風見俊介――高校三年の春から――・5
☆
体育祭の当日がやってきた。
リレーは紅・翠・藍組それぞれ学年ごとに行われるので、合計九チームが出場している。体育祭は近くの競技場を借りて行われるので、一周400メートルの大きなトラックが用いられ、半周ごとに走者が入れ替わる。
一、二年生のリレーは終了し、いよいよ僕たちの番だ。
僕はトラックの対側でスタートラインに立つ綾に視線を送る。
「位置について、用意――」
――パァーン!
雲ひとつない空に号砲が響き渡った。
綾がスタートを切ると同時に僕は心の中で声援を投げかけた。選手なので黙って見ているが、本音は叫びたい気持ちでいっぱいだ。
――頑張れ、綾っ!
綾は真剣な表情で一生懸命、手を振り足を前に進める。予想通り、スタートダッシュで後塵を拝したものの、必死に集団に食らいついてゆく。
綾の視線の先には、テイクオーバーゾーンでバトンパスを待つ松下の姿がある。
走者が次々とバトンを受け取ってゆく。すると三人目の走者がバトンを受け取ったところで、突然、女子生徒たちから悲鳴にも似た黄色い声援が沸き起こった。
なぜならバトンを受け取ったランナーが眉目秀麗の生徒会長だったからだ。
男女を問わず人気の高いカリスマ会長、その名を
綾が松下に向って近づいてくる。最後尾だったけれど、さほど差は広がっていない。細い腕を目いっぱい伸ばし、綺麗にバトンを松下へと手渡した。
――よし、綾、よく頑張った。
受け取った松下は遅れを取り戻すべく一気に加速する。隆々とした大腿四頭筋が唸りをあげるようだ。
――あいつ、わりとやるな。
重戦車のように力強く地面を蹴り速度を上げてゆく。一人、また一人と抜き、そしてコーナーに差しかかったところで生徒会長の成宮に追いついた。
――よし、行け!
コーナーを回りきったところで弥生さんが待っている。この二人のバトンパスは練習不足なだけに慎重に頼むと心の中で祈る。
ところが、テイクオーバーゾーンに達する前に、松下の身に予想だにしなかったアクシデントが起きたのだ。
成宮は松下に抜き去られる瞬間、バランスを崩しトラックの外側にずるりと足を滑らせたのだ。
ほんの一瞬の出来事だった。
滑った成宮の足が、松下の足と交錯する。つまずいた松下の重心が大きく崩れる。
トップスピードに乗っていたから、勢いそのままに体が宙に浮き上がる。
まるでスローモーションを見ているようだ。
一コマ一コマが切り取られた絵のように脳裏に焼きけられる。
――ガツンッ!
松下が膝から地面に衝突した。硬いものが砕ける音が、離れた場所にいた僕の耳にさえ届いた。
成宮はバランスを取り直し、バトンを継ぐべく走り去っていった。
各組から代表選手が出場し白熱するリレーの競技だけに皆が注目していた。だから松下のアクシデントに、グラウンド全体の空気が凍りついた。黄色い声援もぴたりと止む。
松下は苦悶の表情を浮かべて足を押さえ込み、うずくまったまま動けずにいた。うめき声をあげ、苦痛で脂汗が滴り落ちる。
次の走者だった弥生さんが一目散に松下の元に駆け寄ってくる。僕らのチームは失格が確定した。
それから更木先生ら数人の教師も駆け寄ってきた。まだ競技中だから、松下をレーンから遠ざける必要がある。
こんな形で終わるはずではなかった。久々の競技に気持ちが昂っていたし、四人で最高のリレーができたのなら、綾と気さくな関係に戻れるのではないかと期待していたというのに。
「ぐっ、本当にすまねぇ……」
松下は弥生さんに向かって、心底申し訳なさそうに謝る。弥生さんもうろたえた表情でひざまずく。
「今、先生が担架を持ってくるから動かないで、倫太郎」
――えっ?
