松下倫太郎――高校二年の秋から――・3


「へへーん、あたしの言うこと、ちゃんと信用したでしょ?」


「……まあ、な。あながち嘘じゃねぇ」


 生意気な天使もどきの言うことを認めるのは癪だったが、現実の世界で証明されたことについては、否定する余地がない。しかも、夢の中で話の続きが展開されているのだからなおさらだ。


「でさ、お前の言う『お願い』ってなんなんだよ」


 正体不明の相手だけに警戒しながら尋ねる。


「じゃあさ、ちゃんと叶えてくれるよね?」


「ああ? そりゃあ聞いてから考える」


「ちぇっ、まだ納得してないんだ……男らしくないよぉ」


 天使もどきは煮え切らない返事に困惑しているのか、指先で頬をちょいちょいと掻く。


「まさか俺を天国に連れて行こうとしているのか? 来いとか言われても今はまだ困る」


「……まぁ、特定の人を連れてくのが仕事っちゃ仕事なんだけど、ね」


 一瞬、不安になった俺をよそに、アヒル口を尖らせて続ける。


「でも、あんたみたいな偏屈な奴、あたしは連れてくの嫌だよ」


 どうやら「フランダースの犬」の最終回ではないようで安堵した。そこで天使もどきは具体的な要求を切り出す。


「あたしのお願いはね、五月八日の日曜日、ある公園である人を待っててほしいの。そして、もし本当にその人が現れたら、必ず声をかけてほしいんだ。『俺がお前を助ける』ってね!」


 俺はあまりにも納得のいかない要求につい、首をひねる。


「お前の言うって誰なんだよ」


 天使もどきはにへらと笑って人差し指を立てた。その指先を自分のほっぺに当ててこういう。


「あなたの知ってる、こんな顔の女の子だよ。それじゃあ、あたしはここでおしまい」


 それからバイバイと小さく手を振って、天使もどきは夢の中から飛び去っていった。


 天使もどきが夢に現れたのは、それが最後だった――。


 五月八日の日曜日、俺は言われた通り、指定された住宅街の公園でベンチに腰を下ろし、「鳥海綾」が現れるのを待ち続けた。


 昼過ぎから待ち続けているから、かれこれ五時間になる。


 モズの群れがさえずりながら頭上を通り過ぎていった。風も冷たくなり、もうしばらくで太陽は地平線に差しかかる。


 あの天使のいうことは本当だろうか? 


