松下倫太郎――高校二年の秋から――・2


『倫太郎は、そんなことしてないよね』


 電話越しに聞こえるあいつの声は、絶望に瀕していた俺にとって唯一の慰めだった。普段は輪郭のくっきりした明るい声なのに、今日ばかりは気遣いが感じ取れる、やわらかくて丁寧な口調だ。


 月城高校には成宮のファンだけでなく崇拝者も多く、そのせいで皆、成宮の言うことを鵜呑みにしていた。だから俺がカツアゲの犯人だと言うは瞬く間に広まっていた。


 そのせいで俺はあいつに連絡を取ることができなかった。あいつも俺を疑っているのではないかと不安だったからだ。


 だが、あいつは俺を信じてくれていたようだ。


「するわけねーじゃん。お前がわかってくれてりゃ、それだけで俺は十分だ。


 だけどすまない、お前を全国大会に連れていくことができなくなっちまった……」


『そっか……部活、辞めちゃったんだよね』


 正確に言えば「辞めさせられた」ってことだが俺はくどくどと愚痴を言いたくない。


「説明したが、教師ってのはガチで頭が固えな。頭突きじゃ負けるぜ」


 俺自身、必死で冗談を絞り出したつもりだったが、電話の向こうは沈黙しかなかった。


 それからしばらく間があった。


『ねえ、お願いがあるの……』


 あいつらしくない、震えた吐息のような声だったから、俺は襲いかかる不安に身構え、心の準備を整えた。


 付き合い始めた時から覚悟はしていた。俺には理解できないことばっかりだったからだ。


 なぜ、俺のような無骨な男をこんな器量良しの女が気に入ってくれたのか。


 なぜ、気の利いた事のひとつもしてやらなかったのに、俺のそばにいてくれたのか。


 なぜ、暑苦しい試合の見物なのに、嫌な顔ひとつせずついてきてくれたのか。


 俺は胸に手を当てて、制服のシャツをぎゅっと握り締め、歯を食いしばった。


『ごめん、――私と別れてほしいんだ』


 ――痛い。予想していたとはいえ、鋭い刃物で胸をひと突きされたような痛みだ。俺はこんなにも痛みに敏感だったろうか。


「わかった。俺もそれで構わない。これ以上は迷惑をかけちまう」


『今までありがとう。……それからあんまり無茶しないでね』


 ――お前はいつだって優しい。俺が惚れたその優しさは、どうか大事にしてほしい。


「俺の方こそ、今まで付き合ってくれて、本当に申し訳ない」


『なんで倫太郎が謝るのよ』


 ――そんなのは男の最後の意地に決まっている。命乞いのような悪あがきはみっともなくて見せられない。散るなら花のように潔く、だ。


「気にするな、お前はいい女だ。だから俺なんかよりずっといい相手を見つけろよ、じゃあな」


 そして俺は電話を切り、わだかまりが渦巻く胸の空気を、深く、深く吐きだした。


 それが俺とあいつの、最後の会話だった。


 ――幸せになってくれよな。川端弥生。




 俺は孤独という大海に放り出された。


 もがいても、どんなにもがいても結局は沈んでいくのを止められないでいた。


 自分を支えていた、男としての矜恃のようなものが音を立てて崩れてゆく。


 脆い。きわめて脆い。俺はこんなにも脆かっただろうか。


 失うために大切なものができるなんて、運命は常に残酷でしかない。


 人間――他人だけじゃない、自分もだ――に失望した俺は、次第に呼吸し続けるだけの屍と化していった。


 大切なものをふたついっぺんに失った俺は、余した時間と行く先のない情熱をどう処理すればよいのかわからず、霧の中をさまようような日々を送っていた。


 元来、他人と接することが苦手な上に、この件をきっかけに友人と呼べる者はいなくなり――いや、もともといなかったのだろうが――だから俺を心配する者は皆無だった。


 気を遣われる方が煩わしいし、陰口を叩かれても構わないから放っておいてもらいたかった。


 だというのに、俺に干渉する者がひとり、現れた。


 それも奇妙なことに、夢の中に、だ。


 相手は純白の翼を背中に携えた小柄な女子だった。人間でいえば中学生くらいか、とにかく俺よりもだいぶ年下に見える。


 俺に気づくやいなや、目の前でふふん、といたずらっぽく笑って俺の顔を指差した。


「松下倫太郎くんだよね? ――はじめまして、かな」


 ささやくような口調で妙に馴れ馴れしい。こういう感じの鳥人間を天使というのだろうか。


 そういった類の幻想物語にはさらさら興味はなく信じてもいなかったが、妙に生々しく、そして鮮明だったから、多少は真に受けてみることにした。


「ああん? そうだがまさか俺を迎えに来たとか」


 まぁ、俺は死んだも同然だ。天使が勘違いするのも無理はねぇ。