その呼びかけを聞いて胸が不自然に脈打つ。
今、弥生さんは松下のことをファーストネームで呼んだ。
この二人、おそらくは親密な関係だ。そして僕の前ではその素振りさえ見せていない。
皆が何を考えてるのか、僕にはまるで理解することができなかった。申し合わせたような秘密を共有しているようにも思え、得体の知れない疑念が沸き起こる。
けれど僕はただ茫然と立ち尽くしていることしか出来なかった。
それから松下が救急車で搬送されていくのを見送り、体育祭は閉会を迎えた。
解散になると同時に、僕は速攻で学校を飛び出した。理由は三つあった。
ひとつ目は活躍の機会を逸した弥生さんに慰めの声をかけたかったこと。
ふたつ目は接点が希薄にならないよう、弥生さんと約束を取り付けるため。
そして三つ目は――弥生さんに松下との関係を尋ねるためだ。
松下は生徒会のブラックリストに載っているくらいの奴だから、最悪の場合、この練習期間中に弥生さんを口説いていたという可能性だってある。もしも悪事の証拠を引き出せれば、綾をあいつから引き離すことができるし、あいつが病院送りになった今なら邪魔が入ることはない。
表向きは正義感だが、個人的な感情が含まれているのはわかっている。
いち早く姿を見せたのは綾だった。病院行きとなった松下の様子を見に行くためなのだろう。
それからしばらく時間がたち、大方の生徒は帰路についたというのに、弥生さんはなかなか姿を見せなかった。僕は弥生さんを待ちながら、ふと思い出していた。
――綾ちゃんは幼馴染みなんでしょ、ちゃんと大切にしないとダメだよ。
――ほら、空に浮かぶ虹ってとっても綺麗だけど、その下にいる人たちって、虹を掲げられていることに気付けないんだよ。
どうして弥生さんはあんなことを言ったのだろうか。
まるで綾が僕にとってかけがえのない存在なのだ、とでも言いたいのだろうか。
それからしばらくして、ようやっと弥生さんが姿を見せた。
けれど、遠目でもすぐにわかるくらい、弥生さんの様子は普段とは違っていた。
ほとんどの生徒は制服に着替えて帰宅しているというのに、弥生さんだけはジャージ姿のままでいた。髪はゴム紐ひとつで雑に縛られていて、足取りはおぼつかない。近づいても僕の姿にまるで気づかず、うつろな表情で脇を通り過ぎてゆく。
考え事をしている表情ではない。放心しているというのでもない。落ち込んだというのも違う。
僕は心配になり、そして同時に嫌な予感がして、たまらず声をかけた。
「弥生さん、どうしたの……?」
声が届いて気づいた弥生さんは、ゆっくりと僕の方を振り向いた。その時の弥生さんの表情に、僕は背筋が凍りついた。
雲がかった夕暮れの光彩が浮かび上がらせる弥生さんは、生気を失っていて、そう――まるで心の中核が抉り取られたような、絶望に沈んだ顔をしていた。
歩み寄り手を差し伸べようとすると、弥生さんは拒絶するように後ずさりする。そして桃色の唇をかすかに開き、かすれた声で思いもよらない言葉を口にした。
「風見くん、もう私に近づかないで。お願いだから……」
そして虚ろな表情のまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
どうしたんだ? 何があったんだ?
