風見俊介――高校三年の春から――・3
僕たちはショッピングモールを散策してからフードコートで昼食をとることにした。
二人ともハンバーガーのセットをオーダーし、テーブルに腰掛け向かい合って頬張る。僕は口の周りに派手にケチャップがついてるのを指摘され、子供みたいねと笑われたけれど、そういう弥生さんも口角が紅に染まっていた。
拭いてあげるべきか、それとも知らないふりをするか。一瞬、シェイクスピアの戯曲さながらの混迷をしたけれど、結局、弥生さんは食べ終わった後にコンパクトミラーを取り出して気づき、自分で拭っていた。
そして腕を組み、僕を上目遣いで睨んでこういう。
「本当は気づいていたでしょう、黙ってるのひどーい!」
怒っているのは演技だと見え見えだったけれど、僕もわざとらしく慌てたふりをしてみせた。弥生さんは笑いを堪えて頬を膨らませたままだ。
もちろん、そこに意図があるのは明確だった。
「じゃあ、プリンを奢ってくれたら許してあげるね」
「はい、献上いたします」
僕は参ったとばかり頭を下げたが、この甘え上手! と心の中で弥生さんを叱責した。
屋外には広い芝生の敷地があり、その片隅にはテーブルと椅子が設置されている。青空カフェだ。カウンターのレジに向かって老若男女の行列ができている。
「ぷ~り~ん~♪ ぷ~り~ん~♪」
弥生さんが浮かれて体を弾ませると、くっきりと浮かんだ胸元が揺れて僕の脳を麻痺させようとする。プリンという単語が形容詞に思えてならないのは健全な男子の宿命だから許してほしい。
煩悩に苛まされる中、ようやっとカウンターまでたどり着いた。
『おおいわっぱら農場生まれのミラクルヨード卵をたっぷり使った超絶おいしいトロトロプリン』
手にした幻のプリンはそんな長いネーミングだったけれど、「幻」とはどこにも書かれていなかった。
「やっぱり幻じゃなかったんだねぇ」
そう突っ込んでおきながらもプリンを掬い上げて口に運ぶ。納得のテイストだったようで満面の笑みを浮かべている。
「ん~、おいしい」
「ほんとだ、濃厚な味わいなのに上品だ。売れたから幻、卒業したんだねきっと」
僕が言うと、弥生さんはふと真面目な顔になった。
「卒業かぁ……ねぇ風見くんは高校生やっててどうだった?」
三年生に進級したからだろうか、そんな質問をしてきた。
高校時代は帰宅部だし、友だちとの付き合いも人並みにある。きわめて平凡な学生だけど、ひとつ変わったところは常に幼馴染というオプションがついていたことか。まあ、この場で綾の話は蛇足だ。伏せておこう。
「代わり映えしない毎日だけど楽しいよ。もう少し高校生やっててもいいと思う」
本当は、今この瞬間が高校生活で一番、アオハルしてる! と叫びたいぐらいだ。
けれど僕がそう言うと、弥生さんはふと、視線を落とした。
「私は早く卒業したいかな……」
真剣な、あるいは思いつめたようにも見える表情で口にしたその言葉は、少しでも自分の夢に近づきたい、という意味だと僕は解釈した。
その時、辺りにいた人たちが色めき立つ。皆が屋外に設置された小さなステージの上を見ている。ラフな格好をした四人の若者がいて、ひとりがショッピングモールのスタッフと言葉を交わしていた。
そしてあとの三人が、隣に停めたワゴン車の中から楽器を運び出し、手際よくステージの上に並べている。
弥生さんは目を丸くして僕にいう。
「ねえ、あの人たちってもしかすると、『ラストプラネット』の四人じゃない?」
――ラストプラネット。
確か最近、テレビの特集で見た記憶がある。人気急上昇中のバンドグループで、各地でゲリラライブを繰り広げ、その目撃情報がネットを騒がせ注目を浴びているらしい。SNSを駆使して情報を流しファンを増やす、まさに現代のアーティストだ。
ぶつっとマイクのスイッチ音が置かれたスピーカーから聞こえた。アンニュイで中二病っぽい雰囲気のボーカルがマイクを握っている。人だかりに向けて突然、声を張り上げた。
