松下倫太郎――高校二年の秋から――・4
☆
更木先生は俺の申し出を快諾してくれた。体育祭の団体競技で、代表選手の選定は統括者の更木先生に任されていたから、早々に頼みにいったのが幸いした。
「まぁ、この時期の三年生で立候補してくる変わり者は貴重だからな。ただし他のメンバーの指名は一人だけだ」
他のクラスのメンバーを確認させてもらうと、紅組に「鳥海綾」の名前があった。そのことは当然とも、不思議とも、どちらにも思えた。
「そうしたら鳥海綾をお願いします」
俺が即決すると更木先生は露骨に怪訝そうな顔をした。
「ああ? あのちっこいのか。速そうには見えないがな。お前、知り合いか?」
「えっ……と、知り合いといえば……そうなります」
奥歯に物が挟まったような言い方になってしまったが、更木先生は別段、怪しむことなくやり過ごした。
「まぁ、俺から言っておくわ。そうすれば鳥海は断れないだろ?」
「あっ、ありがとうございます」
更木先生は教師たちの中でも唯一、俺に対して理解のある人間のようだった。常にワインレッドのジャージを纏っている、雰囲気が怪しい教師ではあるが、俺と同じはずれ者だからか、俺に偏見を持っていないように思える。
後日、更木先生から「鳥海を了承させたぞ、ちなみにあいつもメンバーをひとり指定したからな」と連絡を受けたので、俺は同じチームであるということを口実に、鳥海とコンタクトを取ろうとした。
その頃には、あの邪魔だった男――風見俊介――の姿は、鳥海の隣からは消えていた。鳥海が自分から離れるよう仕向けたのだろう、不憫な気持ちになる。
まず、帰宅途中に接触を図ろうとしたが、鳥海は俺の姿に気づくやいなや、そら恐ろしいものを見るような目をして露骨に避けてきた。
――やはり、あの公園であった鳥海は今の鳥海ではない。
警戒されるのは覚悟していたので、構わず後を追う。
鳥海と同じ電車に乗り、距離を置いて動向をうかがう。俺は目立つせいか気づかれているようで、ちらちらとこちらに目を向けている。
鳥海は電車を降り自宅へ向かう。途中、時々振り向いては足を早める。どうやら俺の尾行を不審に思っているようだ。次第に小走りになり、しまいには全力疾走となった。そして公園に逃げ込んだ。
その公園は俺が鳥海と出会った場所だった。
俺は猛ダッシュをかけて距離を詰め、公園の遊歩道で追いつき華奢な肩を掴んだ。
「きゃあっ!」
怯えて悲鳴をあげたが、鳥海の声では辺りに通らない。疑念と恐怖の表情で俺を見上げる鳥海に向かって一息でたたみかける。
「鳥海、聞いてくれ、俺は知ってるんだ、お前の病気のことも、お前が、風見俊介を好きだっていうことも、でも、将来自分がいなくなるから誰かに風見を託したいと思っていることも」
「え……」
鳥海は絶句し、そしてくりっとした眼を大きく見開いた。
「えっと、あなた、なんで、そのこと、知ってるの……?」
息を切らしながらそう言って、じわりと涙目になる。
「だけど、このことは俺しか知らない。誰にも言わないから、どうか俺を信じてほしい」
俺は自分らしくない、優しい声でそう伝えてみせた。
それから俺が鳥海と連絡を取り合うようになったのは、苦い想いを抱えていた者同士の、自然の成り行きといえた。
俺は鳥海のやり場のない気持ちを黙って聞き、俺自身の身上の不幸――といっても人災だが――についても話させてもらった。鳥海の囁き声は人を素直にさせるような効果があるようで、今まで黙していたことも抵抗なく話すことができた。
そして成宮の所業についても鳥海は傾聴し信用してくれた。それから鳥海はこんなことを語った。
「なんかね、女子間の話で聞いたことあるよ。標的にしている女子がいると、他の女子にいじめさせて追い詰めてから、自分が助けてあげて、善人のふりして騙すとか。本当かどうか知らないけれど」
成宮はファンや崇拝者が多い反面、裏には黒い噂もあって、ただそれが誰かの
鳥海は偏見にとらわれない賢さがあり、才女といわれるのも頷けた。
だから俺がかつて弥生と付き合っていたことも鳥海だけには打ち明けたし、風見が弥生に気があることも知った。
互いに風見に対しての秘密を共有することで、俺たちの間には共同意識が芽生えていた。