体育祭が終わってからこの時間までの間に、弥生さんの身に重大な問題が起きたことは明らかだ。
「弥生さん、困ったことがあったら相談に乗るから。僕に出来ることなら何でもするから。だから……」
事態のわからない僕は、そんなふうに尋ねるのが精一杯だった。けれど弥生さんは小さく首を横に振った。
そしてうつむき、表情が栗色の髪に隠れる。
「ごめんね、風見くんが悪いんじゃないんだよ。私が選んだことだから、もう、みんなに……会わないよ……」
そして再びよろよろと歩き出す。僕に向けた背中が、触れないでほしいと頑なに拒絶しているように感じられた。
僕にはその理由がわかるはずもなく、ただ去ってゆくジャージ姿の背中を見送ることしかできなかった。
その夜、僕は迷いに迷ったものの結局、綾に電話をすることにした。
弥生さんと僕の関係については綾以外の人には明かしていなかったし、綾なら頼りになると思ったからだ。
松下の怪我を電話の口実にして気まずさを隠すことにした。
電話に出ないかもしれないと心配したが、綾のウィスパーボイスが耳に届いてほっとした。
「あっ、俊介、今日は本当、大変だったね」
綾の口調は普段と変わらない。
「そうだね。ところで綾、今日の放課後、病院に様子見に行ったのか?」
「うん、やっぱり骨折しちゃったみたいで、しばらく学校休むんだって」
「そっか、せっかくみんなで練習したのにな」
「仕方ないよ、アクシデントは。……でも俊介とこうやって話するの久しぶりだね」
「そう言われてみると、そうだよなぁ」
話ができなくなった心当たりはあるはずなのに、綾からは微塵も気まずさを感じ取れない。やはり僕は綾にとって、ただの幼馴染でしかないのだろうか。僕は本題を切り出す。
「なぁ、実は帰る時、弥生さんの様子がおかしかったんだ」
「そうなの?」
「松下が怪我したことで動揺していたのかもしれないんだけど、どうもそういうのとは違うみたいなんだ」
それとなく綾の反応をうかがう。知っていることがあれば自主的に話してくれると期待したからだ。
「喧嘩したの? 俊介、時々変なこと言うからさ」
「そういうわけじゃない。いい関係を続けていたはずだ」
論点がずれているから、たぶん心当たりはないのだろう。しかもさほど大事に捉えていないようだ。
「ふうん、ちゃんと仲良くしてたんだね。俊介もやるじゃん」
俊介も、っていうことは綾自身も松下と良い関係だ、ということなのだろうか。そう推測して、ふつふつと苛立ちの感情が沸き起こってくる。
そこで僕は探りを入れる。
「ところで、弥生さんと松下って、何か関係あるのかな?」
「……さぁ、松下くんから弥生さんの話は聞いたことないからなぁ」
まぁ、松下が弥生さんのことを綾に喋るはずはない。僕だって弥生さんとのデート中に綾のことは伏せていた。
「でもさ弥生さんが松下のこと、ファーストネームで呼んでたんだよ」
「ふぅん、弥生さんは気軽にファーストネームで呼ぶんだね。別にいいんじゃない?」
「でも僕にはそうじゃない。風見くん、って呼ばれてる」
「俊介、無駄に心配しすぎじゃない? もっと楽観的かと思ってたのに。
でもね、それはたぶん、俊介が弥生さんのことを気にしているから、そういうことが引っかかるんだよ」
綾の言うことは一理ある。綾が松下に対して疑念の目を向けてくれたらと思ったけれどそれはなかった。悪く解釈しない純粋さが仇となっている。
「そしたらあたしが言ってあげられるアドバイスは、ちゃんと弥生さんと仲良くしてね、かな」
違う、僕が欲しい返事はそんなことじゃない。
いや、その前に弥生さんの異変について尋ねたくて電話したはずなのに。
話の方向性がずれてしまい、心の中でくすぶる感情が抑えられない。
気がつくと僕は自分の制御とは無関係に、それまで呑み込んでいた言葉を吐き出していた。
「綾、本当は松下のこと、どう思ってるんだ」
僕はそう言ってしまってから、ようやっと自覚した。この感情は間違いなく嫉妬の類だということに。
そして綾の返事に僕は耳を疑った。
「えっ? 松下くんはあたしのこと、よくわかってくれてるよ。本当はすごく優しいし」
照れた様子すらなく、平然とそう言ってのけたのだ。
