風見俊介――高校三年の春から――・4


 夏が過ぎると体育祭の準備が始まる。


 運動会や体育祭といった競技イベントは、幼稚園から数えること、十五回目だ。


 そして今年が生涯最後の体育祭、ということになる。


 とはいっても、高校三年ともなれば受験勉強の方が重要なので、競技のモチベーションが高い生徒はあまりいない。


 学年によってクラス数が四クラスだったり五クラスだったりとまちまちなので、クラス別で縦割りの組分けをすることができない。だから一クラスの中で三チームを作り、他組との混成チームとなる。光の三原色から着想して紅・翠・藍組というチーム名がつけられている。


 そして僕には毎年、決まった役割が与えられる。


「おい、今年も代表やってくれよな」


 そう、廊下で声をかけてきたのは三年生担当の体育教師である更木さらき先生だ。もっさりした寝癖の黒髪に無精髭。ワインレッドのジャージをまとっていて、卒業式などのフォーマルな行事でもそのコーデは揺るがない。醸し出す雰囲気が怪しいことこのうえない、三十路の独身教師である。


「代表」とは200メートルを4人で継ぐリレーの代表選手を意味しているが、例年のことなので二回返事をする。


「今年は紅組ですよね、了解です」


 各学年の体育教師がそれぞれ組の統括を行うことになっており、更木先生はそのコーデから毎年、紅組の統括責任者になっている。誰をリレーの選手にするかは統括責任者の意向によるが、一チーム男女二人ずつという決まりがあった。


 更木先生は意味ありげに口元を緩め僕に尋ねる。


「そうか、せっかく了承してくれたんだ。やりたい奴があんまりいねぇみたいだから、お前がメンバーを推薦してもいいぞ」


 そこで僕はひらめいた。思い切って弥生さんをメンバーにしてしまおう。そうすれば周りの反感を買うことなく時間を共有できるからだ。


 実のところ五月八日のデート以来、弥生さんと顔を合わせる機会はなく、電話の会話だけとなっていた。勉強について綾に頼れなくなった僕は、受験勉強のために塾に通うことにした。結果、ハードなカリキュラムのせいで連日、束縛状態になっていたのだ。だから弥生さんと会うには大義名分が必要だった。


 夢に綾が登場したことが縁となった訳だけど、弥生さんはあの日以来、綾の夢はまるで見ていないという。


 それに学校では、やけに人目を気にするようで、僕のことを避けているようだ。けれど電話には応じてくれるし、嫌われる心当たりはまるでない。


 そこで、偶然同じチームになったように振る舞えば、周りの視線を気にすることなく会うことができる。うむ、我ながら名案だ。


「メンバーの一人は川端弥生……っと。俺から言っとくわ。そしたら断れねーだろ」


「よろしくお願いします」


 更木先生は弥生さんの名前を手帳に書き込み、ジャージのポケットに雑にねじ込んだ。見届けて心の中でよし、と頷く。


「ちょうど一週間後の放課後、グラウンドに来るようにな。他のクラスのメンバーと合流して調整しとけ」


「はい、了解しました」


 そこで僕はふと、疑問に思った。踵を返した更木先生の背中に声をかける。


「他のメンバーの二人は、もう決まってるんですか」


 振り向いた更木先生は怪訝そうな顔をしていた。


「ああ? お前知らなかったのか。お前を選手に推すのは俺の采配じゃねえぞ。お前のことを同じチームにしてほしいって指名したんだ。鳥海がな」


 ――えっ、綾が?


 僕は綾が僕を指名した意図について考えた。たぶん、思い出作りのひとつなのだろう。しかし、運動音痴なのにリレーに出場するなんて、綾はどういう腹づもりなのか。


「まぁ、鳥海も指名されたクチだけどな」


 ――なんだって? わざわざ脚の遅い綾を指名するなんて、どこの物好きだろうか。


 その瞬間、僕には綾を指名する可能性のある人間を思いついた。まさか。


 そして更木先生は思い浮かべるようにこういった。


「指名したのはあのガタイのいい奴だ。松下、って名前だったな、確か。余程暇なのか立候補してきたんだ」


 ――やはりそうだったか。


 不吉な予感が的中してしまった。僕の腹の中は、内臓がかきむしられるようなひどい不快感で満たされた。



 僕たち四人は同じ高校の同級生とは思えないほど、ひどくよそよそしかった。


 あの後、弥生さんから電話がきて、更木先生からのメンバー推薦は承諾したよ、と前向きだったけれど、残りのメンバーについて伝えると、おかしなくらい黙り込んでしまった。


 同じチームに綾がいることが気になるのだろうか。


 だとすればその感情は綾に対する嫉妬なのだろうか。


 だとすれば僕は弥生さんに好意的に思われているのだろうか。


 三段論法の楽観的推測を繰り広げていたが、僕は僕で綾と松下の動向が気になって仕方ない。あいつは綾を口説き落としていい気になっているのではないかと思いひどく胸が疼く。




 松下に対して面と向かい合うのは初めてだった。僕は背は低い方ではないが、それでも松下が鋭い目で見下ろすと肉食獣さながらに威圧的だ。弥生さんも松下を警戒しているのか、距離を置いているようだった。