「えーマックスラッキーな皆さん、今日はここが僕らのライブ会場です!」
あたりの人々も「ラストプラネット」というバンド名を連呼している。
「今日は日曜、晴天、そして俺らはラストプラネット! それじゃあさっそくいってみYO! 最後の惑星で最高のひとときを!」
とたん、あたりの空気が熱を帯びた。本物かどうか疑わしいと思っていた人もいたけれど、お決まりのフレーズが飛び出すと疑念はあっさりと払拭された。
弥生さんは瞳をきらきらと輝かせ大興奮だ。
「うっそ、やっぱりそうだ。信じられない! 私、すごいファンなの。こんなところで会えるなんてホント奇跡!」
「ファンなんだ、それってすっげえラッキーじゃん!」
「ねぇ、最前列行きたい。急いで!」
弥生さんはすかさず僕の腕を掴む。二人で密度を増す人混みの中に駆け込んでゆく。
アナウンスはショッピングモール内にも届いていたようで、聞きつけた人々が次から次へとエントランスから流れだす。瞬く間に青空会場は人だかりとなった。
「みんな、集まってくれてありがとう。それじゃあ早速いくぜいっ!
最初は『時空ファンタジア』、一緒に歌の旅しようぜぇ!」
「うおおあっ!」
「きゃあーっ!」
男女を問わず感動の絶叫が晴れた空に響き渡る。弥生さんの声もその中に溶け込んでいた。
アップテンポなドラムが鳴り響き、辺りの空気を震わせる。早弾きのベースがメロディを一気に加速させる。そして青空に向けてボーカルの力強く澄んだ声が放たれ、聴衆の心を飲み込んでゆく。
「You have just gone!
でも忘れるな、奇跡はお前を待っているWOWWOW!
さあ、天使の羽根を焼き尽くせYEAH!
お前を縛る深紅の鎖なんて、その手でその心で断ち切ってしまえ!
I will send you my ”NEVER ENDING”……Uh……」
歌詞の意味は理解不能だが盛り上がりは最高潮だ。青空ステージに集まった人々がまるでひとつの燃料の塊となって、むせ返るような熱を発していた。
曲がクライマックスに差しかかると、全員が拳を握り、天高く突き上げる。
隣にいる弥生さんはすっかり心酔し、我を忘れて体を揺さぶり声を張り上げていた。
僕も聴衆の一人となり、遠慮をかなぐり捨てて拳を振り上げる。想像以上の熱気とリズムに、いやおうなしに心が躍る。
すごい、これぞ青春だ!
偶然がもたらした圧倒的な迫力のサウンドに包まれて、しかも隣には極上の美人女子がいる。
僕は今、疑いようもなくアオハルのど真ん中だ!
☆
最高の一日を満喫した僕は、晴れやかな気分で、それも未来への希望をお持ち帰りして帰路についていた。
「楽しかったね、また風見くんとどこか出かけたいな」という別れ際の一言がいまだに耳から離れない。
駅を降り、家へと続く住宅街の私道を悠々と歩む。途中には木々に囲まれた公園があり、その公園の遊歩道を通り抜けていくのが近道だ。高校の通学で毎日のように目にする景色だというのに、今日だけはまるで違って見えた。
夕陽がもうすぐ地平線に差しかかる時分で、木々の長い影が遠くまで伸びていた。公園の芝生は真紅に染まっていて、僕の幸せな気持ちを代弁しているかのような鮮やかな色彩だった。
僕はその木陰のベンチで、寄り添う一組のカップルの姿を目にした。普段はすぐさま目を逸らすけれど、今日は興味津々で近づいて木蔭に身を潜めた。
僕もいずれは弥生さんとカップルになるのかもしれないと妄想し、予習として観察しようとしたのだ。
視線の先には大柄な男性と小柄な女性の姿があった。男性が女性の背中に手を伸ばし、優しく抱き寄せると、小柄な女性はすっぽりと懐に包まれていた。
僕はさらに近づき、その女性がどんな表情をしているのか目を凝らしてみる。潤んだ乙女の瞳、というものが見れるかもしれないと期待したのだ。
そして男性の胸の中にもたげた顔を視認したとたん、僕は頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
――綾!