その言葉は僕を愕然とさせ、そして同時に気づかせた。
この電話の向こうにいる綾はもう、僕の知っている無邪気な綾じゃないのだ、と。
松下とふれあう綾の姿を想像し全身が戦慄する。体の隅から隅まで掻きむしってでも、僕を覆い尽くす不快な感情を剥がしたかった。
携帯電話を耳から離し、肩を落としてうなだれる。受話器の向こうで綾が何か言っていたけれど、そのウィスパーボイスが耳に届くはずもなく、ただ、自失呆然となっていた。
僕はその日から、綾との交流を断ち切ろうと、心に決めた――
そして最後の頼みとして、弥生さんに直接連絡を取ったが応答はなく、完全に音信不通となってしまった。
僕と話をすることを拒否しただけでなく、高校に登校すらしなくなってしまったのだ。
だから弥生さんの姿を見たのは、様子がおかしかった体育祭の帰宅時が最後だったのだ。
弥生さんが自主退学したと知ったのは、それからしばらく経ってのことだった――
何があったのかわからない僕は、その後しばらくの間、綾の動向をうかがうことにした。
これはあくまでストーカーではない、情報収集だと自分に言い聞かせていたけれど、正直、後ろめたさは否めない。
けれど気づいたのは、綾が校内で松下と一緒にいることはなかったし、帰宅時に待ち合わせをしているわけでもなかったことだ。
松下の姿を見つけても、声をかけることすらしなかった。
以来、図書室で一人、物憂げな表情でいることが多かったし、勉強も捗っていないようで、貼りだされた試験の成績もぱっとしていないようだった。
状況を勘案するに、綾と松下との関係は終わりを告げたとしか思えなかった。
けれど、ある種の頑固さがある綾のことだから、余程悔やむようなことがなければ、一度決めた相手を振るなんてあり得ないと思う。
だとすると、倫太郎が浮気し相手を乗り換えたのか、それとも綾に暴力を振るったのか。評判を考えると、さまざまな可能性が脳裏をよぎるが、いずれにせよあいつは毒を持っていたに違いない。
なんともやり場のない気持ちだ。綾は僕と疎遠になり、松下に傷つけられた。
松下を選んだことは、綾の人生一番の失敗だと思えてならない。
そして僕と綾はもう、昔のような関係に戻ることはないのだろう。
結局、高校時代は納得のいかないことばかりだったが、真面目に努力したことは報われ、進路も無難に決まった。
正答が決まっている試験というものに比べて、他人の胸中の方がよっぽど難しく不可解なものだ。そう思うと気楽に受験に挑めたという、素直に喜べない矛盾もあった。
卒業を迎えるまで、僕は綾の進路については知る機会がなかった。だから意を決して一度だけ電話をかけた。それが僕と綾の最後の会話になった。
「綾、お前、将来の進路ってちゃんと決まったのか?」
松下とは続いているはずがないと思っていたから、その点は尋ねるだけ野暮だろう。
『あ、それね。……ナイショにさせてもらっていい? そのうちわかると思います』
妙にさばさばとして、しかも丁寧な語尾だったから、僕を断固拒否する姿勢が感じ取れた。だからそれ以上、深く尋ねることができなくなる。
「そっか、じゃあ楽しみにしているとするか」
『まぁ、あたしだって今、やらなくちゃいけないことがいっぱいあって。後でじゃできないから。
だから、もしよかったら一生に一度のお願い、叶えて欲しいんだけどいいかな?』
「お? 珍しいな、綾からお願いなんて」
その一言は僕の胸の中の淡い灯火となった。もしかしたら、また以前のように仲良くしてほしいということなのか、と。
けれど綾が口にしたのは、僕の目の前を暗転させるものだった。
『あたしのこと、ちゃんと忘れてくれるかな』
――えっ?
そして言葉を返すことができないでいるうちに、がしゃっと断頭台のような冷たい音が割り入って電話は途切れ、僕と綾の関係は完全に離断された。
――綾、お前一体、どうしちゃったんだよ。
最後の最後で何の未練も匂わせることなく、きっぱりと幕を下ろした。今までの綾なら、そんな冷たい態度を取ることはいっさいなかったのに。
携帯電話を持つ手が震えて、自力で止めることができなかった。
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