「ううん、そうじゃなくて助けてほしい人がいてさ。――あなたの同級生なんだけど」


 よくわからないが天使は俺に用があるようだ。


「おいおい、年上の人間にモノ頼むなら、せめて『お願いします』だろ?」


「えー、あたしの方が年上だよぉ。あなたこそ、敬語使いなさいよ!」


 発言の目線は身長に反比例してだいぶ高いところからだ。


「まさかの年上だと!? 天使だから五百歳くらいとかなのか?」


「まっ、失礼極まりないわこのオトコ! だから彼女に振られるんじゃん。美人なのに残念だったわねぇ」


 天使もどきの女の子は、禁断の領域にずけずけど土足で上がり、俺の傷に容赦なく塩を塗り込んだ。


 なぜ弥生と別れたことを知っている? 俺の潜在意識だからか? しかし癇に障る態度だ、気に入らん。


「黙れ手羽先女、夢から追い出してやる!」


 すかさずその女の子を掴まえようとするが、相手は翼を羽ばたかせ空を舞い、俺の腕をするりとすり抜けた。


 なんと、その翼は一応、機能するのか。


「焼き鳥と一緒にしたなぁ、この脳みそ筋肉が!」


 天使もどきは頬をぷーっと膨らまして言い返してくる。


 そこで俺は自制し、慎重に出方をうかがうことにした。どうやらただの夢ではなさそうだし、万一、呪われたらかなわんからな。


「ほっといてくれ、二人にしかわからない事情ってもんがあるんだよ」


 とはいえ、弥生が別れを切り出した理由は俺にはわからない。いや、むしろ心当たりだらけだ。 


 俺が身を引くと天使も距離を置いてそっと着地した。鳥のように翼を折りたたむ。


「へ~え、応じる気になったかな?」


「……まぁ、聞いてから考えるさ」


「これね、考える、じゃなくて実行してもらわないと困るんだけど。


 それでね、あなたちょっと疑い深いから、まずはお願いの前にあたしの言うことを信用してもらわないといけないかな、って思って」


「どういう意味だよ」


 俺は正直、少々たじろいた。初対面だというのに俺の性格を理解しているような言い方をしたからだ。


「じゃあね、まずは月城高校の中から『鳥海綾』っていう女の子を見つけ出してほしいの。知らない人でしょ? だから実在していたら、あたしの言うことに従ってくれるよね?」


「まぁ、起きた時に覚えていたら探してみるがな」


 俺はつれない態度をとったが、やけに鮮明な夢だったから、忘れない自信があった。


 そして目を覚ました俺は、記憶が定かなうちにその名前を記録した。『鳥海綾』と。


 鳥海綾――その名の女子は確かに実在した。


 同級生で、俺のふたつ隣のクラスにいることは名簿ですぐにわかった。それから下駄箱に書いてある名前を確認した。


 俺についての悪しき噂は学校中に広まっているだろうし、なにせ俺は上背がある分、否が応でも目立ってしまう。


 話しかけても怯えさせてしまうだろうから、遠目にその下駄箱に靴を入れる女子の姿を確認しようとした。


 だが、その必要すらなかった。俺はとある女子を見た瞬間、全身の毛穴が開き、冷汗が一気に噴出した。


「おはよぉー」


 黄色い声で挨拶を交わす女子たちの中に、見覚えのある、ひときわ小柄な女子がいたのだ。


 ――夢で見た天使に瓜ふたつだ。


 そして彼女は予想通り、「鳥海綾」の下駄箱から上履きを取り出した。


 空想じみたことなど誰にも話すことはできないが、あの夢は夢ではない。現実に天使のような存在が俺に干渉しているとしか考えられなかった。


 そして俺は、「鳥海綾」という女子と、似た天使らしき存在にどんな関連があるのか調査することにした。


 それは俺が大切なものを失いできた空白を埋めるための、たったひとつの理由になっていた。


 わかったことは、「鳥海綾」は成績はかなり優秀だが運動は苦手、真面目な努力家で他人に恨まれることのないくらい温和な性格だということだ。あのおちゃらけた天使もどきとは雰囲気が明らかに違っていた。


 そして可能なら接触を図ろうとも思ったが、常に邪魔者がいて機会に恵まれなかった。


 邪魔者は同級生の男だった。気心知れた相手なのか、時には冗談を言い合い、時には真剣な眼差しで勉強に打ち込む。その二人にはたとえようのない、独特の雰囲気があった。


 まるで互いを理解し尽くしているのだが、恋人でも友人でもない、定義し難い関係、というのが俺の印象だった。


 鳥海綾は幸せそうにその男の横顔を見上げる。そして時々ふと、寂しそうな表情もする。


 おそらく、その男のことが好きなのだろう、と察しがついた。


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