 綾は僕を指名した立場だけど、気まずいのかあまり話しかけてこない。初日は「あたし足引っ張っちゃうと思うけど頑張るから許してね」としおらしさを見せただけだった。


 走者は女子からスタートし、男子、女子、そしてアンカーが男子でゴールするローカルルールとなっている。相談の末、綾が第一走者、次に松下、弥生さん、そしてアンカーは僕、という順番になった。


 松下は脚が速かったようだけど、弥生さんは人並みで、運動音痴の綾はお世辞にも速いとはいえない。去年までのリレー代表選手のスピードを想定すると、正直このチーム、勝ち目はほとんどない。けれど僕にバトンが渡る時点でのトップとの差によっては見込みはなくもない。


 そこで僕は弥生さんが実行出来そうな秘策を考えてきた。


 リレーにおいて肝心なのは円滑なバトンパスだ。


 一般的なバトンパスは「オーバーハンドパス」と呼ばれる方法で、走者が互いに腕を大きく伸ばして、手のひらの上に置くようにバトンを渡す。腕の長さ分だけ走行距離を稼げる。


 一方、次走者が手のひらを地面に向け、渡し手が振り上げるように下から上へとバトンをスイングしてパスする方法がある。「アンダーハンドパス」と呼ばれる方法で、自然な姿勢で受け取れるので、トップスピードに乗るまでの時間を早められるのだ。


 僕は後者を採用し、なるべく早くバトンを受け取り、一気にトップスピードに乗ろうと考えた。


 だからバトンパスの練習は綾と松下、それから僕と弥生さんの二組に分かれて行うことになった。


 そしてその方法を弥生さんに伝授したところ、弥生さんは呑み込みがよく、違和感のないバトンパスを身につけてくれた。


  予想以上にうまく出来たので、早めに休憩をはさむことにした。ひたいに薄く汗を浮かべた弥生さんと二人で校庭のベンチに腰をかける。


 弥生さんと二人でいられることは嬉しいはずなのに、どうしても素直に喜べない自分がいる。つい、視線が綾と松下の方に引き寄せられてしまうのだ。


 綾は本気モードなようで、綾なりの全力疾走で松下の背中を追い、細い腕をめいっぱいに伸ばしてバトンを渡していた。


 そして綾は松下と話をする時、つま先立ちで耳元に唇を近づけ、囁くように話しかけていた。松下は少しだけ身を屈めていて、その互いの距離の合わせ方がなんとも腹立たしく感じられる。どんな話をしているのか気になって仕方ない。


 けれど表情は一貫して真剣だ。ひょっとしたら一位を取ろうと意気込んでいるのかもしれない。


 弥生さんもその二人が気になっているようで、それとなく僕に尋ねてきた。


「ねえ、あの二人って前から知り合いだったのかなぁ」


「いや、松下のことは話に持ち出したことがなかったんだけど、五月にはすでに親しい間柄だったみたいだ。僕に内緒にしていたんだと思う」


 弥生さんは神妙な雰囲気で、あの五月八日のデートのようなほがらかな空気ではなかった。


「ねぇ、その後、綾の夢って見たの?」


 弥生さんは小さく首を横に振る。


「ううん、全然出てこないなぁ。せっかく風見くんとデートしたのにね」


 デートの日の朝、かかってきた電話の内容からすれば、弥生さんの夢の中に現れた綾が僕をデートに誘うように告げたはずだ。その夢は何を暗示しているのだろうか。


 そして直後、綾から僕に用があると電話がかかってきた。そのふたつは内容が矛盾するから、弥生さんの夢は夢でしかないのだろう。


「でもさ風見くん、綾ちゃんは幼馴染みなんでしょ、ちゃんと大切にしないとダメだよ」


 弥生さんは少しだけ寂しげにそんなことを口にした。楽観的三段論法の結論には合致しない言葉に戸惑う。


「いや、だからただの腐れ縁だって。結局さ、学生時代に仲の良かった友だちだって環境が変われば疎遠になっちゃうじゃん。だから幼馴染だからって……」


「そんなこと言わないでっ!」


 弥生さんは唐突に言葉を遮った。驚いた僕はつい口を閉ざす。弥生さんは口調が強かったことに気づいたようで、声を和らげて続けた。


「……風見くん、私ね、大切だって思える人ができたら、そう思えた気持ちはずっと消えないと思うよ。


 別れたり会えなくなったりしても。


 一緒にいる時ってさ、それが当たり前だって思ってるけど、いなくなったらどんなに大切だったかわかって、寂しくて仕方なくなるよ」


 淡々とそういう弥生さんは僕を諭しているようでもあり、また自分自身に言い聞かせているようでもある。


 その表情は湿り気を含んでいて、だから大切な人と別れた経験があることをほのめかしているようにも思えた。


「ほら、空に浮かぶ虹ってとっても綺麗だけど、その下にいる人たちって、虹を掲げられていることに気付けないんだよ――」


 無理して作った笑顔を見せる。


 弥生さんは、過去を懐かしみ、そして憂いているのだろうか。一人でいることが多いのはそのためだろうか。


 ――僕は、ずっと仲良くしていたいと思うよ。


 そう言ってあげようと思ったけれど、すぐさま思いとどまった。もしもそう伝えたとしても、今の僕では説得力はないだろうから。


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