生まれてから十七年間、目にしてきたその横顔を見間違えるはずはない。
そんな事、あり得ないはずだ。
綾自身、色恋沙汰とは無縁のはずだったのに。
あれほど言い寄る男子を断ってきたじゃないか。
それに、僕には何だって相談してきたはずじゃないか。
しかも、よりによって相手の男は僕の同級生で、学内では知らないものはいない奴だった。それも悪名の高さで、という意味だ。
肉食獣のように精悍な顔つきをした奴で、確か名前は「松下倫太郎」だったな。クラスは綾とは違うはずだし課外活動でも接点は見当たらない。
松下は剣道部に所属していたが、他の生徒を恐喝して金を巻き上げようとし、それが教師に知られ退部に追い込まれた奴だ。辛うじて退学だけは免れているようだが。
生徒会ホームページの「ブラックリスト生徒」に名前と所業が堂々と出ていたからはっきりと憶えている。
だけど、そんな奴に、なぜ、綾が、どうして、こんなことに。
綾は賢明で、才女で、純粋で、真面目で、道を踏み外すようなことは決してしない。君子は危うきに近寄らないはずなのに。あんな蛮族のような男に気を許すはずなんて、あるはずがない。
でも、目前の光景は受け容れ難い事実を肯定していた。
綾が好きな男子がいたことを僕に隠していたなんて。まるで裏切られたような気持ちになる。
その時、なぜ綾が僕と弥生さんの仲を取り持とうとしたのか察しがついた。
今まで僕は綾にさまざまな面で世話になっていたけれど、綾は本当は煩わしかったんだ。
綾にとっては意中の男ができたから、僕が面倒なお荷物になってしまったんだ。
弥生さんと僕の仲を取り持とうとしたのは、僕と距離を置くための思いつきだったのだろう。
だから今朝、綾から電話がかかってきた理由もなんとなくわかった。
松下との関係を成立させる以上、僕との中途半端な腐れ縁に終止符を打とうとしていたのだろう。
義理堅い綾のことだ、ちゃんと僕に断りを入れてから松下と付き合うつもりだったに違いない。今朝、僕が綾と会うことを断ったから、伝える機会を失ってしまった、それだけのことだ。
綾が僕に見せてくれた笑顔も、僕の世話を焼いてくれた厚意も、冗談を真に受けて怒ってくれたことも、すべては僕に対する餞別だったのかもしれない。
今日一日の幸せな気分が一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。それだけではなく、今までそばに置いてあった宝物が突然、誰かに盗まれたような喪失感に襲われた。
まるで僕を窒息させかねない、ひどく重苦しい感情が湧く。
僕は松下に抱きしめられた綾の表情をうかがう。
綾は嫌がる様子などまるでなく、むしろすべてを委ねるように、その小柄な躰を倫太郎の胸に預けていた。
幼く見えるから半分子供扱いしていた綾だというのに、松下の胸の中の綾は大人の女性さながらの色気ある表情をしていた。
二人のその先を見届けることが怖くなり、思わず目を逸らす。脳裏に浮かぶ、これから訪れるであろうシーンを必死に振り払い、逃げるように公園を後にした。
それ以来、僕は綾と連絡を取ることができなくなってしまった。松下に抱きしめられていた姿を思い出しては胸が疼き、その気持ちを処理できないでいた。
けれど神様は悪戯好きらしく、どういった成り行きかわからないが、僕は再び綾、それに松下と接点を持つことになる。
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