風見俊介――高校三年の春から――・2
☆
ゴールデンウィークが明けた最初の日曜日、五月八日、しかも僕がまだ夢の半ばにいる早朝のことだった。
枕元で携帯電話が高らかに鳴り響いた。寝ぼけ
誰からだろう、と最初の数秒間は頭が回らなかった。けれど唯一の心当たりを思い出した瞬間、全身からどっと汗が吹き出した。まさか。
指の震えをなだめつつ、携帯電話の着信ボタンを押す。
電話の向こうから喜々とした声が届いた。聞き慣れないが確かに耳にしたことのある声だ。
「もしもし、風見くん……だよね?」
「あっ、はい、そうですけど」
「私よ私、ちゃんと覚えてるかな? 川端弥生。ねえ聞いてよ」
弾んだ声に予想が的中したと悟り、眠気は一気に吹き飛んだ。心臓はひどく荒ぶる。
「実はね、今日の朝、綾ちゃんが夢に出てきたの!」
おおっ! 運命が発動したかっ!
「っていうことは、また予知夢!?」
「うん、そうなの。……でも予知夢っていうよりは、これから実現しなさい、っていうことだと思うの。そこでね、相談なんだけど今、時間ある?」
「ん、まあまあ暇だけどなに?」
意図がありそうだが意味がわからないので、炭酸の抜けたサイダーのように気のない返事をして様子をうかがう。
すると携帯電話の向こうから聞こえたのは、落雷に匹敵するほどの衝撃的な答えだった。
「そしたらね、今日、私とデートしてほしいのっ!」
「デデデ、デートォッ!?」
予想外かつ突然のお誘いに、僕の心臓は一発、弾け飛んだ。
僕は脚が長く見えそうなスキニーパンツに、好青年に見えそうな白いシャツを選び、大人っぽさを醸すためにジャケットを羽織った。無きに等しいファッションセンスを最大限に振り絞った結果がこれだぞと、鏡の前でくるりと身を翻す。うん、悪くない、はずだ。
出かける準備を済ませ、ショルダーバッグを肩にかけた。その瞬間、携帯電話が鳴り響いた。
カノンのパッヘルベル。この曲は綾からの着信だ。これからは弥生さん専用の着信音も徹底してしまおうと思いながら電話を受ける。
「もしもし、なんの用?」
すると唐突に、しかも不可解な反応が返ってきた。
『あっ、俊介? 本当に俊介?』
間違いなく綾の声だったけれど、その様子は普段とはどこか違っていた。やけに切羽詰まったような雰囲気だった。
「えっ、そりゃあそうだよ。綾の名前通知されてるから、携帯からかけてるんだろ? 間違えるわけないじゃん」
『あっ、そうか、そうだよね。ははっ、よかったぁ~』
心底、安堵したような声が聞こえてきた。変な反応だな、とは思ったけれど、僕が綾のウィスパーボイスを聴き違えるはずはない。
それからしばらく、綾は沈黙していた。その不自然な間合いが事の不可解さを暗示しているようでもあった。何か、大きな違和感があるような気がしてならない。
すると綾は吐息のような小声で話し始めた。その声はかすかに震えている。
『ねえ、お願いがあるの。本当に一生のお願いなんだけど……』
「お願い? 綾からお願いなんて珍しいじゃん」
『うん。実はね……今日だけでいいから、あたしに一日、時間を貰えないかな。夕方までなんだけど』
時間を貰えないか、それも夕方までだって? いやいやそれは無理だ。さっき、弥生さんとのデートを約束したところなんだ。
綾がそういう理由はわからないが、どんな理由であってもさすがに首を縦に振ることはできない。僕の警戒心が発動する。
「やだよ、っていうかダメだよ。今日は約束があるからさ」
『ええ~っ!』
今度は派手に落胆の声を上げた。大袈裟じゃないかと思うくらいだ。
『ねえ、そこを何とかお願いできない? どうしても今日じゃなくちゃダメなのっ!』
「こっちだって今日が決戦日なんだよ! 大体お前、弥生さんと俺のことくっつけようと思ってたんじゃないか?」