 最初は信じる気持ちが強く、待つ気もあったが、通行人の中では俺の視線に警戒し足を早めるものも多く、次第に気まずくなりこの場を去りたくなってくる。


 俺は結局、赤を深めてゆく夕暮れの空をぼんやりと眺めながら、あの夢は世捨て人の妄想が生んだ偶然なのだろうと結論付けた。


 さて、そろそろ帰るとするか。 


 俺はいつもの習慣で携えていた、愛用の竹刀を仕舞い込んだ竹刀袋を手に取り腰を上げた。


 まさにその時だった。


 公園の遊歩道に「鳥海綾」の姿を発見したのだ。


 鳥海はよたよたと力なく歩いていて、それにひどく泣きじゃくっていた。まるで絶望に瀕しているようにも見えた。


 ――必ず声をかけてほしいんだ。


 天使もどきの言葉が脳裏に甦ったと同時に俺は声を張り上げていた。


「鳥海綾っ!」


 びくっと肩が飛び上がった。驚いた鳥海は振り向き、俺と目が合った。


 そしてくりっとした瞳は倍以上の大きさになったのが離れた場所からでも見てとれた。


「俺がお前の力になってやる!」


 俺が叫ぶと鳥海は泣くのをやめ、俺に向かってふらふらと歩いてきた。


 鳥海は俺のことを知るはずがない。いや、もしも知っているとすればブラックリストに載っている生徒という意味でだろう。


 だから大方、警戒するかと思ったのだが、鳥海の反応は俺が想像したものとはまったく違っていた。


「松下くん……? 本当に松下くんだぁ」


 まるで久々の再会を果たした友人のような顔をして俺に話しかけ、手を伸ばしてきた。


「鳥海、どうしたんだ、事情を話してみろ」


 目標を失った俺にとって、誰かを支えるということは、俺自身を支える意味もあった。


 だから、ためらいなど微塵もなかった。俺は鳥海の手のひらをぎゅっと握る。まるで子供のような、小さな手のひらだ。


 鳥海がなぜむせび泣いていたのか、俺にはわからない。


 けれど張り詰めていた緊張の糸が切れたようで、その場にへなへなと跪いてしまった。


 そして、俺に向かって弱々しい声でこういう。


「ねぇ、松下くん、お願いがあるの。――すごく大切なものなんだけど、これを受け取ってほしいの」


「大切なもの? それも俺に?」


 俺が答えると鳥海は手提げ鞄を開け、その中に手を差し込んだ。


 そこで取り出したのが、「回転木馬」のオブジェだった。手のひらサイズの筐体は鈍く銀色に光っている。


「これはね、心から信頼してる人にしか渡すことができないものなんだって。


 あたしよくわかってるよ、松下くんは本当は優しい人だよ。あんな噂は嘘だって。あたしの相談に乗ってくれたし、俊介に話していないことだって松下くんは知っていたしね」


 ――どういうことだ?


 俺はひどく奇妙な気分だった。初めて顔を合わせたはずの相手だというのに、鳥海は俺をまるで友人扱いだ。それもよく知ったような言い方だ。


 それに「心から信頼してる人にしか渡すことができないもの」を俺に手渡すという。


「俺がこれを受け取って、どうすればいいんだよ」


「受け取れば、きっとその意味がわかると思う。だからどうかお願い、手を出して」


 俺は天使もどきの要求とはいえ、鳥海を助けると明言した立場だ。蔑ろにはできないので黙って手を差し出す。そして回転木馬を受け取った。


 俺の手に収まった「回転木馬」は、ゆらゆらと小さく揺れただけだった。


 ――ふぅむ、ただの飾りの置物に見える。しかし、これが俺に渡す必要のある、大切なものなのか?


 その瞬間、俺は恐ろしく奇妙な感覚に襲われた。


 突然、記憶の塊のようなものが自身の中に音を立てて落ちてきたのだ。


 まさに「腑に落ちた」と言うべきかもしれない。


 それは鳥海の抱く「想い」、そのものに他ならなかった。


 ――あたし、病気だったんだ。だから長くは生きられない。人生って儚いね、でも、きっと生まれ持った運命なんだからしょうがないよ。


 ――俊介のことが心配。あたしがいなくなっても、今の俊介のままで人生を歩んでいってほしい。いい相手がいたら応援してあげなくっちゃ。


 ――最後にもう一度だけ会って、ちゃんとありがとうって言いたかった。だけど、願いは叶わなかった。


 ずっと大好きだったよ、俊介――。


「鳥海、お前……」


 俺は驚き、それ以上言葉を発することができなかった。俺が認識したものは、鳥海の聲だけではなく、鳥海の抱く心の知覚を伴っており、痛みすら瞬時に共有してしまう、そんな不思議な感覚だった。


「えへへ、伝わっちゃったかな? ――でも、このことは俊介には内緒だよ。お願いだからね」


 そう言って、鳥海は笑みを浮かべた。消え入るような悲しい笑顔だ。


 それから鳥海は俺の胸の中に崩れ落ちた。俺は壊れそうな鳥海をただ、抱きしめてやることしかできなかった。


 この抱擁が何の意味もなさないことはわかっていたけれど、せめて俺だけは鳥海の苦悩を理解してやれるという、自分なりの誠意であり矜持でもあった。


 鳥海はきっと、病気のことを誰にも言えず孤独なのだろう。そして、「俊介」――おそらくは常に一緒にいるあの男――に気を遣い、自ら身を引こうとしているに違いない。


 哀しい運命と悲痛の決心に同情しないはずはない。俺の抱く絶望すら、まるで些細な感情にしか思えなくなる。


 そして鳥海は胸の中で俺を見上げ、潤んだ瞳で『回転木馬』の不思議な力について語り始めた。


「あたしね、天使になってしまう病気らしいんだ。


 でもね、たった一度、チャンスをもらえたんだ。この『回転木馬』で一日だけ、人生をやり直すことができるはずだったの。だから今日、ここにいるの」


「――人生を、やり直すだって? そんな馬鹿な」


 俺は回転木馬に視線を向けたが、それほどの不思議な力があるとは思えない。


「うーん、でもね、あたしは松下くんが生徒会長に騙されて悪役にされたことも知ってるし、弥生さんと付き合っていたことだって」


「どっ、どうしてそのことを!?」


「松下くんが話してくれたんだよ。だって松下くんは近い将来、あたしの友だちになってくれるんだから」


 俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。正直、信じられるはずがない。しかし、鳥海の澄んだ瞳に嘘の気配はない。