「でも鳥海さあ、風見に何も知らせず去るなんて悲しすぎねぇか。病気のことを話してもいいんじゃないかと俺は思うがな」
しかし鳥海は一貫して首を横に振る。
「ううん、あたしが決めたことだから。俊介には気を遣わせたくないし。だから言うのは病気を克服できてから、かな」
なんとも意地らしいと思える反面、何も知らない極楽とんぼの風見に苛立つ。
鳥海は五年後、死期が迫った時に風見に自分の「想い」を伝えなかったことを後悔するわけだが、そのことを今の鳥海に説明する訳にもいかない。死の宣告になってしまうからだ。
鳥海の「想い」が詰まった回転木馬を風見に押しつけて思い知らせてやりたかったが、「本当に信頼している人にしか渡すことができない」という制約があるらしいから、そもそも無理な話だろう。
そして、リレーのチームが発表された時、指名自体が四人のリレーとなっていたことには驚かされた。
会ってみると風見は飄々とした奴で、悪い奴ではなさそうだが、俺を訝し気に見ていたから「おう、よろしくな」と簡素な挨拶で済ませておいた。
弥生とは目が合ったが気まずさが前面に出て、互いに距離を置くしかなかった。
鳥海は風見に対して「俊介、あたし足引っ張っちゃうと思うけど頑張るから許してね」と他人行儀な挨拶をしている。
せっかくの思い出作りなんだから、もう少し風見と仲良くしたらどうかと提案したが、「でも、俊介と弥生さんの邪魔になっちゃ悪いから……」と、やはりしおらしい態度だ。
まったく、こんないたいけな女子を放っておく風見という男は、なんとも呆れる奴だ。
その後、放課後のグラウンドでバトンパスの練習を繰り返し、鳥海のパスが板についてきたところで俺は休憩を切り出した。
グラウンドの向こう側では練習を中断した風見と弥生が話し込んでいる。
鳥海は息を整えて俺にそっと耳打ちをしてきた。俺は身長差を埋めるように屈んで身を寄せる。
「あの二人ってうまくいってるのかなぁ」
「さあ、どちらも俺が詮索できる相手じゃねえからな。風見に訊いてみたらどうなんだ」
すると鳥海は黙り込んで何か考えた後、こうこぼした。
「でも俊介、さっきからこっちを気にしてるんだよね」
「お前の身が心配なんだろ。大体、俺が悪評高いことになってるからな」
「うん、多分そうだと思う。だからあたし、体育祭が終わったら、松下くんにはあんまり頼れないかなぁ」
鳥海は風見から距離を置いているが、だからといって他の誰かに甘えたりしない。これから訪れるであろう孤独に対しての心構えをしているように思える。
見える部分の肌が光り出す前に、二度と会わなくていいようにする、と言っていたからだ。
俺はたまりかねてつい、情けをかけてしまいたくなる。
「……まあ、体育祭が終わったら学校では俺のことは無視した方がいいだろう。風見も気にするだろうからな。だが、電話くらいはしてこいよ。話はいつでも聞いてやる。泣いても構わんよ」
「松下くんはとっても優しいねぇ」
俺は最近、気づいたことがある。実は自分は、思っている以上に親切な人間かもしれないということだ。事実、鳥海を助けることに生きる価値を見出しているし、そしてそんな意外な自分を少しだけ、好きになれそうな気がしている。
今の自分だったら、弥生に別れを切り出された時、嫌いだと思ったところを尋ね素直に聞き入れ修正できたのかもしれない。
俺はグラウンドの対側のベンチに座る二人に視線を向ける。
――風見俊介、か。
鳥海が一途に惚れている奴だ。俺と違って冗談が上手いだろうし、纏う空気も軽やかだ。癪だが俺にないものを持っている。
弥生には幸せになって欲しいと思う反面、他の男と親しくしている姿を目にすると胸がひどく疼く。
そして鳥海の表情に目を向けると、やはりどことなく苦しそうだった。鳥海もまた、胸の中のやるせない感情を抑えつけているのだろう。
ダブルジェラシーというのだろうか、俺たちは互いに混迷の中にいるに違いなかった。
ここまでが俺の持つ、五年前の体育祭までの記憶だった――。
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