『もっ、もしかして弥生さんとデートなのっ!?』
「そうだよ。来週だったら空いてるけどさ。よりによってなんで今日なんだよ」
『だって、今日しか……』
綾は再び黙り込んだ。今、一体どんな表情をしているのだろうか。綾の意図が読み取れず困惑する。
けれど綾は結局、引き下がってくれたようで声のトーンが落ちていた。
『そっかぁ……やっぱりそうなんだよなぁ。そんなに都合いいことなんて、なかったんだよ……』
独り言のぼやきのように、僕には聞こえた。
「ん? 何のこと言ってるんだよ」
『ううん、いいの。……ごめんね、わがまま言っちゃって』
「そうか、じゃあな。そしたら僕の幸運を祈ってくれ」
そういって僕から電話を切った。
後でデートの内容を綾にレポートし、ついでに謝っておけば気も済むことだろう。
☆
電車で二駅、足をのばすとオープンしたばかりの大きなショッピングモールがある。
突然のお誘いだというのに咄嗟にその場所が思い浮かんだのは、前日、ある広告が家のポストに入っていたのを見つけたからだ。
『幻のプリン、絶賛販売中! 毎日千個売れてます!』
そのことを提案すると、弥生さんは声が一オクターブ高まり、「わぁ、私それ食べてみたい!」とテンションが爆上がりしたのだ。
「でも、そんなにいっぱい売ってるんだったら全然、幻じゃないよねー」と僕が突っ込むと、「あはは、そうだね~、レア度ひっくーい!」と大笑いしていた。どうやらツボに嵌ったようで、デートは企画段階からフィーバーだ。
弥生さんとの待ち合わせの場所はショッピングモールの最寄りの駅にした。
約束の時間ちょうどに到着し、そわそわしながら待つ。
そんな僕を見つけて胸元で小さく手を振り、早足で駆け寄ってくる弥生さん。
落ち着いたブラウンのシアートップスにホワイトのワイドパンツで上手に大人っぽさを醸している。長く垂らした髪がふわりと揺れて女性の色気をふり撒いた。
「おまたせー、待った?」
「ううん、全然待っていないよ」
――これぞ、デートで定番のイントロだ!
僕はさっそく有頂天だ。このペースでは夕方頃、はたしてどこまで舞い上がってしまうのだろうか。
「風見くん、それじゃあ行こうか」
「そうだね、今日はよろしく」
弥生さんはごく自然に僕の隣に並んで歩み始める。学校ではお目にかかることのないハイヒールを履いていたから、色素の薄い瞳が僕の目線に近くて照れてしまう。ああ、呼吸が苦しすぎてもはや恍惚の領域だ。
「弥生さんのコーデってオシャレだね、ちょっと驚いた。やっぱり興味あるの?」
僕は忖度を発揮し褒め言葉を繰り出す。
「ありがと。――実は私ね、将来はデザイナーになりたいと思ってるの」
「へー、そう聞くとセンスあるの、納得できるよ」
「アパレル産業って厳しいらしいけど、色と夢に溢れた世界だなあって憧れていて」
瞳をきらきらと輝かせて夢を語る弥生さんは、学校で見かける時のすまし顔とは違って、いきいきとして見えた。どうしてギャップがあるのか気になったが、僕の前だけそうであるならば、ただの同級生よりは一歩前進だ。
「ねえ、風見くんは将来の目標ってあるの?」
質問のカウンターに僕は一瞬、ぎくっとした。具体的な将来のビジョンを描いている訳ではないからだ。印象の減点対象にならないように、とにかく繕って答える。
「最近、生物学に興味があってさ。難しいけど不思議で面白そうだな、って」
「へぇ、それでこの前、ミトコンドリアの勉強してたんだ」
綾と一緒にいた時のテキストブックを覗かれていたらしい。でも、綾の講釈で生物学に興味を持ったのは嘘ではない。
「いよいよ受験だからね、ちゃんと真面目に勉強する気だよ」
その前向きな気持ちも嘘ではない。まだ行動が伴っていないが。