 だが、固定観念を取っ払って考えれば、この目の前にいる鳥海は――


「未来の『鳥海綾』ということなのか?」


「うん、今日だけはそうなんだ。それでね、『回転木馬』を受け取った松下くんも『権利』があるから、ちゃんと『ルール』を理解してほしいんだ」


 胸の中で俺を見上げる鳥海は真剣な面持ちで、だからつくり話とは思えなかった。鳥海はその『ルール』について囁き声で語る。


「やり直せる時間は、正確には日が昇る時から沈む時まで。


 そして、この「回転木馬」は、一度使ったら、次は誰かに渡さなければいけないの。


 過去の世界で渡しても、戻ってから渡してもいいけれど、心から信頼できる人しか受け取れないんだって。


 そうして、大切な人を繋いでいくものなんだって」


「それで、その男に自分の想いを伝え、回転木馬を託したかったわけか」


 鳥海はこくりと首を縦に振る。


「――でもね、結局、あたしの願いは叶わなかった。あたしはやっぱり俊介と縁がなかったんだなぁ」


 鳥海は震えるようなため息をついた。ルールはおおむね理解できたが、正直、俺に扱える代物かどうかわからず困惑する。


 そして鳥海が泣きじゃくっていたのは、今日、「俊介」に会うことができなかったからなのだろう。


「でも、使った後のこいつを誰に渡せばいいんだ?」


「えっと……次に渡す相手は指定してはいけないことになっているの」


「どうしてだ?」


「だって、渡す相手、つまり本当に信頼できる人は、その所有者が決めなくちゃいけないことだから」


「むう、そりゃそうだよな。でも、そうやって繋いでいって、最後はどうなるんだ?」


「過去に戻って願いを叶えると、この『回転木馬』は叶った願いを蓄えていくんだって」


 鳥海は改めて息を吸い、そして鳥海なりのせいいっぱいの声でいう。


「願いがいっぱいになった回転木馬を再び手にすることができたら、が起こせるんだって」


 ――奇跡、だと?


「病気が治るとか、そういうありがちな奇跡か?」


「ううん、その『奇跡』ってどんなものか、全然わからない。


 でももう叶わないと思うし、叶っても、きっと手遅れだと思う」


 そういった鳥海は諦めの色を濃く浮かべていた。


「あたし、もうすぐ死ぬの。今から五年後で、あと数日……」


 淡々とした語り口は、すでに運命を悟っているように思えた。鳥海は五年後、この世を去る直前に、『回転木馬』の力で時間を跳躍したということなのか。


「そして回転木馬を松下くんに受け取ってもらったから、あたしのチャンスはもうおしまい。あとは……見送られるだけかな」


 その見送られる、というのは残酷な意味でしかないのだろう。鳥海の瞳からは、再び涙がこぼれ落ちていた。


「鳥海……俺は出来ることはさせてもらう。お前の『想い』は必ず伝えてやるからな」


 俺はそんなあてのない返事しかできなかった。


 次第に辺りの色彩はくすんでゆき、西の空では夕陽が地平線に吸い込まれてゆくところだった。


 鳥海は俺からそっと離れ後ずさりする。


「松下くん、最後にもうひとつ、お願いがあるんだけど……」


「なんだ、何でも言ってみろ」


「体育祭は紅組になると思うから、リレー選手に立候補してほしいの。そしてあたしがどんなに嫌がっても、あたしを選手として推薦してくれないかな。


 最初は松下くんのことを怖がると思うけど……十七歳のあたしを支えてくれたら嬉しい。


 それ、すっごく大事なことなんだ――」


「――わかった。約束する」


 俺の返事に小さな笑み浮かべた五年後の鳥海は、そうして去っていった――。


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