、なにせ時間は限られている。日没までに弥生に起きた事象を確かめ、解決を図らなければならないのだ。
「いや、やっぱり構わない。お前には頼れねえ」
すると風見は唐突に、俺のジャージの胸元をがっしりと掴んだ。
「ずっと思っていたんだ。やっぱりお前みたいな奴には綾を任せておけないんだよ!」
風見は血走った目で俺を睨みつける。その表情は、風見が俺に対して面と向かって言わなかった灰色の感情を含んでいた。
俺は薄々気づいていた。風見は常に鳥海のことを気にかけ、そばにいた俺を疎ましく思っていたことを。
「五月のあの日、僕はお前と綾が仲睦まじくしている姿を公園で見た。それなのにお前は僕に何もかも秘密にしていた。それで今度は弥生さんを手にかけるつもりかよっ!」
「――見ていたのか、五月八日、あの公園でのことを」
俺は正直、驚いた。あの日、五年後から来た鳥海は、風見に「回転木馬」を渡すことができなかったと嘆いていた。その風見が、実は隠れて俺たちの様子をうかがっていたということか。
だとすれば勘違いするのは仕方ない。しかしここで風見に事情を説明している暇はない。ホームルームの時間が近づいているから、その前に弥生の動向を確認しなければならないのだ。
「松下っ、僕は許さないからな! お前が何の説明もできなかったことを、綾にすべて伝える」
「俺は構わないぜ」
鳥海に話したところで、俺が弥生と付き合っていたことを鳥海は知っているのだ。それに五月八日に公園で抱き合っていたことなど、当の本人の記憶にないのだから、風見の見間違いとしか思われないだろう。
むしろ、俺と鳥海の間に何かあったと思い違いしているのは風見の方だ。
無言で風見を突き飛ばすと、風見はよろけグラウンドに尻餅をつく。隙をついてその場を走り去り、弥生のクラスへと向かった。
風見は俺に対して罵声を浴びせたようだったが、俺はそれを完全に無視した。
廊下の窓から食い入るように教室内を確認する。教室は喧騒で満たされているものの、弥生の姿はどこにもない。待ち続けていたところ、弥生の担任の教師が現れ、怪訝そうな顔で俺に話しかける。
「あー、早く自分の教室に戻りなさい。ホームルームが始まる時間ですよ」
「あ、はい、すみません」
素直に立ち去る振りをして廊下の陰に身を隠し教室の入口を見張る。しかし、弥生はいっこうに姿を見せなかった。
とたん、嫌な汗が吹き出してくる。
――まずい、完全に弥生を見失った。
俺はすぐさまその場を離れ、足音に気遣いながらも校舎の中を走り回る。
体育祭の日だけに教室以外の部屋はほとんど鍵が閉まっていた。音楽室、理科室、コンピューター実習室、生徒会室、それに体育館も。
鳥海の病室で、風見が弥生の様子がおかしいと言ったのは、校内での話に間違いはない。
そして立ち入れる場所はほぼすべて網羅したはずだというのに、まるで手がかりを掴むことができなかった。
男子禁制の領域である女子トイレや更衣室は立ち入れないので、耳をそばだててみたのだが、物音ひとつなかった。
途方に暮れながらも俺は探索をやめなかった。せっかく、たった一度のチャンスで五年前に戻ってきたというのに、弥生に起きた異常事態をみすみす見逃すことなどできるはずがない。
ふと、あの公園で俺にもらした鳥海の言葉が脳裏に甦る。五年後――俺と同じ時代――から過去に戻ってきた鳥海の言葉だ。
『 ――でもね、結局、あたしの願いは叶わなかった』
――過去を修正することなど、最初から不可能だってことなのだろうか。
不思議な現象が相手なだけに、知らないうちに弱気になってしまう自分がいる。
それから校舎が騒がしくなり、エントランスが生徒たちを吐き出してゆく。俺はその光景を屋上から見ていた。焦りだけが空回りし、疲労が蓄積されてゆく。西の空は次第に紅の色を濃くしており、その鮮やかな色彩は絶望の色にしか感じられなかった。
――くそっ、弥生はどこへ消えてしまったんだ。
俺は成宮の策略を乗り越えてをバトンを繋げることができたが、結局は弥生と風見の間でバトンパスが滞ってしまった。何ひとつ、特別な変化を起こすことはできなかったのかもしれない。
無情にも時間は過ぎ、生徒たちの姿もほとんど見られなくなった。弥生の姿を発見できないまま、燃えたぎる深紅の太陽が地平線に沈み込んでゆく。
もうすぐ俺は何もし得ないまま、元の時代に戻るのだろう。自分自身に落胆し、運命を呪いたくもなる。
その時だった。弥生がエントランスから姿を現したのだ。
足取りはおぼつかなく、屋上から遠目に見ても、すでに何かが起きていたことは明白だった。
――ちくしょう、俺は何もしてやれなかった!
後悔の念が嵐となって胸の中で渦巻く。弥生は俺の知らない何かにひどく苦しめられたはずだ。
――俺に、今の俺に何ができる?
必死で自問自答していたその時、俺の胸の中には灯火のような、かすかなひらめきが舞い降りた。陽はまさに地平線に消えゆく瞬間だった。
そうだ、まだ俺の「願い」は終わっていない。あとわずかでいい、時間をくれ!
ありったけの声で屋上から弥生に向かって叫ぶ。
「弥生、聞いてくれ! お前が絶望した時は、俺に会いに来てくれ! そして俺を頼ってくれ! 俺はお前を待っている、五年後の世界でな!」
すると弥生は、はたと足を止め、ゆっくりと振り向きかけた。
その瞬間、俺は目が眩むほどの光に包まれた――。
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