「へぇー、頑張ってね。私、風見くんのこと応援してるから」
なんと、弥生さんが応援してくれるらしい。心の中では小躍りだ。けれど弥生さんが続けた言葉に僕は再びぎくっとする。
「でも風見くんのこと一番応援しているの、綾ちゃんなんじゃない? 仲良さそうで羨ましいなぁ」
僕は慌てて両手をふりふり否定する。
「あっ、それね。実はさ、親が仲良くてね」
それから僕は生前より繋がりのある互いの間柄について説明した。弥生さんに誤解をされまいととにかく必死になる。
「正直に言うと、僕と綾は誕生日が一緒なんだ。僕の母親が出産で入院した時、となりのベッドにいたのが綾のお母さんなんだ。それでおしゃべりするようになって盛り上がって、家が近所だっていうことも発覚して、無事出産して退院した後もママ友になって、たびたび行き来していたんだ。
だから僕が物心ついた頃から綾はそばにいたし、大体、幼稚園から高校まで一緒だからなぁ。つまり腐れ縁ってやつだよ」
突然、饒舌になり身振り手振りも派手になった僕が滑稽だったのだろうか、弥生さんは桜花のように鮮やかな笑みを浮かべてみせてくれた。
そこで僕は密かに鞄の中に手を差し入れ、携帯電話の電源をオフにした。綾から再び電話がかかってきて、弥生さんに綾との関係性を怪しまれるようなことがあっては一大事だからだ。
到着したショッピングモールは直線的な構造の三階建てで中央の通路が吹き抜けになっている。通路をはさんで左右にさまざまな店舗が展開されており、特にアパレルショップが多く見受けられた。
弥生さんはアパレルショップに吸い寄せられてゆく。真剣な眼差しで服を手に取り見定め始めた。服を裏から覗き、裏地や縫い合わせ方など、細部に目を行き届かせているようだった。
つい先ほどまでの笑顔とはうって変わって、服の生地を刺すような真剣な眼差しをしている。弥生さんにとっては自主研究のようだ。将来、デザイナーになりたいという気持ちは本物なのだろう。
だから僕は自分が邪魔になるといけないと思い、弥生さんに断りを入れた上で隣の店に足を運んだ。僕は僕で見たいものがあったからだ。
そのテナントは有名なスポーツショップで、目的は最新の運動靴だ。以前はスポーツショップを訪れる機会も多かったが、最近はご無沙汰していた。
僕は幼少時から足だけは速く、それが唯一の取り柄だった。中学生の頃には陸上部に所属していて、100メートル走で皆を驚かせるようなタイムを叩き出し、代表として県大会に出場したことがある。綾も応援に来てくれていた。
けれど大きな大会では凄い奴らが集まるから、それ以上先へ進むことはなかった。
担任の先生に「スポーツに力を入れている高校への推薦入学を考えないか」と勧められたけれど、丁重に断らせてもらった。
理由はそこが男子校だったからだ。綾のいない高校生活というのが、僕には奇妙にも不安にも感じられた。
ただ、一度試合に出場し真剣勝負を経験してしまったので、競技における
しばらくしてから、弥生さんは納得したような表情で戻ってきた。
「お待たせ、買わないのについ夢中になっちゃった。ちょっと迷惑だったかな」
「ああ、そしたら僕も同罪だ。スポーツ用品見てた」
「へぇ、風見くんって、なにかスポーツやっているの?」
「ん、まあ、短距離走を、ちょっとね……」
昔話なだけに、奥歯に物がはさまったような言い方になってしまう。
「へー、そうなんだ、私も少しは運動しないとなぁ。受験期って運動不足になっちゃうじゃない」
そういって僕の目の前でうーんと両手を伸ばせて背中を反らした。すると体のラインが強調されて艶めかしい。視線がつい胸元にいってしまい慌てて逸らした。
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